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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

南太平洋島嶼国「トゥヴァル」について(3)

2016年09月08日 12時01分17秒 | 島嶼諸国

          南太平洋島嶼国トゥヴァルについて(3)



 2.太平洋戦争とフナフティ国際空港の滑走路

 第二次世界大戦は、トゥヴァル史を語る上で大きな意味を持っている。1941年12月、南太平洋諸島に侵略の触手を伸ばした日本軍は、キリバス(旧ギルバート)の首都タラワに攻撃を加え占領した。さらに、旧エリス諸島にまで進攻した。事態が一変したのは、1942年10月である。米国軍の反撃が開始されて、ツバルの首都フナフティに上陸したことでトゥヴァルは、大きな犠牲を払うことなくすんだのだ。

 一方、トゥヴァルは、米国軍の上陸でいろいろな事情が一変した。1942年10月2日の午後には、11隻の軍艦がトゥヴァルに到着した。それは、フナフティの島民にとっては驚くべき出来事だったに違いない。しかしそれはまだ、ほんの序の口で、翌年の1943年10月には、43隻の船がフナフティの湾に入り、また、1944年1月から11月にかけて131隻の艦船が出入りし、翌月の12月には141隻、それが174隻にまで増加したと言われている。

 そして直ちに、アメリカ軍は「建設大隊(Seabees)」を派遣し、「臨時滑走路」及び補助の設備の建設に取り掛かった。島には、管制塔の構築も行われたのである。こうして造られたフナフティの滑走路は、現在ではフナフティ国際空港の滑走路として、フィジーのスバを結ぶ重要な空路を担っている。

 第二次大戦におけるアメリカ軍の駐留が、ある意味ではツバルの島民達に大きな暮らしの変化をもたらす切っ掛けになったようにも思われる。トゥヴァルにおける経済のグローバル化の始まりだったと考えることが出来るのである。特にプラカに依存した食生活に変化の切っ掛けを作ったのも、米兵の食生活のためにアメリカ合衆国から持ち込まれた食料品の品々であったと考えられるのである。

嗜好品がフナフティの住民の間に広がるのに時間はかからなかった。第二次対戦が終結し、太平洋の赤道直下のエリス諸島はトゥヴァルとして新たにスタートしたが、戦時に建設された軍用の航空施設(建設中の写真、1942年、Tuvalu Islands :Home pageから引用。)も、現在では大きな変貌を遂げた。今では、フィジーから飛来する民間航空機も週に2便あり、空港はフナフティ国際空港として、ツバルのグローバル化の役割を担って、大きく機能している。

 下記のフナフティ島の写真の中央に走る滑走路が、戦時米軍が建設した軍用施設、軍用機用の滑走路であるが、補修されて現在は民間航空機用の滑走路として利用されており、便のない日は人も歩き、バイクも自転車も利用している。

         
3.太平洋戦争とトゥヴァル(旧エリス諸島)

開戦後しばらくの間、太平洋地域に展開した日本軍は攻勢であった。例えば、1941年1月から1942年5月までに、周到に準備していた作戦計画に従い、東アジアを通ってソロモンにまで南下し、戦局の主導権を握った。
東南アジアと太平洋の広範囲の地域を占領下に置いた。

当時、日本軍が占領または進駐したおもな地域はタイ(1941年12月)、グアム(1941年12月)、ウェーキ島(1941年12月)、香港(1941年12月)、マニラ(1942年1月)、クアラルンプール(1942年1月)、シンガポール(1942年2月)、パレンバン(1942年2月)、バンドン(1942年3月)、ラングーン(1942年3月)、バターン半島(1942年4月)そしてマンダレー(1942年5月)の12の地域にも及んだ。

 その後も、日本軍はこれらの地域を支配下に置いて、現地で得られる資源を用いて自給自足の体制を築きあげてあげながら、米・英連合軍との長期戦に備えたのである。しかし、1942年6月にはミッドウェイ海戦において、日本の連合艦隊は米艦隊に敗れ,以後日本海軍は制海権を失い、戦局は米英連合軍側に有利に傾斜した。1942年8月から1943年初めにかけて、南進する日本軍は、米軍の圧倒的な軍事力に後退を余儀なくされた。

「ガダルカナルの死闘」とまで言われた余りにも壮烈な攻防戦がそれを象徴していた。ガダルカナル島は、ソロモン諸島の一つで、その広さは房総半島の2倍ぐらいの面積の小島嶼で、首都はホニアラである。下記の地図の東側洋上にツバル(旧エリス諸島)、北東にキリバスが位置している。地理的にもトゥヴァルが太平洋戦争の影響を受けたことが容易に推察できる。
当時、日本軍はジャングルに覆われた険しい地形で北側のごく一部の平坦地に飛行場を設営した。ガダルカナル飛行場がそれである1)。

 この飛行場は、フィジーやサモアを占領する作戦の基地を想定したものであった。その後において、1943年3月から11月にかけて9回にわたって日本の空軍が赤道から南に位置する南太平洋に浮かぶ小島嶼旧エリス諸島、とくにフナフティ島を空爆し、同島の民間人1人と米軍に12人の死傷者が出たと言われている。

やがて連合軍の反撃が激しくなり、日本軍は補給路を断たれ、戦力を失うことになった。また、日本はギルバート諸島(現在のキリバス)のタラワ、ブタリタリ、アベママを占領していたが、1943年(昭和18)11月に米軍の中部太平洋に対する激しい反攻は、ギルバード諸島(現在のキリバス)の中心地タラワ(現在のキリバスの首都)に集中して行われた2)。

 タラワは当時英領であった。1941年以来日本軍に占領されていたが、1943年11月23日の総攻撃で日本軍は自滅状態で壊滅した。「恐怖のタラワ」と呼ばれた戦闘は、タラワとともにマキン島もまた米軍の前に陥落した3)。これを契機に米軍の中部太平洋での反抗は一段と激しさを増した。第2次世界大戦は、手短に言ってトゥヴァルの歴史に、赤道を挟んで行われた日米間の戦争のドラマティックな傷跡を残して終わったと言えるであろう4)。

 
(注) 
1) 児島襄『太平洋戦争(上)・中公新書(84)・2003年、249頁。
2) 林茂「太平洋戦争」(『日本の歴史』25)・中央公論社・昭和42年、346‐347頁。
3)児島襄『太平洋戦争(下)・中公新書(90)・2003年、71-90頁。
4)本節では、Tuvalu Onlineから、http://www.tuvaluislands.com/ww2/ww2-index.htm を利用した。