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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

「12C-150」竜王山古墳群

2014年12月20日 | 古墳
12C-150玄室
 登山道脇の石室です 撮影日;2014.11.30

 羨道は破壊されていますが、玄室はほぼ完存しています
 径10mほどの円墳と思われます

 玄室長3.5mほど・幅1.5m・高さ3mほどの天井の高い石室です
 両袖式の横穴式石室です
 玄門の下に閉塞石らしき石材が残っています

 ↓↓遺跡地図の「12C-150」
12C-150 12C-137
 
 少し登っていった登山道の右手に玄室奥の天井部分が大きく開いた古墳↑↑が有ります
 「12C-137」です
 開口部は西側ですが、羨道部はほとんど埋まっています
 幅2m弱、高さ2.5m、玄室長4m程
 両袖式で、やや持ち送りのある石室です

12C-137開口部 12C-137玄室内
 
 「12C-150」の少し下にも石室の側壁が露出しています
 「12C-10」だと思います 

★所在地;天理市柳本町芝尾(N;34.33.19 E;135.52.14) MAP
★交通;竜王山古墳群を通る登山道の中間辺りに有ります
★見学;自由
★問合せ;


長岳寺奥の院横の古墳

2014年12月19日 | 古墳
12C-96奥壁
 群中最も高所に有る横穴式石室墳です 撮影日;2014.11.30

 竜王山古墳群の一基(遺跡地図の「12C-96」)です
 やや孤立して存在
 長岳寺奥の院の不動石仏から北へ60m程の所に開口しています

 径15mほどの円墳で、山道の北側、笹薮の中に有ります
 開口部は笹竹で覆われ、見過ごしやすいです
 (以前訪問時には全く気づきませんでした)

12C-96開口部 12C-96羨道

 羨道も大きく、長2mほど(元はもっと長かったと思われます)
 比較的楽に入室できます
 玄室長約4m・幅約1.6m・高さ約2.5m
 持ち送りは、あまり見られません 

12C-96袖部 12C-96天井

★所在地;天理市柳本町宿ノ谷
★交通;長岳寺より 2kmほど
★駐車場;長岳寺又は崇神天皇陵に無料P有り
★見学;自由
★問合せ;


長岳寺奥の院
長岳寺奥の院入口 長岳寺奥の院不動
 ↑↑ここから北へ約60mほど行くと石室が開口しています

「15A-76」鏡皇女陵≪再訪≫

2014年12月13日 | 古墳
鏡王女墓
 「延喜諸陵式」に載る『鏡女王・押坂墓』です 撮影日;2014.11.20

 径15mの円墳です
 上円下方墳との説もあるようです

 一見、宮内庁管轄のように見えますが、今は地元の忍阪区で管理されています
 その為、墳丘への立ち入りは可能です
 発掘調査がされてないので詳細は全く不明です

 築造時期も特定できませんが、風水思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています

鏡王女墓前 鏡王女墓墳丘

 鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています
 はじめ天智天皇の妃で、のちに藤原鎌足の妻となっているようです

鏡王女万葉歌碑 鏡王女万葉歌碑説明版

 「舒明天皇陵」前の小川の中に鏡王女・万葉歌碑が有ります
 犬養孝氏揮毫による
 『秋山の 樹(こ)の下隠(がく)り逝(ゆ)く水の  吾(われ)こそ益(ま)さめ み思ひよりは』(巻2-92)
 この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡女王に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた一首であるといわれています

★所在地;鏡王女墓参照


忍坂古墳群≪再訪≫

2014年12月10日 | 古墳

 珍しい六角形に石室が見所です 撮影日;2014.11.20

 忍坂古墳群は住宅地開発の為消滅していますが、4基が朝倉台2号公園の北側斜面に移築保存されています
 西側から9号墳・8号墳・2号墳・一番奥が1号墳です

 ○1号墳
忍坂1号墳東より
 外鎌山から伸びる尾根の南東端に位置していました
 径7mの円墳
 南に開口する片袖式の横穴式石室が有りました
 石室規模は現存長で全長約4.5m、玄室長3.5m・幅約1.7m
 墳丘の殆どが流失しており、羨道も既に失われていました
忍坂1号墳開口部 忍坂1号墳石室 
 玄室床面は2層あり追葬の痕跡が有ります
 (築造当初は角礫が玄室全面に敷かれていたようです)
 出土遺物は築造当初のものとして鉄鏃・馬具・飾り金具・鉄釘・須恵器等
 追葬時のものとして鉄釘・須恵器・土師器
忍坂1号墳丘 忍坂1号墳上から 
 土器や石室の形態から6世紀後半頃の築造と考えられ7世紀中葉頃に追葬されているようです

 ○2号墳
忍坂2号墳
 1号墳の西19mに位置した径13mの円墳です
 南南西に開口する両袖式横穴式石室で天井石と羨道部は失われていました
 規模は現存で全長4.6m、玄室長3.6m・幅約1.85m
忍坂2号墳開口部 忍坂2号墳石室
 玄室内で6体分の頭蓋骨が検出されているそうです
 出土遺物は金環・鉄刀・鉄釘・刀子・須恵器・土師器など
忍坂2号墳丘 忍坂2号墳上から
 6世紀末~7世紀初め頃の築造(7世紀中葉~後半にかけて追葬)

 ○8号墳
忍坂8号墳石室
 我が国で初めて発見された6角形の平面形の石室を持つ古墳です
 1号墳から約190mの外鎌山から西に伸びる尾根の南斜面に斜面上方を削平し南側に盛土して築かれていました
 墳丘は開墾のため盛土を全て失い南半分は消失していました
 径約12mの円墳と思われます(多角形墳の可能性も有り)
 墳丘の周囲には幅約3mの濠を巡らせていました
忍坂8号墳丘 忍坂8号墳上から
 埋葬施設は最下段の石材が一部残存(南半分は既に失われていました)
 南西に開口していたと思われます
 榛原石(室生安山岩)による磚槨式の横穴式石室です
忍坂8号墳
 出土遺物は、石室内床面には砂利層が敷かれ上面より被葬者の可能性もある歯1個・銅製釘・ガラス玉・須恵器
 周濠より土師器甕1点
 砂利層の下には板石によってつくられた暗渠状の排水施設も確認されています
 更に石室周囲にも排水施設が設けられていました
 築造時期は7世紀中葉~後半と考えられています
 
 ○9号墳
忍坂9号墳 忍坂9号墳石室
 8号墳と隣接して築かれていました
 9号墳も南半分は無くなっていましが、墳丘の規模は8号墳とほぼ同規模と推定されます
 埋葬施設も8号墳と同じ磚槨式石室です
 奥壁と右側壁の一部しか残存していませんが、長方形の平面プランのようです
 出土遺物は周濠内から小形の土師器の甕が見つかっています
忍坂9号墳丘 忍坂9号墳上から 
 築造の時期は7世紀後半~末と推定されています

★所在地など;忍阪古墳群参照


アカサカ古墳

2014年11月17日 | 古墳
アカサカ古墳
 谷脇古墳から300mほど先の森の中に有る古墳です 撮影日;2014.11.02

 遺跡地図では道の北側の「15D-60」がアカサカ古墳となっていますが
 道の南側にある「15D-62」の位置に有る古墳がそうだと思います

 全長52mの前方後円墳です
 後円部径29m・高約6m、前方部幅39m・長約27m・高6.5m、くびれ幅約17m

アカサカ古墳金毘羅 アカサカ古墳後円部 

 埋葬施設は横穴式石室が有ったようです(南西方向に開口?)
 墳丘上に金比羅大権現の自然石が祀られ、その後に石組みが残っています
 石室の側壁でしょうか?

 埴輪は未確認
 築造は6世紀中葉ごろと推定されています

ニコ塚古墳
 道を挟んですぐ北側の「15D-61」の位置に有る古墳です
 ニコ塚古墳だと思います

 比較的良好に墳丘が残っています
 全長50.5mの前方後円墳
 後円部の径25m・前方部の最大幅は20.5m

 名前から推測すると、かつては二つの石室が在ったのでしょうか?

ニコ塚古墳墳丘 ニコ塚古墳墳頂 

★所在地;宇陀市大宇陀守道元下小字アカサカ
★交通;近鉄榛原駅より バスで大宇陀下車 徒歩25分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;


 谷脇古墳へ再訪
谷脇古墳墳丘
 羨道に対して横長の玄室と言う、珍しいタイプの横穴式石室です
 この石棺に二人の成人が葬られていました(かなり狭いですヨ)
谷脇古墳袖部 谷脇古墳羨道 
 この時期は、まだカマドウマがたくさんいますね
谷脇古墳石棺

南阿田大塚山古墳【再訪】

2014年11月13日 | 古墳
南阿田大塚山古墳石室
 南阿太第2号墳「19D-79」とも称されます 撮影日;2014.10.26

 全長30mの前方後円墳ですが、前方部幅が9m程しかなく帆立貝式と呼ばれる古墳です
 南阿田集落の南側、吉野川右岸の小高い場所に築かれています
 古墳を囲うフェンスには住所が書かれています(珍しいです)

南阿田大塚山古墳開口部 南阿田大塚山古墳羨道

 県史跡(昭和56年3月17日指定)
 五條文化博物館に遺物が展示されています

南阿田大塚山古墳奥壁 南阿田大塚山古墳石室天井

 登っていく途中に小さな円墳が有ります
 南阿太第3号墳「19D-58」でしょうか?
 径2m・高さ1~2mほど(元は5m以上有ったようです?)の円墳 

南阿太第3号墳
★所在地;五條市南阿田町字大塚437
★交通;前回訪問時の記事⇒南阿田大塚山古墳参照


太秦古墳群

2014年06月12日 | 古墳
太秦古墳群
 古墳時代中期から後期にかけての群集墳と考えられています 撮影日;2014.05.25

 復元された古墳は、調査地西側で見つかった「18号墳」(一辺約9mの方墳)です 

 太秦(うずまさ)古墳群は、寝屋川市東部の丘陵上に所在する古墳群です
 付近には小金塚・向ヒ塚・廻し塚・モロ塚・上ノ山・墓ノ山・松谷山・段谷山など古墳の存在を窺わせる「塚」や「山」のつく小字名が知られます
 かつては、かなりの広がりのある古墳群が存在したようです

太秦古墳群説明版 第二京阪道路建設による事前調査で尾根上に古墳の周溝と考えられる遺構が多数確認されました
 古墳時代中期から後期にかけての墳丘を削平された小規模な古墳25基が発掘されています
 尾根上で検出されており、太秦古墳群の尾支群と呼ばれます

 一辺又は径4~14mの小規模な墳丘の古墳群です
 主体部が明らかにされたのは1基「3号墳」のみで、木棺直葬でした
 2基「8・17号墳」で円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土

★所在地;寝屋川市太秦高塚町
★交通;JR東寝屋川駅下車 徒歩10分
★駐車場;寝屋川公園のP 徒歩5分
★見学;自由
★問合せ;


太秦高塚古墳「トノ山古墳」

2014年06月11日 | 古墳
太秦高塚古墳
 太秦古墳群では墳丘が完全に残る唯一の古墳です 撮影日;2014.05.25

 径37m・高さ6m(深さ2mの周濠が有り、もっと高く見えます)の二段築製の円墳です
 北西部に造り出しが有ります

 墳丘のテラスの部分には円筒埴輪列、造り出し部でも円筒埴輪列が確認されています
 他に人物・家・盾・鶏・水鳥などの形象埴輪も出土しました
 埋葬施設からは、短甲・鏃・斧・馬具などの副葬品が出土しています

 出土物の性格から、この地域で活躍した渡来系の騎馬術を先駆けて取り入れた武人の墓と推定されています
 築造は5世紀後半と考えられます

太秦高塚古墳造り出し 太秦高塚古墳墳頂

 墳頂部には竪穴式の埋葬施設が在りました
 (コンクリートで場所が分かるようにして有ります)

 この古墳には二つの伝承が有ります
 一つは「スクネの墓」と云われ「野見宿禰の墓」と伝承されています
 もう一つは神武天皇の東征軍将軍の一人の墓であるとも伝えられます

 太秦高塚古墳は平成9年11月3日に寝屋川市の史跡に指定されています
 平成14年4月1日に「太秦高塚古墳公園」として整備保存され、開園しています 

★所在地;寝屋川市太秦高塚町358付近
★交通;JR東寝屋川駅下車 徒歩15分
★駐車場;スペース有り
★見学;自由
★問合せ;072-838-0188 (寝屋川市教育委員会)


寝屋古墳

2014年06月10日 | 古墳
寝屋古墳
 幅2.5mの間口の広い横穴式石室が開口しています 撮影日;2014.05.25

 打上川右岸の南東に傾斜する斜面に立地し、「大谷古墳」とも呼ばれます
 径約22m(周濠を含めると30mほど)、高さ約5mの円墳です
 以前は、財団法人大阪結核療養所敷地内の雑木林でしたが、現在は公園として整備され、古墳も修復されています

寝屋古墳石室 寝屋古墳墳丘

 南側に横穴式石室が開口しています
 復元長は10m前後と推定されます
 現状では長さ5.5m・高さ1.2mで、奥壁幅は2.5m有ります
 幅の広い石室を造るには、より高度の造成技術が必要で、考古学的価値の大きい古墳です

 横穴式石室は府内でも数少なく、北河内では最大規模です
 築造は6世紀末から7世紀初めと考えられています
 被葬者は広範な地域を治めた有力な豪族と推測されています  

★所在地;寝屋川市寝屋川公園2370
★交通;JR東寝屋川駅下車 徒歩10分
★駐車場;有ります
★見学;自由 (石室内は自己責任で)
★問合せ;


石宝殿古墳

2014年06月08日 | 古墳
石宝殿古墳
 巨大な横口式石槨が露出しています 撮影日;2014.05.25

 生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれています
 封土は流失し規模は不明です
 方墳だったようですが、八角形墳の可能性が有ります

 北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳です
 須恵器の小片が出土していて、7世紀中頃の築造と考えられています

石宝殿古墳石槨 石宝殿古墳石槨内部

 主体部の横口式石槨は2石を組み合わせてあります
 上面を平坦に加工した底石(下石)の上に、直径3m・高さ1.5mの埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねています
 内部は幅0.9m・高さ0.8m・奥行き2.2mで、入口部分は幅0.5mとせまくなっています
 入口部分の左側には上下面に丸いくぼみがあり、この部分に軸をはめ込む扉状の施設があったと推定されます
 玄室部の前面には板状の2石が平行に建てられていて、羨道部を形成しています

 昭和48年に国の史跡に指定されています

 同じような構造の横口式石槨墳は、御坊山3号墳鬼の爼・雪隠しかなく、きわめて特異な形状のものです

石宝殿古墳横 石宝殿古墳石標

 石槨の前に「天岩戸大日如来」と刻まれた石標が有ります
 元禄4年(1691)明光寺の承誉上人が、石宝殿古墳は天岩戸であるとの伝承から建てたそうです
 (明光寺の山号は天照山です)

 石槨の背後には3個の石が一列に並んでいます
 昭和63年の発掘調査で、この列石の西側に続く石が埋っていることが確認されました
 この石と列石との設置角は135°で、この石を古墳の外側のラインにすると、古墳の平面形が八角形になる可能性があります

 金銅壺が安永3年(1774)に掘出され(この古墳の被埋葬者の骨壷か否かは不明)、明光寺の隣の極楽寺の境内に深く埋め戻したと伝えられます 

★所在地;寝屋川市打上1875-1(打上神社)
★交通;JR東寝屋川駅下車 徒歩10分
★駐車場;神社前にスペース有り
★見学;自由
★問合せ;