再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (28)
第4章 なぜ、日本人のフィジー移住は失敗に終わったか
(3)の2 契約証にあるフィジーで支給予定の日本人移民に対する食材
参考までに、クィーンズランドのケースを【資料①】に、フィジーのケースを【資料②】に列挙すると、以下表1及び表2の通りである。
表1【資料①】契約証にあるクィーンズランドの日本人移民に対して支給された食材について
食材の品目(1人1日に付) |
食材の数量(1人1日に付) |
(1)日本白米(中等品) |
二封度(大凡六合) |
(2)乾魚或ハ塩魚 |
四分ノ一封度(三十匁) |
(3)日本醤油味噌漬物 |
一封度(百ニ十匁) |
(4)生魚或ハ生肉 |
半封度(六十匁) |
(5)日本番茶 |
半ヲンス(殆四匁) |
(注)広島県『広島県史近代現代資料編Ⅲ』昭和51年3月、107頁。なお、【資料①】の品目(1)~(5)の番号は、本稿執筆に当たって筆者が便宜上付したものである。
上記【資料①】の食材メニューは、吉佐移民会社が日本で移民を募集した際に応募して来た一人、堂山豊太郎(年齢二十九年四ケ月:広島県安芸国賀茂郡原村大字百四拾壱番地)15)との間で交わされた「契約証」の中(第弐条[エ])に記されていた「食」に関する契約諸品目である16)。
フィジーの日本人契約移民のケースではどうだったのか、石川友紀(琉球大学名誉教授)氏もクィーンズランドの日本人移民の契約内容とごく一部分を除いて全く同じであることを明らかにしている。その「ごく一部分」とは、【資料①】に掲げた品目(3)「日本醤油味噌漬物」とある1行に関してである17)。
フィジーの移民に関する契約証の例では、下記の【資料②】に掲げた品目(3)にあるように、「日本醤油味噌漬物及ビ青菜若クハ馬鈴薯一封度(百二十匁)」と具体的である。
表2【資料②】契約証にあるフィジーで支給予定の日本人移民に対する食材について
食材の品目(1人1日に付) |
食材の数量(1人1日に付) |
(1)日本白米(中等品) |
二封度(大凡六合) |
(2)乾魚或ハ塩魚 |
四分ノ一封度(三十匁) |
(3)日本醤油味噌漬物及ビ青菜若クハ馬鈴薯 |
一封度(百ニ十匁) |
(4)生魚或ハ生肉 |
半封度(六十匁) |
(5)日本番茶 |
半ヲンス(殆四匁) |
(注)「明治二十七年十二月『フィヂ島移民関係書類』第一回」(『平賀家文書』)参照。なお、【資料②】の番号は、本稿執筆に当たって筆者が便宜上付したものである。
ところで、ここでクィーンズランドさとうきび栽培労働移民の「衣・食」のケースについて別の角度から触れて見たい。クィーンズランドでは、1868年にPolynesian Labourer Act が制定されて南太平洋におけるポリネシアの諸島の島民を労働者として移住させて、働かせるための最低限度の保証を与える決まりを州政府として制定したが、その中で「衣・食」について法令で雇主に縛りをかけていた。
これは驚くべきことである。毎日、労働移民に支給する「食料」は、動物の肉であればビーフまたはマトンを1ポンド、魚肉であれば2ポンド、パンまたは小麦粉1ポンド、糖蜜または砂糖2オンス、野菜や米・トウモロコシの粉2ポンド、たばこ1週間に1.5オンス、1週間に塩2オンス、「衣」については、年間に支給されるものは、フランネルのシーツ2枚、作業用ズボン2着、毛布1枚、そして帽子一つとなっていた。
こうした規定が為されたのは、プランテーションで働く労働移民の死亡率が高かったことへの対応策としてとられた保護政策の一環だったと見ることができる。
したがって、シドニーのバーンズ・フィリプ社からの要請で、1892年に日本吉佐移民会社が日本人労働者50人を広島県で募集し、クィーンズランドに搬送した際も、またその後の同地に搬送した日本人移民についても上述したように「衣・食」については比較的条件が良かったと言われている。
それらの条件に倣って、フィジーへの移民にも適用したと考えられるのだが、実際に支給されていた食材の内容は契約証にある内容とは大分異なっていたのではないかと推察されるのである。