ついに来ました。
画面左端の1cmほどがタッチ切れ症状になってしまいました。
たまたま何か検索しようとして文字入力したら、「a」を打ったつもりが「s」になっていて(qwerty配列)。
打ち間違いではなく「a」が入力できないことを確認し、ああこの時が来てしまったのだなあと。
5年前に発症していたら多分液晶パネル交換に踏み切ったんでしょうが。
今この状況でやるかというとですね。
パーツはまだ入手できそうですが、リスクを冒してパネル交換したところで、普段使いできるという意味においての実用性はさすがに厳しくなりましたし。
さりとて動態保存しなきゃと意気込むほどのコレクターでもないし
(考えてみたら動態保存はもう1台のミクスペリアでやってるのでしたが笑)、
かといってこのさい断捨離!というほどの割り切りも持ち合わせていませんし。
タッチ切れで大半のアプリが使いづらくなってしまった中、唯一FlipClockはそれほど支障なく使えるアプリです。
実はこのアプリはすでに1年以上連続使用しているのですが、たまにGoogleアカウントの認証確認通知で画面が消えてることがあるぐらいで、卓上時計としての安定性は抜群です。
子供の頃にナショナルのパタパタ時計を結構気に入って使っていたことがあり、このアプリはそれとフォントが似ていてちょっとノスタルジックな気分も満たしてくれています。
さて。
断捨離もままならぬまま齢を重ねておりますが、たまにヤフオクなんかでレトロな商品を目にしてしまうとつい心が揺らいでしまいます。
かつて憧れたラジカセやミニコンポ。諸々のホビー商品。なんなら自動車までも。
しかもそれがジャンクなら、なかなかにお手軽な価格設定だったりして。
この思考回路は、それらが現役で売られていた当時、カタログや雑誌に見入りながら
「これが手許に来たらどんなに幸せだろう」
とさんざん夢想してきた体験から形成されているわけです。
当時なら悩み抜いて厳選した1点を大枚はたいて手に入れたものですが、今ならジャンクになったそれらの品々を、1点ならずとも見つけ次第入手できてしまうのです。
しかし若い頃ならともかく、終活の準備も視野に入ってきたというのに物欲に任せてモノを増やしたところで、残る家族が困るだけだし。
と強く自戒しています。
だいたい、衝動的な懐かしさで手許に置いても、すぐまた次のが欲しくなるに決まっているし。
際限がないのです。
収集癖にブレーキをかけるのは、ビデオカセットやレーザーディスクといった媒体規格の寿命の短さも影響しています。
かつてテレビ番組などを一生懸命録りためたり、映画をLDで収集したりしていましたが、規格そのものが20年程度で消えてしまう悲劇を経験しますとね。
新しい媒体にコピーしたり買い直したり。
それじゃキリがないよなぁ…と我に返るわけで。
ダビング10など、記録のデジタル化に伴うユーザー制限の動きも水を差すには十分でしたが。
歳を取って、コンテンツと自分自身の変化に気づいたことも大きいです。
若い頃はいろいろなコンテンツを「老後までもゆっくり楽しみたいから」という思いがあって集めていたわけですが、実際にその後を生きてみると時代ごとにどんどん新しい試みが成されるし、自分の側も意外とそれに順応していくもので、わざわざ古いものを貯めておかなくても楽しみには全然不自由しないんですよね…
などとまた愚にもつかぬことをめぐらせつつ、今年もまた「にっぽんの歌」と「孤独のグルメ」で締めることといたします。
どうぞ皆様よいお年をお迎えください。