ドイツの地質学者で初代東大理学部地質学教室の教授H・E・ナウマンが最初に研究したと言われているゾウの化石のいくつかのうちの一つは、神奈川県の横須賀製鉄所の建設用地の造成中に、フランスの軍医で植物学者でもあったPaul・A・L・サヴァティエ(1830.10.19-1891.8.27)によって発見されたものであることが、いろいろな記録からも明らかであります。1867年のことです。
結び(その2)―最初の化石は横須賀で発見― 注(その1)と一部に重複があります。ご容赦を。
白仙山か白杣山か:近代日本のルーツと言われています旧横須賀製鉄所(後に「横須賀造船所」)の建設用地の造成工事中に-現在の米海軍横須賀基地となっている辺りのようですが-象の化石が次々に見つかった事実に少しばかり触れておきましょう。
1854(嘉永7年、安政元年)の開国後のことですが、1858(安政5)年日米修好条約が結ばれ、その批准のため1860年に総勢77人の使節団が首都ワシントンを訪問、さらに米国の海軍の造船所も視察したと伝えられています。
その後、いろいろな政治的な経緯はありましたが、幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった、と言われています。その過程で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まり、幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗上野介忠順(ただまさ)、駐日フランス公使レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches:1809-1900)らが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に1865年(慶応元年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設されました。艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設にドライドッグ第1号が1867(慶応3)年建設が開始され、その後もドックが増設され用地の拡張も必要になりました。
そのため、製鉄所に近接していた標高45メートルの丘陵「白仙山」を切り崩して用地の造成工事が行われました。切り崩し造成した残土は製鉄所東側の白仙湾の埋め立てに利用され、それによって23,100平方メートル(約7000坪)の埋立地が造成されたと聞き及んでいます。しかし、日本古生物学会2000年年会で、長谷川善和、小泉明裕、赤塚正明らの報告、「日本で最初に記載されたナウマンゾウにまつわるいくつかの事実」において、「内浦・白仙にまたがる山地⒒万坪を削って湾を埋め立てた、云々」とあります。この点の解明も必要でしょう。
ところで、「白杣山」と記した文献もあります。前述しましたので重複しますが、敢えて引用しておきます。(1)山下昇抄訳によりますと「先史時代の日本の象について(Ueber Japaniche Elephanten der Vorzeit.)」(『日本地質の探求・ナウマン論文集』・東海大学出版会、1996年9月.)の141頁において、「この下顎はおよそ14年ほど前、一つの丘〔白杣山:しらそまやま〕が取り除かれた。この丘を取り除いたとき、半分埋まった窪みが現れ、その中にこの象の骨があった」、とあります。
白杣山は不明:ここでは小生は、原文の抄訳を問題にしているのではなく、「白杣山」と呼ぶ丘陵が横須賀の地に存在したかどうかを問題にしているのですが、小生の調べた限りでは存在していないのです。それをナウマンが、「しらそまやま」として1881年の上記の論文に本当に書いていたのかどうかが知りたいのです。
もう一つ、よく引用されている文献があります。これを(2)として、清水正明「ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本」(東京大学創立120周年記念『東京大学展:学問の過去・現在・未来』「第一部学問のアルケオロジー・第3章大学の誕生―御雇外国人教師と東京大学の創設」、1997年.)を挙げることができます。清水氏は、文献(2)の3「ナウマンとブランスの記載したゾウ化石について」において、「[一]1876年頃神奈川県横須賀市稲岡町白杣山(はくせんざん)の丘(この丘の別の洞穴からは人の頭骨や剣が発見された)にある洞穴から発見され、博物局に保管されているもの」と述べています。ここで、博物局とは、当時の内務省の博物局と推測されます。
(注)上の下線の年次1876年は、1867年の誤りでないかと思います。
しかし、文中の「白杣山」を「はくせんざん」とは読むことができませんし、そもそも横須賀市には、このような山は存在していたかどうか、小生は全く不明です。これまでにも述べましたが、横須賀製鉄所と地続きの場所に、かつて「白仙山」(はくせんざん)と呼ばれる丘陵、それに白仙湾も存在した記録があります。
「白仙山」は、歴史的にも由緒ある山でした。それは、日本の仏教界で高名な僧、南北朝時代(1336-1392:南朝は大和国吉野宮、北朝は山城国平安京、に朝廷が二つに分裂した時代)に後醍醐天皇を始め南北朝の帝から賜った国師の号を七つを持つ七朝の帝師とも呼ばれた夢窓国師が1319年から1323年に、横須賀村の白仙山の山頂に泊船庵を構えたと言われています。
夢窓国師は、山頂の泊船庵から白仙湾を眺め瞑想に耽ることもあったのでしょう。その白仙山を横須賀製鉄所(造船所)の枢軸施設ドライドックの建設に当たって切り崩し用地の造成を図りました。前述の『すべては製鉄所から始まった―Made in Japan の原点―』を読みますと、耐震性を重視したヴェルニーの提言で、当初、海面を埋め立ててつくる計画でしたが、「半島を切り崩して、岩盤を掘り込んで建設することになった」(32頁)、とあります。
「半島の切り崩し」とは、おそらくドライドックを建設用地にあった小高い丘陵「白仙山」を意味していると考えられます。そして『前掲書』では「半島の切り崩し中にはゾウの化石が発見され、これをナウマン氏が科学的に研究して新種のゾウとして世界に発表したことから、のちに『ナウマンゾウ』と名付けられた」(32-33頁)、と記しています。
最初に発見したのはサヴァティエ:製鉄所の造成工事を行っていた土砂の中から、獏のような動物の化石骨を最初に発見・採取したのは、製鉄所のフランス人医師として、1866年7月13日来日したサヴァティエ(Paul.A.L.Savatier:1830-1891)でした。ナウマンが1881年の論文に記載したゾウの化石の標本は、多分サヴァティエが採集した「獏のような動物の化石骨」だったと推測されます。
長谷川善和・赤塚正明・小泉明裕らによる日本古生物学会2000年年会における報告「日本で最初に記載されたナウマンゾウにまつわるいくつかの事実」では、「黒船到来後、横須賀に軍港が造られることとなり、内浦・白仙にまたがる山地11万坪強を削って湾を埋め立てた時に化石は発見された。横須賀海軍船廠史1巻(明治26年10月発行)にその写真がある。写真は明治2年にさつえいされたらしい。そこに慶應3年(1867)11月7日の発掘と記述されている」、と報告しています。
1867年、横須賀でサヴァティエによって発見された化石は、赤塚正明・小泉明裕らによると、「1871(明治4)年5月14-20日に、田中芳男が中心になって開催した大学南校物産会に展示するため、大学南校の要求で江戸に送られた」(「E.Naumannが記載したナウマンゾウ顎化石標本の再発見」・2000年2月)ことを明らかにしています。
また、木下直之氏は「大学南校物産会について」において、「横須賀白仙山から出土したという象の顎歯骨化石を描いた図は、明治6年になって文部省が刊行する伊藤圭介の『日本物産志』の挿図にそのまま使われた」(『学問のアルケオロジー』・東京大学、1997年)ことを記しています。
注1)2016年2月21日一部補筆。
抄録・日本にいたナウマンゾウ(15)