日本とドイツの敗戦が確実になっていた第2次世界大戦の末期1945年2月4日~11日にかけてここクリミア半島のヤルタでソ連邦のスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカ合州国のルーズヴェルトの3巨頭が会談しました。これが世界史上有名なヤルタ会談です。この会談で決められたことがその後の世界構造を定め現在に至るまで強い影響を及ぼしています。日本に直接関係のあることとしてはソ連の対日参戦、千島列島のソ連帰属などがあります。
この会談はスターリンがまだ対独戦争で自国を離れなかったということとで米英首脳にソ連邦内での開催を申し入れ、かつルーズヴェルトが病身であったため暖かい保養地であるクリミア半島のヤルタが選ばれました。会談の場所は最後のロシア皇帝ニコライ2世の別荘として1911年に建てられたリヴァーディア宮殿でした。
現在リヴァーディア宮殿は公開されていて1階はヤルタ会談の様子が再現されており2階はニコライ2世を中心とした皇帝一族関連の展示です。余談噺ですがロシア革命で退位を余儀なくされたニコライ2世はこのリヴァーディア宮殿に住むことを臨時政府に懇願したが認められませんでした。
クリミア汗国の主要な産業の一つが奴隷交易でした。オスマン帝国の従属国でもあったのでオスマン帝国のハーレムや軍への奴隷の供給がクリミア汗国の経済を支えました。中にはクリミア汗国にとらえられ奴隷としてオスマン帝国のハーレムに入り皇帝(スルタン)に見初められ皇后になりその子供が次の皇帝にのるということもありました。
ポーランド貴族の美人の姫がとらえられてクリミア汗国の最後の汗(王)のハーレムに入り汗(王)に見初められますが、姫はそれを拒否し次第に健康を害するようになります。汗(王)はそれを悲しんで「涙の泉」を作らせました。1823年ここを訪れたプーシキンが詩を読んだことで一躍有名になりました。添乗員の堤さんがこの詩の一節を読んでくれました。ご希望の方はプーシキンの詩集の邦訳もあるようなのでどうぞ。写真は「涙の泉」(今もほんの少しづつ涙が流れていました)とプーシキンの像です。
此処で昼食をいただきました。イスラームの地ですから勿論アルコール飲料でません。希望の方はノンアルコールビールを、どうぞ、でした。中近東イスラーム圏では普通のナンが出ました(写真)。2007年8月19日~31日にかけてナンとはナンぞや、に始まって世界各国のナンを紹介しているのでご覧ください
ここでのガイドさんです。もちろんイスラーム教徒のタタール人です。でもスカーフはかぶっていませんね。
蛇足をひとつ。ここはイスラーム圏ですからアラビア語「アッサラームアレイクム」のあいさつ言葉が通用しました。
5月14日の地図にクリミア半島がありますが、この地域を中心に15世紀~19世紀後半にかけてクリミア汗国(1441~1783)が繁栄を誇っていました。ジンギスカンの血筋を自称するイスラーム教スンニ派タタール人の国家です。1783年にロシアに併合され1944年には対独協力という濡れ衣でスターリンによって一人残らずウズベキスタンなどへ強制移住させられました。ソ連邦崩壊後世界各地から帰還が始まり現在ではこの地に約25万人のクリミア・タタール人が住んでいます。
このクリミア汗国の首都があったバフチサライ(庭園宮殿と言う意味)を観光しました。この宮殿は16世紀にオスマントルコ、ペルシア、イタリアの建築家によって建てられその後数回建て替えられましたが基本構造は原型のままです。写真は宮殿の入り口です。ご覧の通り沢山の観光客で賑わっていました。
黒川祐次氏は「物語 ウクライナの歴史」で次のように述べられています。「私も同地を訪れたが、現在ヨーロッパ化しているクリミアの山峡に純イスラム風の木造の宮殿が忽然と現れるのを見て何か魔法にかかったような不思議な感覚にとらわれたものである」(p80)
追記 2020年10月13日
写真はベラルーシのミンクスのホテルで見かけたリビア人の若者たちです。かなり多くの若者がホテルに宿泊していました。アッサラームアレイクムというアラブの挨拶をして一緒に朝食をしました。何故ここにこのように大勢のリビアの若者いたのでしょうね。
ウクライナのオデッサで自分はジプシーだと言って話しかけていた中年の男性がいました。ロマではなくジプシーと言ったのもよくわかりませんでした。
モルドヴァについては今回の旅行前まではワインが有名だということしか知りませんでした。1991年までソ連邦の一員であったことぐらい少しは知っていましたが恥ずかしながら隣国のルーマニアと言語もほとんど同じの同一民族の国であることは知りませんでした。したがって。両国の統一問題が常に政治問題になっているようです。
そこで、現地ガイド(写真)にあなたはルーマニアとの合併を望みますかと尋ねてみました。彼女は長々とその間の事情を説明してくれているようですが、私にはほとんど理解不能です。そこでもう一度あなた自身は統合に賛成ですか、反対ですかと尋ねました、彼女の答えはガイドとしてはその質問には答えることができないという返事でした。政治的に微妙な問題のようです。
リヴィウ夜ホテルでの夕食を終え一杯機嫌で散歩に出かけました。ホテルにほぼ隣接する市民の憩いのリノック広場がありました。多くの市民が夜の憩いを楽しんでいました。写真のような若い家族連れに出会いました。ウクライナ語の挨拶言葉を書いたメモを見ながら挨拶を交わし後は片言の英語でおぼつかない会話を交わしました。彼らはウクライナナショナリストであることが分かりました。ロシア語でなくウクライナ語での挨拶でよかったと後で思いました。その時以前ソ連邦の一員であったウズベキスタンの首都タシケント空港でのことを思い出していました。
パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語のありがとう)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ウズベキスタン語のありがとう)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」(ロシア語のさよなら)にも、「ハイール」(ウズベキスタン語のさようなら)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。
fengdanさんコメントありがとうございました。同じロシア様式なんですかね。
写真はリヴィウにあるユニエイトの元本部の聖アンドレア教会の内部です。2005年に本部はキエフに移されました。したがって5月14日の地図の説明は間違っています。「旅のデザインルーム」には訂正の申し入れをしておきました。
私には建物の説明はできませんが、添乗員の堤さんによれば正面の作りは東方正教会と同じで、少し見にくいですがベンチがあるのがカトリック様式だそうです。折衷ですね。
リヴィウは5月14日の旅程図でも分かる通りポーランドに近くウクライナでは地理的には辺境になりますが、最もウクライナ色が強くロシア語が通じにくい地域とされています。ウクライナ民族主義の拠点とされています。その象徴的な存在がユニエイト教会です。ポーランド・リトアニア共和国に支配されていた1596年にカトリックとロシア正教会の妥協の産物として成立し、東方正教会の典礼(儀式)を守りながらローマカトリック教皇の権威に従うという珍しい宗派です。ウクライナ・カトリックとかギリシア・カトリック、東方カトリック教会などとも呼ばれており今ではロシア正教会とは一線を画しウクライナ民族主義の一端を担っています。
このリヴィウでのガイドのテイニアさん(写真)はやはりユニエイトでした。