絶滅した日本列島のゾウのはなし(19)
2.パラステゴドン(Parastegodon aurorae)について(2)
ミエゾウとアケボノゾウについて④
ところで、アケボノゾウのことですが、調べれば調べるほど分かり難くなることが分かってきました。そこで、ここでは思い切って、敢えてややこしいことを述べることにしました。専門家の先生方の研究成果に首を突っ込んでみますと、いろいろな見方があることが少しづつですが分ってきました。
しかし、少しばかり詳しく調べていきますと、とくに素人には難しい分類学上の問題が絡んできますので、それはとても厄介の問題なのです。とくにわたしのようなど素人には、厚く高い壁になってしまい、中々思うようには進捗できない状態に陥ってしまいます。
アカシゾウについてですが、前述しましたように、高井冬二博士は、1936年にアカシゾウの学名をパラステゴドン・アカシエンシス(Parastegodon akashiensis TAKAI 1936)として発表しました。当時、高井博士は、アカシゾウをパラステゴドン属の新種のゾウであると同定しています。それはアカシゾウの化石が、過去において見つかっているゾウの化石とはまるで違っていたからです。それらの化石は、明石原人の人骨を発見したことで知られる直良信夫博士(1902:明治35ー1985:昭和60)や地元八木の住人で瓦作りのが本職の桜井松次郎さんが西八木の青粘土層から採集したものでした。なお、直良信夫博士は、晩年の著作『学問への情熱』(佼成出版社、1981:昭和56)の中で桜井松次郎さんについて、化石研究の「好敵手」の一人だったと述べています。
しかし、高井博士が新種としたのは、その後長い年月をかけて多くの専門家の研究調査が行われました。その結果、アカシゾウの命名には、大変ややこしい経緯があるこたが分かりました。
地元の化石収集家桜井松次郎氏が採集していたアカシゾウの化石の多くは、明石市の林崎から東二見にいたる海岸の崖から発見、そして収集されていることが分かってきました。地元の住人は「八木は化石の海」と呼んでいるほど、昔からさまざまな化石が漁の網に引っ掛かって引き上げられていました。
地元の人々や専門家の目は、直良信夫氏が発見した明石原人の腰骨に集まっていたようです。さまざまな明石原人発掘調査、そしてその経緯はしばらく横に置いておくことにして、ここでは1985(昭和60)年の国立歴史民俗博物館による明石原人に関わる本格的な発掘調査に少しばかり触れておきます。この調査は、同博物館の春成秀爾氏らにより、明石市西八木海岸で行われました。
その後、春成秀爾氏らはその成果を「国立歴史民俗博物館研究報告」(第13集 明石市西八木海岸の発掘調査、1987・3)として同博物館から刊行していますが、その『研究報告書』「1. 発掘前史」(前篇 発掘調査の成果 / 第Ⅰ部 発掘調査)の文頭に下記のような一節があります。
《瀬戸内海・播磨灘に面する明石市の,東は林崎から西は東二見に至る約8.8kmの間の海岸は,高さ12m前後の海食崖が連なり,屏風ケ浦の名で呼ばれている。この崖は,海が荒れるたびに崩れ,つねに新鮮な地層を露わにしていた。しかし,この海岸が地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは,昭和時代になってからのことである。》
ここで春成氏が指摘している「地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは、昭和の時代になってから」、と言う文脈は、明らかに高井冬二博士の前掲論文(1936)以降における一連のアカシゾウ化石骨発掘を意味しているものと考えられます。
高井博士とともに同年代に、もう一人古生物学の世界で功績のあった学者がいます。鹿間時夫博士がその人です。高井博士は東京大学で、鹿間博士は東北大学に学び、それぞれの研究成果を論文にまとめ、同じ学会誌Proceedings of the Imperial Academy of Japan(『帝国学士院記事』)に投稿し同時掲載されました。下記に掲載した文献(1)と(2)のページが19から24まで続いていることが分かります。
(文献)
(1)Fuyoji TAKAI(1936) On a New Fossil Elephant from Okubo-mura, Akashi-gun,Hyogo Prefecture, Japan. Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.19~21.
(2)Tokio SIKAMA (1936) Note on Parastegodon akshiensis TAKAI from the Akashi district.Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.22~24.
2.パラステゴドン(Parastegodon aurorae)について(2)
ミエゾウとアケボノゾウについて④
ところで、アケボノゾウのことですが、調べれば調べるほど分かり難くなることが分かってきました。そこで、ここでは思い切って、敢えてややこしいことを述べることにしました。専門家の先生方の研究成果に首を突っ込んでみますと、いろいろな見方があることが少しづつですが分ってきました。
しかし、少しばかり詳しく調べていきますと、とくに素人には難しい分類学上の問題が絡んできますので、それはとても厄介の問題なのです。とくにわたしのようなど素人には、厚く高い壁になってしまい、中々思うようには進捗できない状態に陥ってしまいます。
アカシゾウについてですが、前述しましたように、高井冬二博士は、1936年にアカシゾウの学名をパラステゴドン・アカシエンシス(Parastegodon akashiensis TAKAI 1936)として発表しました。当時、高井博士は、アカシゾウをパラステゴドン属の新種のゾウであると同定しています。それはアカシゾウの化石が、過去において見つかっているゾウの化石とはまるで違っていたからです。それらの化石は、明石原人の人骨を発見したことで知られる直良信夫博士(1902:明治35ー1985:昭和60)や地元八木の住人で瓦作りのが本職の桜井松次郎さんが西八木の青粘土層から採集したものでした。なお、直良信夫博士は、晩年の著作『学問への情熱』(佼成出版社、1981:昭和56)の中で桜井松次郎さんについて、化石研究の「好敵手」の一人だったと述べています。
しかし、高井博士が新種としたのは、その後長い年月をかけて多くの専門家の研究調査が行われました。その結果、アカシゾウの命名には、大変ややこしい経緯があるこたが分かりました。
地元の化石収集家桜井松次郎氏が採集していたアカシゾウの化石の多くは、明石市の林崎から東二見にいたる海岸の崖から発見、そして収集されていることが分かってきました。地元の住人は「八木は化石の海」と呼んでいるほど、昔からさまざまな化石が漁の網に引っ掛かって引き上げられていました。
地元の人々や専門家の目は、直良信夫氏が発見した明石原人の腰骨に集まっていたようです。さまざまな明石原人発掘調査、そしてその経緯はしばらく横に置いておくことにして、ここでは1985(昭和60)年の国立歴史民俗博物館による明石原人に関わる本格的な発掘調査に少しばかり触れておきます。この調査は、同博物館の春成秀爾氏らにより、明石市西八木海岸で行われました。
その後、春成秀爾氏らはその成果を「国立歴史民俗博物館研究報告」(第13集 明石市西八木海岸の発掘調査、1987・3)として同博物館から刊行していますが、その『研究報告書』「1. 発掘前史」(前篇 発掘調査の成果 / 第Ⅰ部 発掘調査)の文頭に下記のような一節があります。
《瀬戸内海・播磨灘に面する明石市の,東は林崎から西は東二見に至る約8.8kmの間の海岸は,高さ12m前後の海食崖が連なり,屏風ケ浦の名で呼ばれている。この崖は,海が荒れるたびに崩れ,つねに新鮮な地層を露わにしていた。しかし,この海岸が地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは,昭和時代になってからのことである。》
ここで春成氏が指摘している「地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは、昭和の時代になってから」、と言う文脈は、明らかに高井冬二博士の前掲論文(1936)以降における一連のアカシゾウ化石骨発掘を意味しているものと考えられます。
高井博士とともに同年代に、もう一人古生物学の世界で功績のあった学者がいます。鹿間時夫博士がその人です。高井博士は東京大学で、鹿間博士は東北大学に学び、それぞれの研究成果を論文にまとめ、同じ学会誌Proceedings of the Imperial Academy of Japan(『帝国学士院記事』)に投稿し同時掲載されました。下記に掲載した文献(1)と(2)のページが19から24まで続いていることが分かります。
(文献)
(1)Fuyoji TAKAI(1936) On a New Fossil Elephant from Okubo-mura, Akashi-gun,Hyogo Prefecture, Japan. Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.19~21.
(2)Tokio SIKAMA (1936) Note on Parastegodon akshiensis TAKAI from the Akashi district.Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.22~24.