素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(10)

2022年02月01日 10時22分54秒 | 絶滅した日本列島のゾウたち
       絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
       日本列島―(10)


  第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地 横須賀白仙山

  〈(4)、(5)のまえおき〉
  本当は、前回の(3)で述べるべきでしたが、準備不足でした。横須賀製鉄所が建造されますとき、幕府とフランス政府との間で、『横須賀製鉄所約定書」が取り交わされていました。その一部分を『横須賀海軍船廠史」(大正4年、1915年)から引用した文献がありますので、参考にして見ます。孫引きです。

 それによりますと、約定書の中に、「製鉄所一箇所修船場大小二箇所造船場三箇所武器蔵及び役人職人共に四箇年にして落成の事」、もう一つは製鉄修船造船の三局取建諸入用総計凡嵩一箇年六十萬ドル都合四箇年二百四十萬ドルにて落成の事」、と言う条項がありました。

 幕末頃1864(元冶元)年の1両は約1ドルと言いますから、現在の貨幣価値に換算しますと約1万円です。ですから、横須賀製鉄所に240万ドルをかけたと言うことは、約240億円の投資だったことになります。

 フランスから横須賀製鉄所の建設に雇った技師ヴェルニ―(François Léonce Verny・ 18387ー1908 )の年俸は10,000ドルから12,000ドルだったそうですから日本円では1億円超になります。

 お雇い外国人の報酬がすべてこんなに高給ではなかったのですが、それでも5,000ドル前後だったようです。ちょっと驚きますね。

 (4)「白仙山」と夢窓国師

 1)これまでにも述べましたが、横須賀製鉄所と地続きの場所に、かつて「白仙山」(はくせんざん)と呼ばれる小高い丘、それに白仙湾も存在していたという記録が残っています。

 「白仙山」は、歴史的にも由緒ある山でした。それは、日本の仏教界で大変高名な僧、南北朝時代(1336-1392:南朝は大和国吉野宮、北朝は山城国平安京、と朝廷が二つに分裂した時代)に後醍醐天皇を始め、南北朝の帝から賜った「国師の号」七つを持つ七朝の帝師とも呼ばれた夢窓国師が1319年から1323年に、横須賀村の白仙山*の山頂に「泊船庵」を構えたといわれています。

*『横須賀市史(別巻)』(1988)、135頁では、「白仙山」を、敢えて「泊船山」と書いてあります。

 夢窓国師は、白仙山を泊船山とも呼び、その山頂の泊船庵から白仙湾を眺め瞑想に耽ることもあったのでしょう。それから数百年後の1865年、横須賀製鉄所は、製鉄所(後に「造船所」となる)の枢軸施設ドライドックの建設に当たって、白仙山を開鑿して用地の造成に取り組みましたので、今では、旧横須賀村の丘陵「白仙山」の頂きを望むことはできません。

 2)『すべては製鉄所から始まった―Made in Japan の原点―』(2015)を読みますと、耐震性を重視したフランス人技師で横須賀製鉄所首長だったフランソア・レオンス・ヴェルニーの提言で、当初、海面を埋め立ててつくる計画でしたが、「半島を切り崩して、岩盤を掘り込んで建設することになった」(前掲書(2015)、32頁)、とあります。

 「半島の切り崩し」とは、おそらくドライドックの建設用地にあった小高い丘陵「白仙山」が半島を形作っていたことを意味しているのではないかと考えられます。
開鑿された白仙山のあった場所とは、その後、横須賀軍港3号ドライドックが建設された辺りだと考えられます。

 そして前掲書(2015)には「半島の切り崩し中にゾウの化石が発見され、これを最初にナウマン氏が科学的に研究して新種のゾウとして世界に発表したことから、

 後に『ナウマンゾウ』と名付けられた」(32-33頁)、と記されています。前掲書(2015)には、「ゾウの化石が発見され」とありますが、発見された当初はゾウであるとは分からなかったようです。
 
 (5)最初の発見者はフランスの軍医さん

 1)横須賀製鉄所内敷地の造成工事の過程で、土砂の中から獏のような大きな動物の化石骨を最初(1867年)に発見したのは、1866年7月来日した製鉄所のフランス人医師、サヴァティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier:1830-1891)先生でした。

 ナウマンが論文「先史時代の日本の象について」(1881)の中で扱ったゾウの化石標本は、1867年に、横須賀製鉄所の造成地の窪みの中からサヴァティエが発見した「獏のような動物の化石骨」と同じものだった可能性が高いのですが、そうでない可能性もあります。ここはとても難しいところなんです。

 ここで「獏のような」というのは、おそらく大型獣の化石など殆ど見る機会のなかった時代の人々が形容した言葉ではないかと思います。バクは、奇蹄目バク科の哺乳類の草食獣で、野生種は熱帯雨林の水辺に棲んでいるようです。上述の「獏のような」のバクは、中国の伝説上の「夢を食う」という動物を指すのではないかと思います。

 2)さて、いまから20年ほど前になりますが、長谷川善和・赤塚正明・小泉明裕らの専門家の先生方が、日本古生物学会2000年年会で発表された「日本で最初に記載されたナウマンゾウにまつわるいくつかの事実」の中で、「黒船到来後、横須賀に軍港が造られることとなり、内浦・白仙にまたがる丘11万坪強を削って湾を埋め立てた時に化石は発見された。

 横須賀海軍船廠史1巻(明治26年10月発行*)にその写真がある。写真は明治2年に撮影されたらしい。そこに慶應3年(1867)11月7日**の発掘と記述されている(1)」(原文のまま)旨、解説がなされています。

  *日本古生物学会『2000年年会講演予講集』(2000)では、「明治26年10月発行」となっていますが、もともと同書は、横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』全3巻の中の第1巻として、大正4(1915)年9月27日に、横須賀海軍工廠創立50年を記念して横須賀海軍工廠が編纂、発行したものです。全3巻の中身は、幕末期~明治30年の海軍造船史に関わる資料を採録したものです。

  **横須賀市自然・人文博物館横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展『すべては製鉄所から始まった-Made in Japan の原点-』(2015)127頁、図108では、「西暦千八百六十七年第十一月六日(1876年11月6日)と記されています。

 3)1867年、サヴァティエによって発見されたといわれる化石が、「1871(明治4)年5月14-20日に、田中芳男(1838-1916)が中心になって開催した大学南校物産会に展示するため、大学南校(2)の要求で江戸に送られた」ことが、赤塚正明・小泉明裕らの論稿「E.Naumannが記載したナウマンゾウ下顎化石標本の再発見」(『地学教育と科学運動』33号、2000年2月)によっても明らかにされています。

 また、木下直之は「大学南校物産会について」(『学問のアルケオロジー』・東京大学、1997年に収載)の中で、「横須賀白仙山から出土したという象の顎歯骨化石を描いた図は、明治6年になって文部省が刊行する伊藤圭介(1803ー1901)の『日本物産志』の挿図にそのまま使われた」(原文のまま)、と述べています。

              図 『日本物産志』の中の挿図
               横須賀白仙山産象の顎歯骨(左上)
                  図は割愛してあります。
             出所 木下直之「大学南校物産会について」による。

  ちなみに、本稿では図は割愛しましたが、図は『日本物産志』の中に挿図として使われたという「象の顎歯骨化石を描いた図」です。『日本物産志』は、明治6(1873)年から伊藤圭介が編集を手掛けたものですが、横須賀白仙山産の化石が、すでに「象の顎歯骨化石」として、物産会に展示されていたとすれば大変な驚きです。

(注)
 (1) 長谷川善和・赤塚正明・小泉明裕「日本で最初に記載されたナウマンゾウにまつわるいくつかの事実」・日本古生物学会『2000年年会講演予講集』(2000)、Vol.102.

 (2)大学南校(だいがくなんこう):東京大学の前身の一つで、現在の東京大学の法学部、理学部、
文学部の源流で開成学校を大学南校、もう一つは大学東校(だいがくとうこう)で、これは現在の東京大学医学部の前身、医学校のことです。

 お茶の水に本校(昌平黌)をおいて、その東と南にあったので「東校:とうこう」、「南校:なんこう」と呼んだようです。なお、ブリタニカ国際大百科事典に依拠しますと下記のように説明されています。

 「明治初期の政府所轄の洋学校。慶応4 (1868) 年、江戸幕府の洋学校開成所を維新政府が接収して,開成学校の名で復興。明治2 (69) 年6月 15日に政府は同校と旧幕府の昌平黌,医学所を継承,合併して大学校とした。次いで同年 12月大学と改称。このとき,本校である昌平黌の南方 (現在の千代田区神田錦町3丁目) に位置した開成学校は大学南校と改められた。

 西洋学術文明を導入する中枢機関で,同3年2月に制定された「大学南校規則」によれば,法,理,文の3科をおき,教頭には開成学校時代からの G.フェルベックが,また教師にも多数の外人教師が任用された。生徒は 1000人を定員とし,正則,変則の2種を普通,専門の2級に分けた。

 同4年7月大学が廃止され,文部省の新設によって名称も単に南校として独立,文部省の管轄となった。やがて東京開成学校となって専門学校に昇格,1877年には東京医学校と合併して東京大学となり,84年本郷に移った」(『ブリタニカ国際大百科事典』)。

 ここで大事なことは、1871(明治4)年7月大学南校の「大学」が廃止されるまで、大学が教育行政の機能を有していたからです。分り易くいいますと、それまでは大学が文部省の機能を合わせ持っていたということです。新しく文部省を置いたことで、大学が廃止されて、大学南校は単に「南校」と呼ばれるようになりました。

 なお、慶應4年は同9月8日から明治元年に移行しました。「慶應4年をもって明治元年とする」ことになりましたので、1868年を明治元年と表記した書物が多いと思います。


 (文献)
(1) 矢島道子「ナウマンゾウの『ナウマン』は―日本で最初の地質学教授のこと」・『学術の動向』・2008.8、93~97頁。
(2) 今井功「地質調査事業の先覚者たち(2)日本の地質学の創始者-ナウマン-・『地質ニュース』(No.107)・1963年7月。
(3) Edmund Naumann, Ueber japanische Elephanten der Vorzeit,1881.Palaeontographica 28: 1-39。
(4) 山下 昇『日本地質の探求・ナウマン論文集』・東海大学出版会、1996年。
(5) 井尻正一・犬塚則久著『絶滅した日本の巨獣』・築地書館、1989年。
(6)清水正明「ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本」・東京大学創立120周年記念『東京大
学展:学問の過去・現在・未来』(「第一部学問のアルケオロジー・第3章大学の誕生―御雇外国人教師と東京大学の創設」)、1997年。
(7) 横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展『すべては製鉄所から始まった―Made in
Japan の原点―』・横須賀市自然・人文博物館、2015。