絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島―(18)
第Ⅲ部 ナウマンゾウ、北の大地へ
〈第Ⅲ部2.の(3) ~(5)〉
(3)津軽氷橋論を考える
1)昔は兎も角、現在では第四紀学会に所属の専門家の先生方の多くは最終氷期(始まり
は7万年前)の最盛期(最寒冷期)を2万1000年前頃と考えているようです。また、海洋全体で海水準の最低位水準は、専門家の間では120~130mと推測しているように思われます。ただし、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と推測されています。
最近の第四紀学会の中には、最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったとする見解があるようです。その中でも1988年の大場忠道の「海水準に関するコメント」は、大変意義深い論稿だと思います。
かくして、最寒冷期、大陸からヘラジカやマンモスゾウ、ナウマンゾウ等の大型哺乳類が渡来したとすれば、陸橋ではなく氷橋を歩いて渡って来たのではないかという説が一部の専門家によって提起されています。
2)確かに、われわれのような素人からしますと、氷橋説には大変興味を惹かれるものがあるだけに、簡単に否定することはできないように思うのです。
しかし、海峡形成史を専門とする大嶋によれば、およそ有り得ないことだと言下に否定されています。すなわち、「流氷原を見たことのあるものならば、零下10℃以下のブリザードの吹きすさぶ氷塊の積み重なった氷原を多数の哺乳動物群が歩いて渡って来ることは、不可能なことを知るであろう。
とくに、草食性の動物が氷原を移動することは、今もありえないことをエスキモーは知っている。マンモスゾウ、モウコ馬、オオツノジカが氷橋を渡るという考えは、ロマンチックではあるが、北国の冬を知らない人の想像である」、と厳しい指摘をされています(大嶋和雄「海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡」24頁)。
ナウマンゾウやマンモスなどの超大型草食性動物群が、氷原で大きな体を維持するだけの餌を得ることができたかどうかが問題です。短い期間の移動なら可能であっても、長期間の移動は難しいように考えられます。大嶋の言わんとされているのも、多分その点ではないかと思います。ただ、氷期であっても、常に氷に覆われている時期ばかりではないのです。植物の育つ時期もあります。
ただ、現生の野生のアフリカゾウは、一日のうち十数時間は食餌をしていることが観察されています。ナウマンゾウの生態について資料を持ち合わせていませんが、ナウマンゾウが氷期において長期のマイグレーションを可能にするだけのエネルギーを蓄えることが出来たかどうか、確かに疑問です。
(4)津軽陸橋と湊・秋山30万年前生息説
1)津軽海峡西口付近の海底形成については、これまでにも若干言及したことがあります
が、何せ素人がいくつもの学術論文を勉強しながら、ナウマンゾウの日本列島、なかんずく北海道十勝平野へ渡来してきた道を、ああでもないこうでもない、とジグソーパズルよろしく考察していますから、この問題に対する正解に辿りつくのは大分先のことのようで、まだまだその道のりは険しいようです。
ところで、大嶋の海峡地形と底質の調査結果を基にした海水準変動の考察に依拠します
と、「主ウルム氷期海水準低下は-80±5mにしか達していない」(1980年11月12日開催の地質調査所研究発表会『講演要旨(144回)特集:日本海-発達と成因を探る-』大嶋報告「海峡形成史から見た日本海」)ことが分っており、その点から日本列島とアジア大陸とが陸続きだったのはリス氷期(25万年前~15万年前)までだと、述べています。
ですから、津軽海峡、朝鮮海峡、それに対馬海峡が形成されたのは、「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」(前掲の大嶋報告:1980)であったし、もしそれ以降にナウマンゾウが津軽の海を渡ったとすれば、それは泳いで渡るしかなかったであろう、ということになります。
ただ、素人のわたしの推測は、大嶋報告を踏まえて考えますと、リス氷期以前に列島に渡来していたナウマンゾウたちは、すでに津軽陸橋さえも渡り終えていたと考えてはどうか、ということなんです。
そう考えますと、忠類産ナウマンゾウは、道産系のゾウということになり、いわゆる「ご当地ゾウ」(道産子ゾウ)ということになるんです。忠類に生息していたナウマンゾウは、北の大地で誕生し、成長したナウマンゾウの種族で、道内の餌場(餌植物地域)を生息圏として道内をマイグレーションしていたという見方ができるのではないか、ということです。
もしそうだと仮定しますと、いまから12万年前に生息していたという化石の包含地層説が有力な忠類産ナウマンゾウの生息年代なのですが、湊・秋山らのアセチルブロマイド法による忠類産ナウマンゾウの年代測定の結果では、生息していたのは凡そ30万年前という値が得られていますから、湊・秋山らの測定値に忠類のさまざまな古自然、古環境条件を加味して推察しますと、忠類のナウマンゾウの生息年代は、チバニアンの中葉期(30万年前を挟んだ前後)がうまくフィットするように思うんです。つまり、忠類産ナウマンゾウの生息年代は、12万年前説よりも、30万年前説の方が条件付きではありますが、一考に値するのではないのか、わたしはそんな見方をしています。
2) 少しくどいようですが、湊・秋山らの30万年前生息説に関しては、『ナウマン象化石発掘調査報告書』(北海道開拓記念館)に掲載された論文「木材化石のアセチルブロマイド処理による、忠類の象化石の層位判定」(1971)に詳述されていますように、ナウマンゾウが忠類に生息していた時代は、後期更新世より、もっと前の中期更新世の中葉、「30万年前」を挟んでその前後、ミンデル・リス間氷期ということになりそうなんです。
大嶋は、津軽海峡が形成されたのは「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」といっていますから、それは凡そ15万年前頃~12万5000年前頃ではないかと考えられます。そうしますと、地層学的に北海道の旧忠類村で発掘されたナウマンゾウの化石が凡そ12万年前頃のものであるとする通説を前提に考えたとき、下末吉海進期もまた12万5000年前頃でしたので、ナウマンゾウは本州から津軽海峡が形成される数万年以上前にはすでに陸橋を渡って北海道で生息するようになっていた、その可能性もあるように考えられます。
(5)津軽海峡の形成とナウマンゾウ
1)大嶋は、その後に訪れるウルム氷期に、津軽海峡が再び陸地化することはなかったとされています。また、大嶋は次のようにも説いています。
「北海道は樺太を経て大陸と接続していた。宗谷海峡が形成されたのは、鳴門海峡とほぼ同時代の約1万年前である。したがって、ナウマン象や明石原人は、大陸から日本列島へ歩いて渡ってくることができた」(前掲の大嶋報告:1980)と、大陸-北海道ルート説を暗に匂わせています。
さらに、大嶋は「第四紀後期の海峡形成史」(『第四紀研究』・第29巻3号・1990年・8月、207-208頁。)の「まとめ」の中で、「更新世の大部分において日本列島と朝鮮半島とは陸地で結ばれていた」こと、そしてまた日本列島の島々も接続していたことにも言及しています。
その結果、ナウマンゾウをはじめ多くの大型哺乳動物が日本列島にやってきて生息するようになったのはこの時期ではないかと述べています。
それでは、ナウマンゾウなどの大型哺乳動物は、日本列島にどうやって、いつ頃渡来したのか、前節でも触れましたように、大嶋は大陸と日本列島を結ぶ陸橋が存在したリス氷期の前ではないか(1990)、と指摘しています。
その後、マイナス100mの海水準にあった下末吉海進の初期(それが何時頃だったかは明確ではないのですが、15万年前から12.5万年前ではなかったか)には、「日本海は朝鮮および津軽海峡によって太平洋に連なった」、という見方もしています(大嶋、1990)。その後、最終氷期になって海水準が-80mに下がったものの、それによって再び日本列島、なかんずく本州と中国大陸、そしてまた津軽海峡と北海道を繋ぐような陸橋が形成されることはなかった、と結論付けています。しかし、この点は、亀井や湊の津軽海峡陸橋についての年代の考え方と大きく違っているところなんです。
2)ところで、もう一つ指摘しておきたいことがあります。現在の日本海が形成された時期についてです。大嶋は、朝鮮海峡や津軽海峡が形成されたのは、ナウマンゾウが日本列島にやって来た後のことであり、また下末吉海進期(12万5000年)以前のことだと指摘しています。それはナウマンゾウの化石が下末吉(相当層)よりも古いとされる地層から産出されていることにもよると思われます。
さらにいえば、ナウマンゾウが北海道にせよ、本州にせよ渡来することを可能にしたことは海峡形成と陸橋問題が密接にかかわっており、両者は重要な意味を有しています。
大嶋によると、「石狩湾の大陸棚外縁の深度が100~120mで、石狩平野の海成洪積統の基底深度よりも浅いことからリス氷期には現石狩平野に存在した石狩海峡も陸化したと考えられる。この陸地をナウマンゾウは渡って、岩見沢や十勝国忠類村まで分布を広げた」(「海峡形成史(Ⅵ)」44頁)という大嶋の大陸-北海道ルート説も、確かに、忠類産ナウマンゾウに繋がってくる可能性が十分にあります。
それでは、ナウマンゾウやマンモスゾウが、北海道から津軽陸橋を渡って本州へ入ったという形跡はないのか、それを証明できる確たる資料はなく、専門家によるさらなる研究の成果が待たれるところであります。
(文献)
(1)井尻正二『化石』・岩波新書673,1963年。
(2)湊正雄・井尻正二『日本列島』(第三版)・岩波新書963、1976年。
(3)湊正雄「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷ー(北海道の生いたち)」、『新しい道史』、1970。
(4)藤田至則・亀井節夫・松崎寿和・加藤晋平・江坂輝弥・樋口隆康・乙益重隆・有光教一『先史時代の日本と大陸』・朝日新聞社、1976年。
(5)茂木昭夫『日本近海底地形誌-海底俯瞰図集-』:東京大学出版会、1997。
(6)松井愈(まつい まさる)・吉崎昌一・埴原和郎『北海道創世記』・北海道新聞社、1984年。
(7)道田豊・小田巻実・八島邦夫・加藤茂『海のなんでも小事典 潮の満ち引きから海底地形まで』・講談社、2008年。
(8)平 朝彦『日本列島の誕生』・岩波新書(赤)148、1990年。
(9)満塩大洸・安田尚登「対馬海峡付近の第四紀層,特に陸橋問題」・『第四紀研究』・第29(3)・
281-282頁、1990年8月。
(10)湊正雄・秋山雅彦「木材化石アセチルブロマイド処理による、忠類の象化石の層位判定」・北海道開拓記念館『ナウマン象化石発掘調査報告書』・北海道開拓記念館研究報告(第1号)、1971.
(11)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅰ)』・地質調査総合センター、10-21頁。
(12)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅵ)』・地質調査総合センター、36-44頁。
(13)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡』・地質調査総合センター、14-24頁。
(14)大嶋和雄「第四紀後期の海峡形成史」・『第四紀研究』・第29巻3号・1990年月、207-208頁。
(15)大嶋和雄「海峡地形に記された海水準変動の記録」・『第四紀研究』・第19巻1号1980年5月、
23-37頁。
(16)大嶋和雄「海峡形成史から見た日本海」・『講演要旨(144回):特集 日本海―発達と成因を探る―』・地質調査所研究発表会、1980(昭和55)年11月12日、191-19頁。
日本列島―(18)
第Ⅲ部 ナウマンゾウ、北の大地へ
〈第Ⅲ部2.の(3) ~(5)〉
(3)津軽氷橋論を考える
1)昔は兎も角、現在では第四紀学会に所属の専門家の先生方の多くは最終氷期(始まり
は7万年前)の最盛期(最寒冷期)を2万1000年前頃と考えているようです。また、海洋全体で海水準の最低位水準は、専門家の間では120~130mと推測しているように思われます。ただし、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と推測されています。
最近の第四紀学会の中には、最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったとする見解があるようです。その中でも1988年の大場忠道の「海水準に関するコメント」は、大変意義深い論稿だと思います。
かくして、最寒冷期、大陸からヘラジカやマンモスゾウ、ナウマンゾウ等の大型哺乳類が渡来したとすれば、陸橋ではなく氷橋を歩いて渡って来たのではないかという説が一部の専門家によって提起されています。
2)確かに、われわれのような素人からしますと、氷橋説には大変興味を惹かれるものがあるだけに、簡単に否定することはできないように思うのです。
しかし、海峡形成史を専門とする大嶋によれば、およそ有り得ないことだと言下に否定されています。すなわち、「流氷原を見たことのあるものならば、零下10℃以下のブリザードの吹きすさぶ氷塊の積み重なった氷原を多数の哺乳動物群が歩いて渡って来ることは、不可能なことを知るであろう。
とくに、草食性の動物が氷原を移動することは、今もありえないことをエスキモーは知っている。マンモスゾウ、モウコ馬、オオツノジカが氷橋を渡るという考えは、ロマンチックではあるが、北国の冬を知らない人の想像である」、と厳しい指摘をされています(大嶋和雄「海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡」24頁)。
ナウマンゾウやマンモスなどの超大型草食性動物群が、氷原で大きな体を維持するだけの餌を得ることができたかどうかが問題です。短い期間の移動なら可能であっても、長期間の移動は難しいように考えられます。大嶋の言わんとされているのも、多分その点ではないかと思います。ただ、氷期であっても、常に氷に覆われている時期ばかりではないのです。植物の育つ時期もあります。
ただ、現生の野生のアフリカゾウは、一日のうち十数時間は食餌をしていることが観察されています。ナウマンゾウの生態について資料を持ち合わせていませんが、ナウマンゾウが氷期において長期のマイグレーションを可能にするだけのエネルギーを蓄えることが出来たかどうか、確かに疑問です。
(4)津軽陸橋と湊・秋山30万年前生息説
1)津軽海峡西口付近の海底形成については、これまでにも若干言及したことがあります
が、何せ素人がいくつもの学術論文を勉強しながら、ナウマンゾウの日本列島、なかんずく北海道十勝平野へ渡来してきた道を、ああでもないこうでもない、とジグソーパズルよろしく考察していますから、この問題に対する正解に辿りつくのは大分先のことのようで、まだまだその道のりは険しいようです。
ところで、大嶋の海峡地形と底質の調査結果を基にした海水準変動の考察に依拠します
と、「主ウルム氷期海水準低下は-80±5mにしか達していない」(1980年11月12日開催の地質調査所研究発表会『講演要旨(144回)特集:日本海-発達と成因を探る-』大嶋報告「海峡形成史から見た日本海」)ことが分っており、その点から日本列島とアジア大陸とが陸続きだったのはリス氷期(25万年前~15万年前)までだと、述べています。
ですから、津軽海峡、朝鮮海峡、それに対馬海峡が形成されたのは、「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」(前掲の大嶋報告:1980)であったし、もしそれ以降にナウマンゾウが津軽の海を渡ったとすれば、それは泳いで渡るしかなかったであろう、ということになります。
ただ、素人のわたしの推測は、大嶋報告を踏まえて考えますと、リス氷期以前に列島に渡来していたナウマンゾウたちは、すでに津軽陸橋さえも渡り終えていたと考えてはどうか、ということなんです。
そう考えますと、忠類産ナウマンゾウは、道産系のゾウということになり、いわゆる「ご当地ゾウ」(道産子ゾウ)ということになるんです。忠類に生息していたナウマンゾウは、北の大地で誕生し、成長したナウマンゾウの種族で、道内の餌場(餌植物地域)を生息圏として道内をマイグレーションしていたという見方ができるのではないか、ということです。
もしそうだと仮定しますと、いまから12万年前に生息していたという化石の包含地層説が有力な忠類産ナウマンゾウの生息年代なのですが、湊・秋山らのアセチルブロマイド法による忠類産ナウマンゾウの年代測定の結果では、生息していたのは凡そ30万年前という値が得られていますから、湊・秋山らの測定値に忠類のさまざまな古自然、古環境条件を加味して推察しますと、忠類のナウマンゾウの生息年代は、チバニアンの中葉期(30万年前を挟んだ前後)がうまくフィットするように思うんです。つまり、忠類産ナウマンゾウの生息年代は、12万年前説よりも、30万年前説の方が条件付きではありますが、一考に値するのではないのか、わたしはそんな見方をしています。
2) 少しくどいようですが、湊・秋山らの30万年前生息説に関しては、『ナウマン象化石発掘調査報告書』(北海道開拓記念館)に掲載された論文「木材化石のアセチルブロマイド処理による、忠類の象化石の層位判定」(1971)に詳述されていますように、ナウマンゾウが忠類に生息していた時代は、後期更新世より、もっと前の中期更新世の中葉、「30万年前」を挟んでその前後、ミンデル・リス間氷期ということになりそうなんです。
大嶋は、津軽海峡が形成されたのは「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」といっていますから、それは凡そ15万年前頃~12万5000年前頃ではないかと考えられます。そうしますと、地層学的に北海道の旧忠類村で発掘されたナウマンゾウの化石が凡そ12万年前頃のものであるとする通説を前提に考えたとき、下末吉海進期もまた12万5000年前頃でしたので、ナウマンゾウは本州から津軽海峡が形成される数万年以上前にはすでに陸橋を渡って北海道で生息するようになっていた、その可能性もあるように考えられます。
(5)津軽海峡の形成とナウマンゾウ
1)大嶋は、その後に訪れるウルム氷期に、津軽海峡が再び陸地化することはなかったとされています。また、大嶋は次のようにも説いています。
「北海道は樺太を経て大陸と接続していた。宗谷海峡が形成されたのは、鳴門海峡とほぼ同時代の約1万年前である。したがって、ナウマン象や明石原人は、大陸から日本列島へ歩いて渡ってくることができた」(前掲の大嶋報告:1980)と、大陸-北海道ルート説を暗に匂わせています。
さらに、大嶋は「第四紀後期の海峡形成史」(『第四紀研究』・第29巻3号・1990年・8月、207-208頁。)の「まとめ」の中で、「更新世の大部分において日本列島と朝鮮半島とは陸地で結ばれていた」こと、そしてまた日本列島の島々も接続していたことにも言及しています。
その結果、ナウマンゾウをはじめ多くの大型哺乳動物が日本列島にやってきて生息するようになったのはこの時期ではないかと述べています。
それでは、ナウマンゾウなどの大型哺乳動物は、日本列島にどうやって、いつ頃渡来したのか、前節でも触れましたように、大嶋は大陸と日本列島を結ぶ陸橋が存在したリス氷期の前ではないか(1990)、と指摘しています。
その後、マイナス100mの海水準にあった下末吉海進の初期(それが何時頃だったかは明確ではないのですが、15万年前から12.5万年前ではなかったか)には、「日本海は朝鮮および津軽海峡によって太平洋に連なった」、という見方もしています(大嶋、1990)。その後、最終氷期になって海水準が-80mに下がったものの、それによって再び日本列島、なかんずく本州と中国大陸、そしてまた津軽海峡と北海道を繋ぐような陸橋が形成されることはなかった、と結論付けています。しかし、この点は、亀井や湊の津軽海峡陸橋についての年代の考え方と大きく違っているところなんです。
2)ところで、もう一つ指摘しておきたいことがあります。現在の日本海が形成された時期についてです。大嶋は、朝鮮海峡や津軽海峡が形成されたのは、ナウマンゾウが日本列島にやって来た後のことであり、また下末吉海進期(12万5000年)以前のことだと指摘しています。それはナウマンゾウの化石が下末吉(相当層)よりも古いとされる地層から産出されていることにもよると思われます。
さらにいえば、ナウマンゾウが北海道にせよ、本州にせよ渡来することを可能にしたことは海峡形成と陸橋問題が密接にかかわっており、両者は重要な意味を有しています。
大嶋によると、「石狩湾の大陸棚外縁の深度が100~120mで、石狩平野の海成洪積統の基底深度よりも浅いことからリス氷期には現石狩平野に存在した石狩海峡も陸化したと考えられる。この陸地をナウマンゾウは渡って、岩見沢や十勝国忠類村まで分布を広げた」(「海峡形成史(Ⅵ)」44頁)という大嶋の大陸-北海道ルート説も、確かに、忠類産ナウマンゾウに繋がってくる可能性が十分にあります。
それでは、ナウマンゾウやマンモスゾウが、北海道から津軽陸橋を渡って本州へ入ったという形跡はないのか、それを証明できる確たる資料はなく、専門家によるさらなる研究の成果が待たれるところであります。
(文献)
(1)井尻正二『化石』・岩波新書673,1963年。
(2)湊正雄・井尻正二『日本列島』(第三版)・岩波新書963、1976年。
(3)湊正雄「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷ー(北海道の生いたち)」、『新しい道史』、1970。
(4)藤田至則・亀井節夫・松崎寿和・加藤晋平・江坂輝弥・樋口隆康・乙益重隆・有光教一『先史時代の日本と大陸』・朝日新聞社、1976年。
(5)茂木昭夫『日本近海底地形誌-海底俯瞰図集-』:東京大学出版会、1997。
(6)松井愈(まつい まさる)・吉崎昌一・埴原和郎『北海道創世記』・北海道新聞社、1984年。
(7)道田豊・小田巻実・八島邦夫・加藤茂『海のなんでも小事典 潮の満ち引きから海底地形まで』・講談社、2008年。
(8)平 朝彦『日本列島の誕生』・岩波新書(赤)148、1990年。
(9)満塩大洸・安田尚登「対馬海峡付近の第四紀層,特に陸橋問題」・『第四紀研究』・第29(3)・
281-282頁、1990年8月。
(10)湊正雄・秋山雅彦「木材化石アセチルブロマイド処理による、忠類の象化石の層位判定」・北海道開拓記念館『ナウマン象化石発掘調査報告書』・北海道開拓記念館研究報告(第1号)、1971.
(11)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅰ)』・地質調査総合センター、10-21頁。
(12)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅵ)』・地質調査総合センター、36-44頁。
(13)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡』・地質調査総合センター、14-24頁。
(14)大嶋和雄「第四紀後期の海峡形成史」・『第四紀研究』・第29巻3号・1990年月、207-208頁。
(15)大嶋和雄「海峡地形に記された海水準変動の記録」・『第四紀研究』・第19巻1号1980年5月、
23-37頁。
(16)大嶋和雄「海峡形成史から見た日本海」・『講演要旨(144回):特集 日本海―発達と成因を探る―』・地質調査所研究発表会、1980(昭和55)年11月12日、191-19頁。