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島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

自転車道の除雪と豪雪による除雪除外

2012-02-03 06:24:05 | クルマ社会の問題

 ↑ 山形市七日町の除雪された自転車道と車道 そして雪の壁 この写真は1月31日撮影

 ↑ 同じ通りだが反対方向 積雪93cmという急激な予想外の豪雪のために自転車道の除雪は除外された。2月2日撮影。右側の歩道は地下水循環の融雪装置により午後には効きだしていた。

自転車道も大切だが街路樹も大切

2012-01-28 23:17:21 | クルマ社会の問題

 先日、国土交通省(山形河川国道事務所)が社会実験中の自転車道(東側に南北双方向)がある国道沿道の3つの商店会に対して提案した案のうち両側に片側通行の自転車道を設置する案についてもすんなりとは承服し難い点が幾つかある。
 一つは、車道との境界に「縁石」を連ねることについてである。
 現在の社会実験中は境界にポールを並べている(当初はポールとポールの間に縁石代わりのものを嵌め込んでいた)が、花笠踊りのパレードや初市などの毎年恒例のイベントがある時は外してイベントが広く開催できるようにしていた。
 しかし、もし新案にある縁石が外しにくいものだとすると道路利用のイベント開催は困難になる。CGによる予想図(下の絵図参照)を見る限り、どうもその縁石は固定式であり、外せないもののようである。

 二つ目は、現在は車道の西側にバス停を設けていたが、車道の両隣に片側通行の自転車道を設置する場合、バス停留所の設置は困難になる。なぜなら、バスに乗降する人は自転車道と縁石を跨ぐことになり、危険な思いをすることになるからである。
 三つ目は荷捌き車両のために歩道の幅をさらに狭くする箇所が出てくることである。
 これでは歩行者に犠牲を強いることになり、商店街のイメージを低下させる。
 むしろ渋滞覚悟で車道上に停車帯を設けるべきではないか。現在も西側部分だけに限定であるが、バスは停車できるようになっている。つまり、一方通行二車線のうち一車線の三分の一くらいは荷捌き車両の停車帯としておいて差支えなかろう。
 そのためにも、国道ながらも速度制限を20km程度の「ユックリズム国道」にして、歩行者・自転車優先の国道として全国にアピールしてはどうか。
 四つ目は、幅広い自転車道にするためには街路樹をすべて除去する必要があるとしていることである。
 いずれの沿道の商店街からは瀟洒な外観の店舗や歴史を感じさせる土蔵造りの店舗が減少する中で駐車場が虫食いのように増殖し、ただでさえ街路景観が殺風景で武骨化しているものの、街路樹の緑だけは街を通る人たちの心に潤いを与えており、そのために沿道商店街の良好なイメージをなんとか保持してくれていたのだが、街路樹がなくなると、沿道の景観はますます殺風景になり、商店街のイメージも低下してしまうのではないか。
 また、十二月から一月にかけて街路樹にイルミネーションを飾り、夕刻の商店街を華やかな雰囲気にしているが、それも不可能になる。
 自転車道は必要である。とりわけ歩行者の多いこの通りには歩行者の安全のためにも自転車道は必要である。
 しかし、自転車道のためにバス停の設置も困難になり、街路樹も撤去されるとすれば、両側に片側通行の自転車道の設置は問題が多いと言わざるをえなくなる。
 それゆえ、当面は現状こそ最良と申すべきかもしれない。
 むろん、現状とて自転車道の青いペンキは確かに景観上に好ましくないなど問題点がないわけではないのだが、ともかく、この問題の解決には時間をかけるへきであり、前回も申したとおり、性急に事を進めるべきではない。

自転車道の「あり方」決定を今年度中というのは性急過ぎ

2012-01-25 15:54:52 | クルマ社会の問題
 先日の記事でも紹介したように、国土交通省が山形市中心市街地の自転車道の「あり方」について沿道の3つの商店会に対し廃止を含めた3つの案を提示した。
 この提示に対し、商店会がどう対応するかを国土交通省は待っている。
 むろん、沿道商店会の意向を無視や軽視することはできない。
 しかし、自転車道のことなのに、行政は(当該道路は国道なので直接の担当は国土交通省)自転車利用者と自転車道の社会実験が始まる以前に歩道を走行する自転車のために安全な歩行を妨げられることが頻繁だった歩行者、とりわけ高齢者や障碍者の考え方を聴取する機会を設定しようとしないようにすら思われてならない。
 しかも、1月の前半に3つの案を提示して、具体案の決定は今年度中、つまり3月末日までにというのだから、これではあまりに決定までの期間が短か過ぎる。

 たとえ商店会だけの意向を採用するにしても、3つの案のすべてについてそのまま承認することは困難なのでないか。
 ましてや自転車利用者、歩行者(バス等の利用者を含む)の意見をも取りまとめるには一層長い期間が必要となろう。
 いかに商店会の意向が重要だとしても、国と商店会の二者だけで、しかも3か月足らずの短期間で決定するというのは望ましいとは言えない。
 しかし山形の自転車利用者と歩行者には商店主たちが組織する「商店会」のような組織がないから、彼らの意見を聴取するには困難が伴う。
 少なくとも歩行者については老人組織(老人クラブ連合会)とか身障者協会のような組織はある。また、自転車利用者については一番自転車の利用が多い高校生が通う複数の高校に生徒の代表(自転車通学の生徒)を出してもらうよう依頼したり、その他については公募するなどの方法が考えられる。

 この自転車利用者と歩行者の参加呼びかけは誰が行うのかについてであるが、山形の中心商店街を膝元にかかえ、その賑わい回復に最も力を入れているはずの山形市役所が行うのがふさわしい。
 いかに道路自体が国道(13号)だからといって、この自転車道問題を国土交通省に任せっきりということは許されない。せめてこのくらいのことは山形市が行うべきではないか。

 もう一度言いたい。
 この自転車道の在り方の決定はもっと時間(期間)をかけるべきである。

◆写真は積雪期の自転車道 
このように車道はすぐにでも除雪されるが、自転車道の除雪は後回しにされるという問題も付きまとう。このことなども自転車利用者から意見を聴取する機会を設けるべきではないか。
 

有名観光地の駐車場の状況

2011-11-09 09:30:22 | クルマ社会の問題
 ここ、山形県内の某有名観光地の現状の一端を紹介したい。
 背後の山肌はすっかり晩秋の一歩手前の様相だが、真紅の紅葉がほとんど見られないまま落葉しようとしている。
 これもどうやら地球温暖化の表れでもある異常気象のなせるわざのようだ。
 手前は駐車場であるが、ほぼ満車に近い。
 ところが、時刻は4時を経過し、観光客の多くは既にここを去っているはずであるのに、駐車場に多くのクルマが駐車しているとはどういうことなのか。
 そこでナンバープレートを見てわかったことは、ほとんどが「山形」ナンバーであった。
 この観光地にマイカーで訪れる観光客の多くは県外客だから、むろん県外ナンバーがほとんどである。
 つまりはこの写真のクルマは県外からの観光客のものではないのだ。
 それでは何故夕刻近くなのに山形ナンバーのクルマばかりが多いのか。

 この駐車場はまさにJRの駅に隣接している。
 つまり、これらのクルマの利用者の多くは隣県の仙台などへの通勤・通学者だということである。

 この観光地では「駐車場案内」を表向きにした土産物店店員による露骨な「客引き」が多いことで悪名?!が高い。
 それなのに観光シーズンになるとその光景は衰えることがない。
 確かにここをマイカーで訪れる観光客は幾らでも駐車場の標識を見かけるのに満杯の所が多いので、うろうろしてしまう。
 そこに「客引き」のオバサンたちが待ち受けているわけだ。

 むろん駐車場経営者にとっては観光客の利用より通勤客の利用の方がはるかに効率的で利益が多い。
 観光地にでかけるにもクルマ。鉄道利用による通勤にしてもクルマ。
 これでは準世界遺産的観光地も溢れるクルマと無骨な駐車場だらけで景観が壊れるばかりである。
 

この一面の白塗り地盤は何?

2011-10-21 13:27:00 | クルマ社会の問題
 利便は何ものにも優先する。

 この白塗りの地盤の先に門柱のようなものが見えるから、ここはかなりの“お屋敷”か老舗料亭、または寺院の門前のように思える。
 それならそれで門前の小道には瀟洒な敷石のようなものが敷かれて両脇は並木や生け垣、芝生やミニ花壇などで彩られ、風情ある空間となっているはずなのだが、ここでは景観美などは一切求められないようだ。
 確か以前には少なくとも現在よりは若干ながら風情ある門前景観であったが、ご覧のとおりの白塗りだけが広がる空間と化してしまっている。
 なぜこんな無粋で景観美ゼロの空間となってしまったのか。
 要するにここを訪れる人たちの駐車の利便向上だけのために地盤を真っ平らにし、また除草の手間を省き、冬季の除雪や融雪をやりやすくするために単純にコンクリートで塗り固めたためである。
 山形では(むろん山形だけではなく、雪国ではどこでも見られることだが)市街地の至る所にこのような殺風景で景観美ゼロの空間が増殖している。まさしく、利便は何ものにも優先させるべきと考えられているからである。
 晩秋を直前にしてまさしく寒々とした景観であるが、これが地方の破壊でなくして何なのであろうか。

文化貢献欠如のクルマ社会

2011-08-13 07:36:42 | クルマ社会の問題
 姉妹ブログ「山形の過去、現在、未来」(←クリック)の最近の記事と写真でもとりあげたが、あらゆる建築物の中で駐車ビルほど無骨で殺風景なものはなく、文化性が欠如しているものはない。
 もっとも現代建築は機能性重視、機能性優先のために装飾性を極力排除する傾向が強いものだが、それでもなんらかの機能美のようなものは留めているのが普通である。
 これに対して駐車ビルにはその機能美すら感じられるものは希である。
 駐車施設といえば他に平面施設としての駐車場、地下駐車場、そして駐車タワーがあるが、いずれも街並み景観を酷く損なっているものがほとんどであり、日本的美観にはそぐわない
 むろん、駐車タワーのような高さはないが、駐車ビルとて前術のように無骨で殺風景であることには変わりがない。
 ともかくも若者を中心にした「クルマ離れ」が進んでいると言われている中にあっても、市街地における駐車施設が占める面積は激増の一途を辿っているが、これらの駐車施設の「乱造」による街並み破壊は著しく進展するばかりである。
 駐車施設には風情、風格、情緒、潤い、優美、典雅、瀟洒などを感じさせるものはない。
 それゆえ、駐車施設が増えれば増えるほど街から文化的要素が蚕食されていくということである。
 今までもクルマ自体が文化財となったことはほとんど聞いたことがないし、クルマ生産の工場施設が産業遺産となったこともほとんど無いように思える。[もし存在を知る方には教えていただきたい。]
 古い街道が「歴史の道」として指定されることはあっても、高速道路などが文化的財産として永く後世にまで保存されるという見込みもなさそうである。ということは現代の道路はいわば消耗品でしかないということであり、付属する駐車施設もまた後世に長く伝えるべきものではなく、同じく消耗品なのであり、それゆえ文化性を備えておく必要性は無いということであろう。
 だから、駐車ビルが世界遺産に登録されることがあったら、それこそ奇跡であり、「想定外」ということになろう。

◆写真は姉妹ブログ「山形の過去、現在、未来」(←クリック)の写真とは同一対象(真ん中の建物が新しい駐車ビル)を別の角度から撮影したもの。 駐車ビルに特有の耐震用の斜めの支柱が目立たぬように左右を細長い建材でおおうようにしたが、かえって目をちらちらさせる外観となった。

東北の都市の大半は震災以前にメルトダウン

2011-05-28 16:52:46 | クルマ社会の問題

 福島原発は震災直後に急速にメルトダウンしていたようだ。
 いわば原発としての機能が完全に失われただけでなく、その後の「災厄」が非常に心配だ。
 こうして福島県全体までが社会的に完全にメルトダウンしそうでさえある。
 だが、ここ東北地方での「社会的メルトダウン現象」はかなり以前から徐々に進展していたと言える。むろん、この現象は東北地方に限ったことではなく、全国至る所で見られるのだ。
 写真でも示しているように、ほとんどの中小都市は中心市街地の空洞化が著しい。
 数万人規模の小都市はいうまでもなく、十万人以上の都市でも中心商店街はシャッターを降ろしたままの空き店舗が急増し、空き店舗の敷地の活用法があるとすれば、多くが「貸し駐車場」となることしか思いつかないようである。
 つまり、地方都市の中心市街地では駐車場産業しか栄えないようだ。
 それでも空き店舗や民家の空き地が駐車場となるだけ都心部にクルマを乗り入れる人が少なくないということであるのだが、酒田市や石巻市の中心市街地のように「駐車場の需要すら少ない」中小都市が多いのである。
 それらのクルマはどこに行くのかと言えば、広大な駐車場を備えた郊外型の大型店舗や郊外に立地された職場である。
 いずれにせよ、「都市」の場合は商店街に空き店舗や空き地の多少、街を往来する人たちの多少などで「メルトダウンの程度」を視覚的に感じ取ることが可能である。
 一方、人口が希薄な農山漁村部の小集落では民家が「空き家」であるかどうかは視覚的にすぐにはわからないものの、過疎や高齢化が進んでいることは確かであり、農山漁村部でもコミュニティがひどく崩壊していることは確かである。
 つまり、都市も農山漁村部も共にメルトダウン化して久しいのであり、それに「トドメを刺す」かのように出現したのが福島原発事故であったような気がしてならない。
 ◆写真は「上左」が酒田市駅近く「上右」山形市中心市街で目立つようになった貸し駐車場「下左」石巻市中心商店街「下右」日曜日の酒田市中心商店街中町

 上下とも戦前の山形市中心市街地の「賑わい」の様子
 さらにずっと小規模な町でもそれなりの賑わいがあったが、それが失われたのは「クルマ社会」が本格化してからである。
 「復興」とはまさしく「恒常的な賑わいの回復」に他ならない。

原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (4)

2011-05-05 23:53:39 | クルマ社会の問題
 原子力発電の問題に政治色をからめると問題は一層ややこしくなる。
 むろん、原子力発電はいわば国策により推進されてきたものだから、国政が大きくからんだ性格のものであることは確かである。
 これほどまでに原発事故で多くの福島県民が故郷を捨て、農産物どころか工業製品まで放射能汚染が疑われて、全日本がいわば「放射能パニック」に陥ったようにもなり、また、原子炉と使用済み核燃料プールの冷却機能の回復だけでも膨大な費用がかかり、やがては補償金も含めて電力料金の値上がりや国民の税負担のアップを考えると「反原発感情」が国民一般にも広がったようにも思えるものの、今でも「反原発を言うのは左翼」というイメージは根強く残っている。
 政党でいえば、「左翼政党」と呼ばれている共産党や社民党(旧社会党)などは福島原発事故を契機に一層反原発姿勢を強めているし、以前から原子力発電に否定的であったことも確かである。
 しかし、両党が100%原子力発電に否定的であり続けてきたかといえば、必ずしもそうではなかったようにも思える。
 かつての両党は原子力発電どころか原水爆についても100%否定的であり続けてきたとは言い難い言動を表していたことは私の記憶に残っている。
 むろん、両党はアメリカなど西側諸国の原水爆の実験や保有については激しく抗議していた。
 しかし、ソビエト連邦や中国の核兵器の実験や保有についてはそれほど激しい抗議をしてはおらず、それどころか、労働者と農民が主人公の社会主義国家の核兵器は労働者と農民を守り平和のための核兵器であるということで肯定的でさえあったこともある。
 同じように、原発についても「資本主義国の原発は独占資本の利益のためのもの」とし、それに対して「ソ連や中国など社会主義国の原発は労働者と農民の暮らしを向上させるための平和利用」と積極的に肯定する向きすらあった。
 日本の原発についても「原発の安全性の不安」からの反対というよりも、「日本の資本家層は軍国主義復活と軍事大国をめざすために核武装を図る前段階としての原子力発電を推進しようとしている」という意味での反原発であったように思える。
 だから「安全性の不安」を訴えるよりも「核武装化の危険」を訴える主張の方が強く、結果的に日本の原発大国化を許してきたような気もしてならない。

原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (3)

2011-04-25 00:04:30 | クルマ社会の問題

 クルマde花見は続かない!

 山形の桜の開花はだいぶ遅れ、一昨日は二分咲き程度であったが、昨日は好天に恵まれ、一気に六分咲きほどになったため、日曜日ということもあり、山形市を代表する桜の名所の山形城跡公園内はかなりの市民で賑わった。
 しかし、今年は「観桜会」という名の歌舞音曲つきの鳴り物入りのイベントは諸事情で中止となったものの、それを知ってか知らずか、公園周辺の道路は城跡公園の桜見物を目指すクルマで渋滞した。
 上の写真はその様子であるが、決してガソリンを求めての渋滞ではない。
 今でこそ、なんとかガソリンは必要量を供給されているが、たとえ三月の大震災のようなことが再度発生せずとも、次第に供給量は減少し、しかも値上がり傾向も押しとどめることは不可能であろう。
 中国、インドなどの化石燃料獲得のアクションはすさまじいし、ただでさえ「オイルピーク」という石油産出量の限界が目に見えている。また、中東諸国の政治的情勢は混沌化している。
 原発の大増設の気運を盛り立てた自動車業界による電気自動車大衆化をめざす動きは地球温暖化対策以上に化石燃料供給量の限界を強く意識してのことであろう。
 しかし福島原発事故により日本だけでなく全世界的に反原発ないし原発推進に慎重になる気運が強まり、電気自動車の近未来にも暗雲がたちこめている。

◆姉妹ブログ「山形の過去、現在、未来」をも拝読ねがいたし。
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei

喉元(のどもと)過ぎれば・・・・・・何とやら

2011-04-03 17:45:24 | クルマ社会の問題
 上の写真(友人Mさん撮影)と下の写真との違いは如何に?
 どちらも長蛇のクルマの列であり、たぶん渋滞している場面であろうが、二つの車列の間には決定的な違いがある。
 上の車列の場合はガソリン切れが間近なクルマたちであり、下の車列は一応なんとかガソリンが満たされた状態のクルマが多いようだ。
 でもね、クルマのユーザーの皆さん。今でこそやっとのことでガソリンがユーザーにとって必要最低量を供給できるようになったのだが、ガソリンや軽油など化石燃料の供給量が更に先細りになり、しかも中国、インド、中南米などでの化石燃料需要の高まりにより高騰することは必至であることをわきまえてほしいものだ。
 なんで老朽化して危険性が叫ばれてきた福島原発の停止が先送りされて、ついに大地震と巨大津波に見舞われてしまったのかを思うに、化石燃料が地球温暖化の主要因とされ、しかも資源の枯渇が心配されているのにクルマの需要上昇は留まるところを知らず、それを自動車業界は電気自動車の大衆化により乗り越えようと思い、直接的には二酸化炭素を排出しない(※注)原子力発電所の新設と原子炉の増設に期待し、つい最近までの世界的な「原発ルネサンス」の潮流により原発の新設・増設がなんとか可能になりそうだということで、それまで福島第一原発を持ちこたえさせようと図られていたからではないか。
 しかし、原発の大事故により原発の新設・増設はほとんど不可能になり、電気自動車の大衆化もほぼ絶望になったというべきであろう。太陽光発電や風力発電ではとても電気自動車の大衆化は不可能であり、もしそれらにより可能とするには美しい日本の国土を太陽光パネルや風車群で埋め尽くす必要があるし、バイオマス燃料によるクルマを大衆化するには食糧の不足や高騰を覚悟しなければならなくなる。
 だから、クルマのエネルギー源が何であれ、いずれも限界が見えていることを悟るべきであり、社会を挙げて「クルマ依存」から脱却しなければ社会自体の持続は不可能なのだ。
 いくら現在はなんとかガソリンが満たされているとしても、不要不急のクルマの使用は避けて「節約」を心がけてほしい。
 徒歩で1時間少し程度の通勤や買い物ならば徒歩や自転車、公共交通により通勤、買い物をしてほしい。
 ガソリンにありつけるとすぐに道路が渋滞するということは、まだまだ安易にクルマに依存する習性から脱却していないことを物語る。まさしく「喉元過ぎれば熱さ忘れる」である。
 ※注:しかし、停止した原子炉と使用済み燃料棒プールの冷却水の供給のためだけで10年以上もポンプを動かし続ける必要があり、その電力は別の発電所から(火力発電所も多い)供給されるから、かなりの量の二酸化炭素を排出していることになる。