エチュードの頃

思いつきを書きとめておくために。

自転車ダイエット。(その6)

2010-10-24 | 減量
2ヶ月が経過しています。


体重は77kg台で、スタート時からおよそ2kg減少。
1ヶ月あたり1kgの割で下げてきています。
これくらい減ってくると、見た目にも引き締まり感が出てきたのが分かります。
腹部の皮下脂肪はまだまだ存在感を誇示しますが、左右の幅が締まってきた感じ。
数値だけでなく外観に現れてくるとやはり嬉しいものです。


結局、これは自転車に乗ることに抵抗のない方なら鉄板のダイエット法ではないかと。
もちろん現時点で言ってしまうのはやや時期尚早とは思いますが。
しかし多くの方が体験されていることでもあり、正しく実践すれば効果が出ることは間違いないでしょう。


食事量は相変わらず、あまり変動はありません。
というか正直なところ
「これだけ運動したんだから少し余計に食べてみたい」
願望は確かに顔を出しますが、それまでの生活で体重が下がらなかったところに自転車乗りを持ち込んでようやく下がり始めたわけなので、余計に食べたら全てが終わりだと厳に戒めております。


さて、いかにしてもいい加減近場コースに飽きてきまして。
ぼちぼち1回の距離を伸ばす試みを始めております。
とりあえずは仕事が休みの日に限り、最も近い都市までの往復40km弱を走ることに。

複数あるルートの中でも、遠回りながらアップダウンをなるべく避けるコースで行くと疲労もそれほど残らず、基本的に休憩なしで2時間ほどで帰ってきます。


街中に出ると違う楽しさがありますね。

信号もロクにないような田舎道は、走りやすくスピードも出せますが何しろ単調で飽きやすい。
一方市街地だと人も車も多く危険度は上がりますが、どんどん変わる景色に走っている実感がわいてとにかく楽しいのです。

それに普段の近場コースでは走ることにしか目的が見出せませんが、そこそこ栄えている地域まで足を延ばすことができれば、ちょっとした趣味の買い物等も可能になります。

せっかく自転車に乗るのなら、単なる運動でなく少しでも付加価値を乗せたいものだと…
そういうところが貧乏臭いと言われればそうなのですが…
でも都内にいた頃は日常の用足しは全部自転車だったんですけどね。
(もちろん距離の感覚は全然違いますが)

ちなみに、地元スーパーやコンビニへのちょい乗りにはすでに自転車を活用し始めました。ただ距離が短すぎる※のと日用品の調達に限られるのが残念。

※以前はその距離でさえ自動車が当たり前だったわけですから、それなりに体力とか自分の中の常識なんかが変化してきているのが分かります。



ところで、減量とは別にもうひとつの目的だった大森ポタリング。
9~10月の程良い秋晴れの日に出掛けられればと思っていましたが、どうも自転車乗りに夢中になって機を逸してしまいました。

まあ、まだまだ減量の余地もあることですし時期を伺うことにします。
(真冬の澄み切った空の大森もまた良いんですけれども…)
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折り返し地点だった。

2010-10-09 | 思考
さすがに四十を過ぎると、普通の寿命なら半分まで来てしまった、と考えざるを得ないわけでして。



K-STAFFのサイトで新車のままに保管されていたSVX S4が売りに出ていました。
走行距離わずかに「326km」。
……

いるんですね世の中にはこういう方が。
そこまで維持されてきた執念たるや半端ではない。


自分もSVX(に限らずいろんなモノ)への執着で、家族からは随分キモがられているわけですが。
しかしCDあたりならいざ知らず
(普段用と保存用に別途用意する、とかいう奴ですね)
さすがに耐久消費財クラスを丸ごと保存というのは経済的に無理。

いや経済的とかそういう話ではなくて。


注目すべきは、ここへ来て手放すに至ったという心境の変化です。

勝手な想像ですが、そのS4の人も自分と同じかそれ以上、そこそこの年齢になられたのではないか?と。


やはり自分の年齢というか、正確には自分の残り時間に目が向くと、それまでの熱意の方向性から現実味が薄れてくるのではないかと。

そもそも、そういう新品状態を維持する執念というのはどこから来ていたのか。


それは、やっぱり若さだったのではないかと。


20代、も少し引っ張って30代の頃までは、まだまだ人生の終わりなど空想上の出来事でしかなくて。
そんな年頃の人が物欲に囚われれば、今手にしているアレにもコレにも永遠の夢を託したりして。
ただただその生命を維持することにのみ躍起になっていたりして。


ですが、これまで過ごしてきた時間よりも明らかに余命のほうが短くなってくると、そういう必死さがふと空しくなってきたりして。

そして狂ったように守ってきたそれらのものの末路を思うと。


老人ホームに勤めていたりすると、亡くなった方の私物が遺族の手によって、しばしば感傷もなくゴミに分類される場面を見るものです。
それでつくづく、思い入れとはその人止まりなんだなと。

思い出のアルバムでさえ、果たして孫の代まで存在価値があるのやら、と。



──なんてネガティブな考えがわいて出るのも、実はこのところ色々と我が執着物が壊れているからだったりします。

一番の衝撃は、大学生の頃に買ってその後も我が家の居間で主役を張っていたソニーKX-21HV1(プロフィール・プロ)が突然映らなくなったこと。
87年製ですから23年も使えたわけで、どうせ来年は地デジ化だし新聞広告でも「もう使うな」とお願いされていたことだし、ちょうど頃合いではあったのですが…





※以上記したことはあくまでも自分を顧みての駄文であり、S4の人を貶める意図は一切ありません。しかしもしも不遜に読める文面でしたらお詫び致します。
(読み返してみてふと不安になったので)

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