素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

一日一日大切に生きること ー素人、考古学及び古生物学を学ぶー(13):中本博皓

2015年12月03日 20時05分55秒 | ナウマンゾウについて
抄録:日本にいたナウマンゾウ(13)




 (5)ナウマンゾウの博物館

 以上12回に亘って、本稿で取り上げてきた日本列島に渡来したナウマンゾウが生息していたと考えられる年代は太古の昔のことですから、いろんな古生物学上、考古学上の見方がなされております。長野県の信濃町の野尻湖の湖底から発見されたナウマンゾウの発掘が行われる前までは、日本列島に生息していた時代は、200万年前から10万年前位までと言う大方の見方がありました。

 ナウマンゾウについてのこのような生息年代の推測は、地質年代区分で洪積世早期に区分されて来たことによるのがその理由だったのかも知れないのです。数十年前までは日本の化石骨関係学会ではごく普通だったのです。

 ところが、地質の測定方法が進化した今では、地層の同位元素解析を行うことでかなり正確な年代が推定できるようになったのです。それによりますと、野尻湖の湖底の炭素の同位元素から測定した結果によりますと、200万年前の原人の時代ではなく、ナウマンゾウが発掘された地層の年代は若く、3万1000年前から1万6000年前頃との測定結果が出たのです。若干の違いがあっても、1969年北海道の忠類村字晩成で見つかったナウマンゾウの大臼歯を手掛かりに本発掘されたナウマンゾウの化石骨の「炭素14(14C)年代測定()」によれば、12万年前に限定されるものではなく、5万年前から4万年前くらいまではナウマンゾウが極寒の十勝平野、忠類にも生息していたのではないかと、推察されるようになりました。しかし、生息年代の測定はそんなに簡単なものではありませんでした。

 さて、年代が万年単位の化石骨であることは分ったのですが、忠類のナウマンゾウと長野県野尻湖の湖底に3万年もの間眠っていたナウマンゾウ、その決定的な違いとは何なのだろうか、そのことについて少し考えて見ることも大切ではないかと思います。野尻湖のナウマンゾウの場合、湖底に埋まっていたことで、化石が流れる危険性が想定されますが、北海道忠類村で発掘されたナウマンゾウの化石骨は、ほとんどの化石が、死んだ姿態のままで埋まっていたので掘り出されてからの骨格復元作業が正確に行われたと言われています。

 前節でも述べたことですが、すでにゾウに関する多くの業績を遺されて、故亀井節夫京大名誉教授(1925-2014)らの成果に依拠しますと、かつて、層位学の専門家で北大の故松井愈(まさる:1923-1996)名誉教授は、炭素同位元素の測定が進むことで、「忠類ナウマン象の発掘によって、栗山町の臼歯を含め日本のナウマン象の生息年代は、再考されることになるだろう」と、指摘されていました(齋藤禎男『これがナウマンゾウの化石だ―忠類原野'70夏の感動―』・北苑社、昭和49(1979)年)。こうした先学の成果を前向きに考察してみることは大切なことだと思うのです。

 ところで、わが国には「日本第四紀学会」と称する学会があるが、この学会が説明しているところによると、「第四紀」とは、「地球の46億年にわたる長い歴史の中で、現在を含む最も新しい時代で、地球上に人類が進化・拡散し、活動している時代」であり、「年代的には約260万年前から現在までの期間で、大きく更新世(第四紀はじめから1.15万年前まで)と完新世(それ以後現在まで)に2分される」のが通説のようです。

 260万年前から4万年の周期で氷期と間氷期は現れていたと言われている。氷期には、海面が100mも低くなってしまい、大陸と島が繋がってしまい古生物が移動できる細長い陸地ができたと推測されています。それは、動物の移動「道」で、実は、大陸と島とを繋いだ陸地を「陸橋」と呼んでおり、簡単に言えば、生物地理学上の橋なのですが、これまで述べてきたナウマンゾウもまたこの「陸橋」渡って、大陸から日本列島にやって来たと考えられています。なんでそんなことが分るのか言えば、実は「第四紀」の地層から象の化石が発見されているからなのです。

 ナウマンゾウとその仲間たちはいつ頃から日本列島に生息していたかと言うと、それは難しい問題で即答できるほど簡単な問題ではないのです。「日本第四紀学会」の研究者の中には120万年前とも、60万年前から40万年前と説く人もおります。

 次の叙述は亀井節夫が、『日本に象がいたころ』(岩波新書645、17-18頁)において、ナウマンが1881(明治14)年に「先史時代の日本の象」(Japanische Elephnten der Vorzeit)として、ドイツの『古生物学報』に掲載した論文から引用したものです。

 すなわち、ナウマンは「象が日本列島に移住して来たのは、第三紀末の鮮新世(約1千万年前~2百万年前)のころで、その当時は今日の朝鮮海峡で大陸と日本列島とは陸つづきであった。この象の移動につづいて陸地は沈降し、海水の侵入により北方と南方への陸地のあちらこちらで破られた。その後、海水面は再び低下し、陸地の上昇が今日まで続いている。しかしながら、第四紀の洪積世、氷河時代(約2百年前~1万年前)にマンモス像が日本に渡ってこられなかったのは、陸地のつながりがなかったからである。すなわち、日本列島が大陸と繋がっていたのは第三紀のような古い時代のことで、そのころ生物地理区でいう旧北区の生物たちが日本に渡来してすみつき、その後、孤立化した日本列島で変質したのである」、と説いています。

 しかし、象など大型哺乳化石動物が第三紀鮮新世と見るのは間違いで、第四紀洪積世の時代のもので、ナウマンが言うような旧北区などのものと象の化石を区別して、旧北区のものが東方へ移動して変異したとみなしたが、実は日本の象の化石には、そのような区別はないと言うのが亀井節夫など日本の象の化石の専門家の見方なのです。それでは、本当のところ日本にはいつ頃から象がいたのだろうか。亀井は、第四紀の地層の研究が進むにしたがって、ナウマンゾウが日本に棲み着いたのは思ったよりも新しいのではないかと言われています。

 横須賀製鉄所(神奈川県横須賀市)建設ために、西側の白仙山と呼ばれていた小高い丘を切り崩し、用地の造成工事中の1867年に発見されたナウマンゾウの下顎の化石が、日本ではナウマンによって最初に研究された象の化石だったと言われています。その後の古生物学の研究によって、日本列島には40万年前から2万年前ごろまで象が生息していたとする見解が定説になりました。この見解は、古生物学を専攻する多くの象の化石研究者の支持を得ているようです。

 日本第四紀学会の「Q&Aコラム」によりますと、一般の読者の質問に答えて、ナウマンゾウが渡って来たのは43万年前、トウヨウゾウが渡って来たのが63年前、そしてトロゴンテリゾウが渡って来たのは120年前、と回答しています。

 また、小西省吾、吉川周作両氏による論文「トウヨウゾウ・ナウマンゾウの日本列島への移入時期と陸橋形成」(『地球科学』125-134ページ、1999年)によると、「最近、日本列島から産出する哺乳類化石を検討したKawamura(1991)や河村(1998)は、長鼻類化石のシガゾウ、トウヨウゾウ、ナウマンゾウの出現時期がそれぞれ120-100万年前頃、50万年前頃、30万年前頃であるから、これらの時期にこれらのゾウが大陸から移入してきたこと、そしてこれらの移入を可能にした陸橋がこの頃に形成されたと指摘している」ことについて明らかにしています。

 ところで、本稿において、これまで取り上げてきた北海道旧忠類村で発掘されたナウマンゾウの骨格化石はおよそ4万2000年前のものと測定されています。十勝団研の地質学者らによりますと、旧忠類村にナウマンゾウが棲むようになったのはおよそ12万5000年前くらいではないかと推定しています。また、野尻湖の湖底から発掘されたナウマンゾウの場合は、およそ4万年前~1.5万年前頃と見られています。

 さて、野尻湖の湖底から発掘されたナウマンゾウの化石を収集して展示、さらに研究している博物館は「野尻湖ナウマンゾウ博物館」(1984(昭和59)年7月1日開設)が唯一の博物館ではないかと思います。野尻湖のナウマンゾウの化石は、戦後間もない1948(昭和23)年10月、湖畔で旅館を営む主が加藤松之助氏によって、湯たんぽの化石と称されるナウマンゾウの臼歯の化石が発見されたことに端を発しています。

 野尻湖発掘調査団著『象のいた湖 野尻湖発掘ものがたり』(新日本新書・454、1992)によりますと、加藤氏が早朝5時ごろ湖岸を散歩していて、砂に半分埋まった湯たんぽのような石のかたまりのようなものだったそうですが、家に持ち帰り近隣の人々に見てもらっても分らなかったようです。そこで野尻湖小学校の校長先生にも見てもらったが分らず、ひとまず小学校に保管してもらいました。『前掲書』には次のようなことが記されています。

 「ちょうどそのころ、野尻湖の周りの地質調査をしていた、富沢恒雄先生(当時長野高等学校の地学の先生)が、その発見を知りました。富沢先生は、その当時、野尻湖のまわりの大昔の湖のようすを調査にきていた堀江正治さん(京都大学)の手をわずらわして、この化石の鑑定を京都大学の槇山次郎教授におねがいしました。その結果、この化石は、ナウマンゾウの上顎の第三大臼歯(三番目の奥歯)であることがわかったのです」と言うわけで、前出の富沢先生は、それを研究して1956年、日本地質学会の専門誌『地質学雑誌』に論文を投稿されたことから専ら地質学や化石学、また考古学などの分野の専門家の関心を惹くとことなっのです。

 同博物館の「展示解説」によりますと、加藤氏が発見したナウマンゾウの臼歯の化石は、長さが30㎝、重さが5㎏もあったそうですが、その臼歯はゾウの「上顎の第三大臼歯」だったことが分りました。それは人間の歯でいえば、一番後で生えてくる「親知らず」のような歯だそうです。
野尻湖畔では、その後もナウマンゾウの化石は多く発見されており、「第四紀(260万年前~現在)の地層を調べていたグループが中心となり、1962(昭和37)年3月に、野尻湖底の発掘がはじめられられました」が、それから現在まで半世紀に及ぶ湖底発掘が続けられております。

 第21次発掘調査は、2016年3月18日〜3月28日まで実施されることになっています。その間、2万人以上が発掘に参加し、2012年3月現在で8万3000点の化石が発掘されています。その意味では、北海道の十勝平野、幕別町忠類にある「忠類ナウマン象記念館」もまた忠類晩成で発見、発掘されたナウマンゾウの臼歯化石、そして忠類産ナウマン象全身骨格を復元した標本(複製)および当時の古環境を示す植物・種子・花粉に至る化石だけを全館展示したナウマンゾウ専門の記念館です。それもまた、わが国唯一の施設ではないかと考えられます。


(文献)
(1)野尻湖ナウマンゾウ博物館『ナウマンゾウの狩人をもとめて:展示解説』・同博物館、平成15年3月。
(2)野尻湖発掘調査団『増補版 象のいた湖 野尻湖発掘ものがたり』・新日本新書454、1992年6月。
(3)野尻湖ナウマンゾウ博物館『野尻湖の自然と人間』・同博物館、1990年3月(初版)。
(4)野尻湖発掘調査団『野尻湖人をもとめて:野尻湖発掘50年記念誌』・野尻湖ナウマンゾウ博物館、2011年9月。
(5)『野尻湖ナウマンゾウ博物館20年の歩み(1984~2004)・同博物館、2005年3月。

(注)2016年02月05日一部補訂。