素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)ー14

2019年04月26日 11時48分55秒 | 再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)

第Ⅰ章 太古の昔、北の大地十勝平野にゾウがいた

 ―旧忠類村から発掘されたナウマンゾウ―

 

 

 (6)化石発掘の意義

 

 ⅰ)忠類産ナウマンゾウの化石

 北海道十勝平野旧忠類村で発見された30万年乃至12万年前から2万年前の太古のナウマンゾウの化石の発掘は、全国的にも大きな関心を呼びました。これまでに何度も述べたことですが1969年10月の第一次調査に続いて、1970年6月には第二次調査が行われました。 この調査で発掘されたナウマンゾウの化石は、成獣(大人のゾウ)1体分に相当する化石の大部分が発掘されたのですが、第二次発掘調査の学術的意義は、極寒の北海道で実にゾウ1体分丸ごと発掘できたことでした。

 また、第一次発掘調査の際には、ナウマンゾウの化石の周りの様々な環境等の観察やその分析が十分ではなかったこともあって、第二次発掘調査では一次調査で十分とはいえなかったナウマン象の古生態、死因、さらには当時の気象(古気象)も含めた古環境、そしていわれているように30万年乃至12万年前から2万年前まで、北海道十勝平野忠類近辺に生息していたナウマンゾウが北の大地、北海道へどのようにして渡来したのか、ゾウが歩いた道程(みちのり)についても明らかにしなくてはなりません。また、もう一つ大事なことは、忠類に人が住むようになったのはいつ頃のことなのか、ということです。加えて、人とゾウの間の接触関係についても考えて見る必要があるのです。

 発掘に当たった専門家の先生方の所見によりますと、ナウマンゾウの化石は、地表から約15メートルを掘り下げた泥炭層に包まれるように眠っていたそうです。その化石の上には、約10メートルの礫層があり、地表に近い層20センチの深さに支笏火山灰が覆っていたといわれています。忠類産ナウマンゾウ化石発掘調査が有する意義は、発掘の過程で得られる様々な知見にあると考えられます。たとえば、忠類産ナウマンゾウの化石を観察した結果からは、ハンター(人類)によって食料として捕獲、解体された後に廃棄された骨などの化石ではなかったことがはっきりしていることです。発掘後の専門家による研究の結果判明したことは、発掘されたゾウは、健康体の成獣でオスだったということです。

 忠類産の例は、沼などの餌場、水飲み場に入り、沼に足を取られ自力では動きがとれなくなり、命を落とした可能性が高いと推察されています。

 忠類産ナウマンゾウ化石の第二次発掘調査は、一体分のゾウ化石の大部分を掘り出すことに成功しており、その意味では十分な成果が得られたことになります。しかし、第二次発掘調査が、「発掘」そのものに重点をおいていましたので、発掘された化石から、生息していた時代のゾウの古生態、ゾウを死に至らしめた原因の解析など、そして化石が発掘された周辺の古環境の観察の記録などが十分に行われていなかったことなど、後になって反省点がいくつも指摘されました。それらの反省点を克服するには第三次の発掘調査が必要になったのです。

 ⅱ)第三次発掘調査の意義

 ところで、北海道十勝平野の旧忠類村晩成地区における道路工事の現場から発見されたナウマンゾウの臼歯は、調査が進むにつれて世紀の発見として、従来の古生物学的な研究にも影響を与え、発掘の意義が評価されるようになりました。

 発掘作業は、専門家だけでなく、一般の人々の注目を惹き、化石ブームは全国的な広がりを見せました。最初に行われた緊急調査で、化石骨がまとまっていることが推測出来ましたから、第二次発掘調査(1970年6月27日〜7月3日)は、忠類産ナウマンゾウの骨格化石のほぼ100パーセント発掘しましたので、ほぼ完了したのですが、第三次発掘調査においては、一層密度の高い調査結果がもたらされることにとなったのです。

 第三次発掘調査は、1970年10月26日から11月1日まで行われました。第三次発掘調査では、これまでの発掘調査における反省点を踏まえ行われたものと考えられます。おそらく第一次、第二次における発掘調査結果に対して、科学的に検討が加えられていく過程で必要になったものと考えられます。

 「ナウマン象化石第三次発掘調査研究報告」に依拠しますと、次の三つの側面に重点が置かれたようです。第1に地質学的調査、第2に古生物学的調査、そして第3に考古学的調査の三点が重視されたと記録されています。ところで、第1の地質学的調査の目的とは何だったのでしょうか。それは、ナウマンゾウの包含地層の層位学的検討しようとするもので、「北海道地下資源調査所」による発掘地点を中心に、東西5㎞、西北に4㎞の広域に渡る本格的なボーリング調査が行われた。同時に北大理学部地質鉱物学教室の有機物残存量測定などの研究協力も行われました。

 第2の古生物学的調査では、ナウマンゾウの化石が包含されている泥炭層の発掘を行い生息していたナウマンゾウの足跡、ナウマンゾウの食料となっていたと思われる植物の化石、昆虫化石、花粉の採集などを通して、古生物環境に関する科学的なデータを蒐集しようとするところに大きな目的があったものと推察できます。

 第3の考古学的調査では、古生物の棲息環境の分析から、これまでの調査で見つかっている角礫中の人工遺物と思わしき礫片を分析することから人類の生息の痕跡が発見できないか、どうか、日本人の起源に踏み込めるのではないか、そうした観点から考古学的な調査が合わせて行われたものとも考えられます。以上の諸点から、忠類ナウマンゾウの化石発掘の意義は大変大きいものがあったといえるのです。 

 

 〔(5)の文中の注〕

 (1)「十勝団体研究会」:研究会の構成メンバーは大学の先生から小・中・高校の先生方で、十勝地方の地質、地形を集団で調査し、学術的な研究活動を展開している地域性の高い研究グループであります。

 ナウマンゾウの化石の発掘では、化石情報を得て即刻現場に駆け付け、産出場所が工事現場であったことで、その確認と保存に適切な対応をするために道支庁、村役場の協力で緊急発掘を行い、その後も北海道庁から委託されて予備発掘、本発掘を成し遂げたことで知られています。

  (2)泥炭層:沼や沢そして湖沼などでは湿原植物も多いので、繁茂した植物が広く湿地に集積し、枯れても十分に分解できずに、不完全な植物遺体の堆積物となっていることが多く、酸素不足で分解できずに炭化したものが一種の地層を形成している状態を泥炭層と呼びます。これを燃料にすることも多いようです。泥炭は、ピートとも呼ばれます。泥炭層の周辺には、太古においていろいろな樹木が生育していたと推察されまし、また水草なども生い茂っていた湿地であったことを推測することもできます。そのためそれらを食糧とする大型の草食動物が寄って来て沼にはまり、命を落とすことがあったと考えられます。

  

  ⅲ)繁茂していた植物群

 泥炭層もそれら動植物が朽ちて万年単位の時間の経過のプロセスで、この周辺では3万2000年前に大噴火したといわれている支笏火山の火山灰なども降り積もり、専門家の研究によると、数メートルの火山灰層の地層になったものと考えられています。

 実は、北海道のナウマンゾウの多くが支笏火山の噴火の前に絶滅していたのではないかと推測されているのです。ナウマンゾウの化石の発掘は、それだけではなく泥炭層の中から既述のハンノキ、エゴノキ、スギ、そしてブナなどの大植物の流木などの朽ちた丸太の他にも湿地帯に繁茂するカキツバタやアヤメなどの湿原植物の実や花粉、そしてコガネムシなどの昆虫の化石も発掘にまで広がっていきます。それらの植物群の繁茂とナウマンゾウの生息とは深いかかわりがあったと考えられます。その地が氷期ではなく、間氷期で温暖化していた時代ではなかったかを推測することも可能になります。

 十勝団体研究会の当時の札幌支部、北大教養部地学研究室(松井愈:まついまさる、1923-1996)が忠類村晩成のナウマンゾウ化石の産出地点における泥炭層から採取した木片を試料に、14C年代測定(測定者:木越邦彦(3))を行った結果、>42,000年B.P.と測定されたことが分っています。

  化石の包含層は、砂礫層の泥炭質泥炭層で、粘土化が進んでいました。化石泥炭層の上には、二層の泥炭層があって、上から第一泥炭層、第二泥炭層、そしてナウマンゾウの化石骨を包含していた層は第三泥炭層だったことが発掘過程で解明されました。木越によって明らかにされた14C年代測定によって、ナウマンゾウの化石骨が包含されていた第三泥炭層が43,200年前のものであることも判明しました。そのことから、ナウマンゾウの多くの化石骨の年代も4万年前以上の時を刻んでいることも推測に難くないのです。

 

  〔(6)の文中の注〕

 (3)木越邦彦氏(1919-2014)は、東大の木村研で化学を学び、理研の仁科研究室に勤務、気象研を経て、1954年に学習院大学理学部教授、同大名誉教授、2014年7月6日没、享年94歳。専門は、放射化学。とくに、屋久島(鹿児島県)の縄文杉の樹齢の測定等、考古学上の地層の14C(炭素14)年代測定に大きな貢献をされたことで知られている。

 

 〔(5)・(6)の文献)

 (1)  十勝団体研究会札幌支部北大教養部地学松井研究室「十勝国忠類村字晩成におけるナウマン象産地の泥炭層の14C年代―日本の第四紀層の14C年代(67)―」『地球科學』 25(4), 187~188ページ, 1971年07月。.

 (2)十勝団体研究会(連絡責任者:北大教養部地学松井研究室)「十勝平野の第四系(第Ⅱ報)―とくに地形面と層序について」『第四紀研究』・第7巻 第1号、1968(昭和43)年6月。

 (3)大江フサ・小坂利幸「北海道十勝国忠類村におけるナウマン象化石包含層の花粉分析」・『地質学誌』・第78巻第3号219-274ページ、1972年5月。

 (4)亀井節夫『象の来た道』(「象の来た道をさぐる:忠類村のナウマン象」)・中公新書514、1978(昭和53)年8月。

  (5)たかしよいち『ナウマン象を掘る―象の来た道』・偕成社文庫(3096)、1981年8月。