〔大分、間が空いてしまいました。北海道十勝平野ナウマンゾウの里,旧忠類村に出かけていました。〕
(3)忠類村ナウマンゾウの復元標本
〈ナウマンゾウ、北海道への旅路〉
忠類にやって来たナウマンゾウ: 氷河期海面が下がり、地続きになった日本列島に大陸からやって来た多くのナウマンゾウや北海道に限られますがマンモスが多くいたことは地質学者らの研究で明らかにされています。ナウマンゾウがどのようにして日本列島に渡来したのかについても研究者によっていろいろと見解があるようです。
ここでは、北海道の道東に広がる十勝平野、幕別町の忠類晩成(広尾郡旧忠類村)の火山灰土の下から発掘されたナウマンゾウは一体どこから、どのようにして十勝平野に生息するようになったのか、本稿ではそこに焦点を当てて考えてみたいと思うのです。
亀井節夫は、われわれ素人が手の届く書物、『日本に象がいたころ』(岩波新書・645、1967(昭和42)年)の中で「Ⅴ 象のきた道」(144~190頁)に触れていますが、必ずしも具体的に日本列島に渡って来たルートには直接触れてはいません。また、亀井には、一般向けに書かれた『象のきた道』(中公新書・514、1978(昭和53)年)があります。その108頁に「忠類村のナウマン象」と言う「見出し」があり、118頁までそれに言及されていますが、ここでもナウマン象がどのようルートで十勝平野の忠類にやって来たのかについては言及されてはいないのです。
しかし、亀井がその議論をしていないわけではありません。前掲の『象のきた道』(110頁)で、1961(昭和36)年に、北海道夕張郡栗山町で象の臼歯が発見されたが、ナウマン象であるかどうかは明確ではなかった。「古く、松本彦七郎博士が石狩産として記録したナウマンゾウの臼歯も、産出地が不明のため疑問視されていた」が、専門家の間でもナウマンゾウのものであるか、どうかが問題点であるとして、議論が戦わされていました。
亀井は、「当時はまだ、ナウマン象はアフリカ象に近縁のものと考えられ、インドのナルバタ象の亜種ともみられていたので南方系という見方が強く、本州にはいたが津軽海峡をこえて北海道にまで渡ったことはなかったとされていた」、と述べられています。そしてまた、「北海道にはマンモス象、本州にはナウマン象というのが常識であり、ナウマン象の北限は、アオモリ(青森)象の出る下北半島と考えられていたのである」が、十勝平野の忠類で1頭分のナウマンゾウの化石骨が発掘されたことで、「北海道にもナウマン象いたとなると、どこからやってきたものか、゛マンモス゛と共存していたのか、という問題が提供されたことになる」、と指摘したのでした。
しかし、どうやってナウマンゾウが日本列島に渡り、そして北海道に生息するようになったかについての言及は行われてはいないのです。それはそれとして、日本列島に生息していたのは太古の昔からであるとされています。
亀井は、「ナウマン象は、日本においては、更新世中期の30万年前ごろから更新世後期末の1万6000年くらい前まで、北は北海道から南は九州まで広く分布しているものであることがあきらかになった」(前掲書100頁)し、また中国の研究者らの研究から、ナウマン象の化石は黄海や東シナ海の海底からも多数見つかっていることが明らかにされた、と述べています。
「このように、ナウマン象の出現の時期や、日本列島に渡来してきた道は、以前に考えられていたように、200万年もの古い温暖な時期に、インドやアフリカにつながっていたものではなく、30万年以降に中国大陸の北部とつながっていた」(前掲書100頁)ものが、氷河時代の寒冷な時期になって、ナウマン象は中国大陸から日本に移動してきてすみついたものであると考えられている」(前掲書100頁)、のだと亀井は指摘しています。ですが、その当時、中国大陸と日本が陸続きだったのかどうか、それが日本のどこだったのかには触れていません。
〈ナウマンゾウの移動と亀井の見解〉
また、亀井は別の論文「忠類産のナウマンゾウPalaeoloxodon naumanni(MAKIYAMA)」(地団研専報22・地学団体研究会『十勝平野』・1978年、335~356頁)において、Magilo.V.J.の1973年の論文を使って「Primelephasから LoxdontaおよびMammuthus,Elephasが分化したのは鮮新世前期でありElephasからPalaeoloxodonの系列が分化したのは鮮新世末期とされている。Palaeoloxodon系列のものはアフリカにとどまったrecki-iolensisの系列とユーラシアに移動したnamadicusの系列のものとがあるとされる。したがって、この考えによれば、ナウマンゾウは、「鮮新世末期にアフリカからユーラシアに移動し、洪積世前期にインド、中国を経て北上し、洪積世中期に日本列島に到達したことになる」(1978年「論文」352頁)のだが、亀井は、この考え方に疑義を唱えている。すなわち、「この考えのもとでは、Palaeoloxodon namadicus,anti-Quus,naumanniは 同一種として扱われているが、形態・分布(時間的・地理的)・古生態を考慮するとこの考えにはかなりの無理がある」、と批判しているのです。
ここで「洪積世」とは、地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万年前を言うが、第四紀の第一世のことです。現在では、更新世と呼ぶことが多いようです。古い方から前期、中期、後期と言いますが、後期は西暦2000年を基準にして、12万6000年前から1万1700年前の時代を指しています。
さて、亀井はナウマンゾウが鮮新世末期にアフリカからユーラシアへと移動し、さらに更新世の前期にはインドに移動し、中国を経て北上したナウマンゾウは、更新世中期に日本列島に到達したと言う説に対し、更新世前期のジェーラ期からだと更新世の中期までは何と180万年はあるだろうから、その間進化がなく同一種のナウマンゾウを想定しているのはおかしいのではないか、と疑問を呈しておられるわけです。
また、Magilo.V.J.が「中国を経て北上」としていますが、もしそう想定するならばナウマンゾウはシベリア経由で北海道に渡ったと言うことになります。そのためには、この時代の海底地形環境の変動にも言及されなくてはならない筈です。この問題にも亀井は大きな疑問を持ったのではないかと考えられるのです。
〈寒くとも平気だったナウマンゾウ〉
亀井はナウマンゾウを扱った一般向けの啓蒙書をいくつも世に送ってくれています。前述の二冊(①『日本に象がいたころ』、②『象のきた道』)は大変良く読まれていますが、その他にも編纂、共著もあります。がその中の一つに既述の③『先史時代の日本と大陸』(朝日新聞社、1976(昭和51)年)があります。③において、亀井は「野尻湖のナウマン象」(47~90頁)を執筆しています。書物としては一般向けですが、内容は大変密度の濃いもので専門家も手放せないナウマンゾウに関わる知見がどこそことなく煌めいているのです。われわれのような素人には、実に新鮮で驚きの連続なのです。
亀井は、「野尻湖のナウマン象」において、「先史時代の日本と大陸との関係を、ナウマン象を通してどのように見るか」(③の49頁)に言及しています。われわれはこれまで、ナウマンゾウが日本列島に渡来し生息していた頃の気温は暖かった、という見方をしていたのですが実際にはそうではなかったのだそうです。
亀井は、むしろ当時は寒かったのだと語っています。加えて、亀井は「雪線高度」という概念を用いて、現在の日本の北海道の「雪線高度」はおそらく三千数百メートルくらいだと思うが、残念ながら北海道で一番高い山は、大雪山国立公園の旭岳で、その高さは2,291mに過ぎないのです。従って、日本では北海道であっても氷河は存在しない?のではないか、というわけです。
亀井は、ナウマンゾウが生息していた時代の雪線高度について、もっとずっと低かった「カール氷河の位置から推定される雪線高度は、現在の位置よりも千七百メートルから二千メートルくらい低かった」(③77頁)、と指摘しています。ナウマンゾウが生息していた時代、「自由大気の気温は、100mについて、大体0.4度Cぐらい違うわけですから、現在よりも年平均にして8度C近く気温が寒かったと推定される」(③78頁)、と指摘されているのです。
〈ナウマンゾウは津軽海峡から北海道へ渡る〉
海底の変動について、亀井は昔の日本列島の状態を以下のように説いています。すなわち、「津軽海峡、朝鮮海峡、対馬海峡の様子を見てみると、現在の津軽海峡の海底地形には、いま述べたような平坦な面とか谷が描かれているわけですけれども、一番深いところでも百四十メートルぐらいです。朝鮮海峡では百二十メートルぐらいが一番深いところといわれています。氷河時代の海面降下をいろいろ調べてみますと、比較的新しい時代に、海面が一番下がった時期は二万年前で、その低下量は百四十メートルくらいであったろうといわれております。そうしますと、現在の津軽海峡、対馬海峡、朝鮮海峡は全部地続きになってしまうわけでして、そういう陸橋を通って生物の移動は十分に可能であったということになります」、と述べています。
亀井のこの叙述は実に重要なことなのであります。これまで、津軽海峡の深さは、百四十メートルもあって、陸橋が出来るなどとても考えられないので、ナウマンゾウが陸橋を渡って北海道に棲みつくことはなかったとされてきたのです。ところがナウマンゾウ研究の第一人者亀井に津軽海峡に陸橋が出来て「生物の移動は十分可能だった」と指摘されますと、これは大変重みのある指摘と受け止めねばならないのです。亀井はこうも言っています。
「四万年から五万年くらい前の様子ですけれども、陸地は現在よりは拡大しておりました。朝鮮半島と九州との間はきれておりましたが、このあと、前に述べたように、二万年前にはもっと海面が下がって、そうして陸地はつながり、北の方では津軽海峡もつながって、サハリンを経てシベリアともつながっておりました」(③80頁)、とまで指摘されているのです。
そして「もっとさかのぼって三十万年くらい前になりますと、完全に陸続きになっていました。北のほうは切れているのですが、南のほうはつながっていた様子がわかっています。ナウマン象が日本にやってきたのもこの時期でしょう」(③80頁)、と実に明快に論じておられるのです。
そこで言われますと、素人の小生などは、亀井説を信じないわけではないのです。が、学問的にはいろいろな研究に目を通しておくことが必要だと思うのです。そこで以下、海峡形成史や海底地質学の権威で通産省工業技術院の大嶋和雄博士も、これまでに津軽海峡の陸橋に言及した論文を度々発表されています。小生も関心があって読んでおりますので、少し引用させてもらいましょう。
(次回につづく)