聖書の中に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とあります。
それは十字架にかかって全人類の罪のために身代わりに死んで下さったイエス様のことであり、イエス様が死んで下さった事により、それを信じた多くの人々が生かされることを意味しています。
そしてまた、クリスチャンが自己中心を捨てて、神を愛し人を愛する時に多くの人々が祝福を受けることを意味しています。
しかし今、弟も人生の最後の最後に一粒の麦となった事をつくづく思わされています。
この度の闘病生活、葬儀の中で今まで聖書のことばを一度も聞いたことがない多くの人々に、みことばを伝え、自分が行くべき所について、福音を伝えることができたからです。
ある意味、弟は命がけで伝道させてくれたとも言えるでしょう。
実際この3ヵ月半は本当に大変な日々でしたが、私の方も心から「ありがとう!」を言いたい気持です。
両親とも兄弟が多く、その子供たち、孫達…他の親族を合わせて70席が足りないほどでした。
その誰からも批判はなく逆に感動したと聞いて、これもすべて神様の大いなる祝福とわかります。
実はウルサ型の叔父様たちがたくさんいるのです。
今考えると、今回葬儀に出席して下さった約80名の親族全員のために、私は時々祈っていたのです。
名前を知っている叔父・叔母・いとこはもちろん名前を挙げて祈り、名前を知らないその子供たちのためにも一人一人「あなたの罪はゆるされている、信じて光の内を歩みなさい…」と。
たくさんいるので毎日と言うわけにはいきませんが、こんな小さな祈りも神様はちゃんと覚えていて下さったと思うと、ただただ感謝で、祈りは天に届いている確信をまた新たにしました。(shizuko)
*聖書が教える「罪」とは、法律に触れる犯罪のことではなく、「内側から、すなわち人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」とあり、たとえ実際に殺人を犯さなくても、人を憎んだり、嫌ったり、その死を願ったり…これは心の中で殺人を犯したのと同じということです。
ですから、人間みな罪人で義しい(ただしい)人は誰一人いないということなのです。
それは十字架にかかって全人類の罪のために身代わりに死んで下さったイエス様のことであり、イエス様が死んで下さった事により、それを信じた多くの人々が生かされることを意味しています。
そしてまた、クリスチャンが自己中心を捨てて、神を愛し人を愛する時に多くの人々が祝福を受けることを意味しています。
しかし今、弟も人生の最後の最後に一粒の麦となった事をつくづく思わされています。
この度の闘病生活、葬儀の中で今まで聖書のことばを一度も聞いたことがない多くの人々に、みことばを伝え、自分が行くべき所について、福音を伝えることができたからです。
ある意味、弟は命がけで伝道させてくれたとも言えるでしょう。
実際この3ヵ月半は本当に大変な日々でしたが、私の方も心から「ありがとう!」を言いたい気持です。
両親とも兄弟が多く、その子供たち、孫達…他の親族を合わせて70席が足りないほどでした。
その誰からも批判はなく逆に感動したと聞いて、これもすべて神様の大いなる祝福とわかります。
実はウルサ型の叔父様たちがたくさんいるのです。
今考えると、今回葬儀に出席して下さった約80名の親族全員のために、私は時々祈っていたのです。
名前を知っている叔父・叔母・いとこはもちろん名前を挙げて祈り、名前を知らないその子供たちのためにも一人一人「あなたの罪はゆるされている、信じて光の内を歩みなさい…」と。
たくさんいるので毎日と言うわけにはいきませんが、こんな小さな祈りも神様はちゃんと覚えていて下さったと思うと、ただただ感謝で、祈りは天に届いている確信をまた新たにしました。(shizuko)
*聖書が教える「罪」とは、法律に触れる犯罪のことではなく、「内側から、すなわち人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」とあり、たとえ実際に殺人を犯さなくても、人を憎んだり、嫌ったり、その死を願ったり…これは心の中で殺人を犯したのと同じということです。
ですから、人間みな罪人で義しい(ただしい)人は誰一人いないということなのです。