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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (25)

2018年02月01日 06時36分00秒 | 島嶼諸国

    再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (25)

 

  第4章 なぜ、日本人のフィジー移住は失敗に終わったか

 

   (1)日本人移住地、ヴァヌア・レヴ島とは

  いま日本は、年々総人口が減り始めた。人口減少期に突入した。このままだと凡そ100年先の2110年には日本の人口が2012年1月の中位推計値で三分の一以下の4286万人にまで減少すると推計されている1)

   この人口減少への対応として、外国から移民を受け入れたらどうかとか、否その必要はないとか、専門家の間でも議論が百出している。

   しかし、筆者がいま関心を持っている問題は、現在とは真逆の問題で、100年以上も昔(1894年)過剰人口を抱えていた日本が、その過剰人口を年季契約の労働移民として、南太平洋の島嶼諸島にまで移住先を広げていた時代にフィジーに渡った日本人移民についてである。


   日本人の移民先と言えば、一般に、官約移民時代2)の「ハワイ王国」(アメリカ合衆国に併合後のハワイ州となる)、その後のアメリカ合衆国本土、ブラジル、メキシコなど中南米諸国を思い浮かべることが多いが、その他にも中国、ロシアを始め、フィリピン等が主流であった。

   その他にマイナーな移住先として太平洋諸島のグアム、インドシナ等を始め、南太平洋の豪州(オーストラリア)クイーンズランド州、同島嶼諸島では仏領ニューカレドニア、タヒチそして当時はイギリスの直轄植民地だったフィジー諸島がある。他にもまだまだ出稼ぎ(労働)移民として日本人はいろいろな国や地域に移住していた。

   たとえば、カリブ海の西インド諸島東部のリーワード諸島(Leeward Islands)にあるフランス領で蝶が羽を広げたような格好をしている双子の島グアドループ諸島(Guadeloupe Islands)にも日本人の労働移民400人余りが集団で移住した事例がある3)。フィジー諸島にしても、グアドループ諸島にしても悲惨なものだった。


   本稿では以上列挙した国々、英領ないしは仏領の諸島の中から、明治期に官約移民制度中止後に移民会社による自由移民制度の草創期、フィジーへ移住した日本人の集団的契約移民の失敗事例を対象に考察を試みようとするものである。

   ところで、「フィジー島」と書いてある資料をよく散見するが、「フィジー島」と呼ばれる島は330余に及ぶフィジー諸島の中のどの島を指すのだろうか。吉佐移民会社が豪州シドニーのバーンズ・フィリプ社の要請で、日本人305人の契約移民を募り派遣・搬送した島が「フィジー島」であるとされている。

   フィジー語では、フィジーのことをヴイチ(Viti)という。島はヤヌヤヌ(yanuyanu)と言うからフィジー島とは、日本語風に書けばヴイチ・ヤヌヤヌ(Viti Yanuyanu)となる。しかし、そう言う呼び方をする島は存在しない。フィジアンが誇るフィジーで一番大きい島は、彼らがヴィチ・レヴ(Viti Levu)と呼んでいる島である。

   Levuは「大きい」とか「たくさん」と言う意味だから、ヴィチ・レヴは「大きな、あるいは豊かなフィジー」の島、それゆえフィジーを代表する島という意味で、一般にヴィチ・レヴ(島)は「フィジー島」と呼ばれたものと考えられるのである。

フィジーに渡った日本人移民と密接な関わりのある資料『平賀家文書』の関係書類の中にも「フィヂ島」と表記してある書類が存在するが、305人の日本人移民うち205人が移住した「さとうきびの耕作地(耕区)」は、実際にはフィジーで2番目に大きな島ヴァヌア・レヴ(Vanua Levu)のランバサ(Labasa)という都市、おそらく当時は、「都市」と言うより「村落」だったと考えられる。

   さて、ヴァヌア・レヴ4)とは、「大きな土地」の意味だと言われている。Vanuaとは、フィジーでは「土地」の意味である。既述のように、日本人移民の大部分が上陸し移住することになった島は、ヴァヌア・レヴだったが、『平賀家文書』の重要な資料の一つに「フィヂ島移民関係書類(第一回)」がある。

   当該資料においても「フィヂ(フィジー)島」と使われている。要するに、地理的に十分精査されていない時代であったから、フィジー諸島のどの島も、われわれは一般に「フィジー島」と総称していたものと推察されるのである。

   本稿では、日本人が移住した「フィジー島」とは、実際にはヴィチ・レヴ(フィジーを代表する)ではなく、第二の島ヴァヌア・レヴ島であり、そのランバサに彼らの労働の拠点である耕区(さとうきびプランテーション)が存在していたことだけは明確に記しておく必要がある。

その根拠となる資料として、筆者は1894(明治27)年5月13日付の現地における移民監督者山中政吉から広島県移民代理人土肥積宛に差し出された書簡の記録を挙げておきたい。その中で、山中政吉(注)は、「(明治)二十七年五月十三日フィジ島ランパサーニテ」5)と綴っている。

   (注)山中政吉から世話人土肥積に宛てた明治27年5月13日付「封書」、下の写真は山中政吉がランバサから土肥積に宛てた封書郵便の「表書」、それを受けて土肥積から吉佐移民会社の社長吉川泰二郎に宛てた書簡の一部。子の資料は、広島県立文書館所蔵「平賀家文書」の移民関係資料、明治27年2月 『フィヂ島移民関係書類』(第一回)による。

   山中が「フィジ島ランバサーニテ」と綴っていることからも明らかなように「ランバサ」は、ヴァヌア・レヴ島の「地名」で、行政・経済の中心地である。

   現在、ランバサはヴァヌア・レヴ島最大の製糖工業都市であり、同島では最も賑やかな繁華街を有し、メインストリートは約1kmにわたって商店街が軒を並べ銀行、航空会社支店等がある。したがって、現在のランバサは、商工及び消費の複合都市として発展している。