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島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

「社会実験」から本格運用へ  山形市中心街の自転車道(2)

2012-12-18 23:44:46 | クルマ社会の問題
 社会実験つまり自転車道の「試行」期間においてクルマ利用者にとって、また沿道の店舗等にとって最も不満が多かったのは商品の荷卸しや乗客の降車などのために停車が可能な箇所がまったく無かったことである。
 それゆえその「停車可能のゾーン」を是非とも設けてほしいとの商店主等の要望に応える形で、歩道の一部を削減して自転車道も歩道内に食い込ませ、その脇にクルマの停車帯を設けることとなった。
 ただし、「停車可能ゾーン」が設けられたのは、既に商店等の建物がセットバックされてその分だけ歩道が広くなっている箇所だけに限られているために、そのゾーンの数は決して多くはない。
 ところが、せっかく設けられた停車ゾーンに停車せずに堂々と?車道に停車どころか駐車しているクルマも時折見受けられるのは残念である。

「社会実験」から本格運用へ  山形市中心街の自転車道(1)

2012-12-14 07:16:56 | クルマ社会の問題

 2年以上前から「社会実験」として運用されていた山形市中心街「ほっとなる通り」の自転車道は「実験」中の道路東側の「双方向」路線から道路両脇の「一方通行」路線へ、そして路面の色彩も「ブルー」から「ブラウン」へと大幅に変更されて本格運用されることになった。
 もう一つの大きな「改変」は両側の数か所ずつに貨物車両の荷捌きや乗り降り用の停車ゾーンが歩道を削った上で新設され、そのために自転車道のコースも若干の曲折を余儀なくされたことである。
 当然、この大幅な改変による再スタートに対しても早速様々な批判やら感想の声が挙げられているが、今回以降、再出発の自転車道についてシリーズ化し、問題点など論じていきたい。
 ◆下は「社会実験」の際の自転車道

事故は操縦士(ドライバー)の操縦(運転)ミス

2012-10-05 07:41:40 | クルマ社会の問題
 岩国基地に駐機していたオスプレイの大半が沖縄に着陸し、とうとう試験飛行を始めた。
 むろん、基地の近くでは反対活動の人々の集団が「ハンターイ」の声を上げている。
 また、沖縄県知事や普天間基地のあるお膝下の宜野湾市長は抗議している。
 つまり「事故の危険性の怖れが払拭できないままの飛行」は絶対に許すことができず、また日米両政府の「オスプレイ安全宣言」はとうてい納得いくものではないとしている。
 さらに、両政府による「同機の過去の事故はすべて機体そのものの欠陥によるものではなく、操縦士の操縦ミスによるもの」という発表にも疑念を示している。
 だが、航空機とは大きさがだいぶ違うが、同じ移動性機械で常に事故の報道がなされ、日本だけで年間数千人の死者や百万人近い負傷者を出していながら、まったく運行が差し止められる気配がないものがある。
 それはクルマという移動性機械である。
 クルマの場合も事故の大半はドライバーの運転ミスや交通法規違反によるものとされ、クルマ自体の欠陥が事故の原因とされることは滅多にない。
 それらのクルマの車種名称を仮に「メスプレイ」とか「コスプレイ」としておこう。
 オスプレイの飛行が許されないならば、メスプレイとコスプレイの走行も許すべきではないはずである。
 沖縄県内では沖縄県民も米兵も自動車事故を起こしているのだが、「米兵だけはクルマを運転するな!」という声は聞いたことがない。

世界最強の「真理教」とは?

2012-06-14 04:34:31 | クルマ社会の問題
長年指名手配されていたオウム真理教の菊地直子容疑者が逮捕され、また同じく指名手配の高橋克也容疑者の直近の写真が公開されて、再び「オウム真理教」の名がマスコミを賑わすようになった。
 確かにこの教団がやった数々の大量殺人の罪は巨大であるが、彼らが彼ら以外の人々(日本人だけに限らない)に及ぼした宗教的影響はとるに足らない規模でしかない。
 宗教的影響は単に信徒数の激増に現れ、信仰施設が増えるだけにとどまるものではなく、信徒大衆の日常生活の在り方自体にも及ぼすものである。
 例えば、今年のアメリカ大統領選挙の共和党の候補者のロムニー氏はモルモン教徒であるが、モルモン教徒は厳格な禁酒主義者でもあるから、彼らが多いユタ州にはアルコール類を提供する商店や飲食店は希である。
 しかし、オウム真理教がマスコミを賑わすことになってオウム信徒以外の日本人の日常生活が少しでも変えられたということはない。
 厳格な禁酒はモルモン教だけではなく、一般のキリスト教の諸派やイスラム教でも禁酒が大きな特色となっている。
 だから、この種の信徒が多い地域や国々では酒文化は低調そのものである。それゆえ飲酒運転をする者はほとんど存在しない。
 ところが交通事故や交通事故による死者が少ないかといえば決してそんなことはない。
 むしろ、交通事故や交通事故による死者数の割合は日本を大きく上回る場合が多いようだ。
 つまり、アルコール類は一滴も口に含んでいなくとも、アルコール類以外のものに酔いしれて事故を引き起こしていることになる。
 それは他人よりも少しでも速く移動できることが「より良き生活」になるというプリンシプル(原理)であり真理であるという漠然たる信念である。
 この形の「真理教」なら全世界を覆い尽くしており、中国やインドなどではさらに勢いを増している。
 だから、この感覚に支配された場合はイスラム教もヒンズー教もモルモン教も毛沢東主義も、さらには脱原発主義(これを主張している人たちの多くもクルマは欠かせないとしている)もクソくらえになってしまう。
 そして地球を覆う大気と海水の環境は激変の状態に突入したとさえ言える。
 それが日本でも頻発するようになった竜巻ではないか。

悲しく響いた祇園精舎の鐘の声

2012-04-13 18:11:19 | クルマ社会の問題

 つい近日の記事で京都八坂神社の写真を掲載したところ、すぐお膝下の祇園で「信じられない」ようで「大いにありうる」大事故が起きた。
 てんかんを患っていた青年がクルマを暴走させて十数人を死傷させ、そのうちなんと7人もの命が失われた。
 前の2回の記事(4月4日および7日付け)でも説明したように八坂神社の祭神は牛頭天王という祇園精舎(古代インドの仏教寺院)の守り神であるが、平家物語では祇園精舎の鐘の声は「諸行無常の響き」があると語られている。
 つまり栄えあるものはいつかは衰退するということであり、現代に当てはめればクルマ社会ではないかということを論じたつもりであるが、この度の大事故はまさしく「クルマ社会のほころび」を悲劇的な形態で表出したものと言える。
「みやび」であるはずの世界遺産の京都でもクルマの騒音・振動はすさまじく、数年前に訪れた八坂神社の門前の大通りは猛スピードで疾走するクルマが多く、怖さすら感じたほどである。
 とうとう京都でもそんなクルマにより大惨劇が生じたわけである。

 ↑ 八坂神社の正門(再掲) ※見出し写真は数年前撮影
 

前回記事の回答

2012-04-07 00:16:40 | クルマ社会の問題
 最初の写真の八坂神社については祭礼が京都を代表する祭りとしてあまりにも有名な祇園祭であり、神仏混淆時代は牛頭天王を祭神としていた。
 牛頭天王は釈迦が説法した祇園精舎の守護神である。祇園精舎と聞けば、「祇園精舎の鐘の声」から始まる平家物語の冒頭のくだりを連想する人が多いと思われる。
 平家物語と聞けば、何と言っても平清盛の登場と権勢のことが連想される。
 そして平清盛の権勢が絶頂期の時に彼により大修築されたのが厳島神社であり、第三番目の写真である。
 その栄華を極めた平氏も清盛の死とともに権力基盤が傾き始め、滅亡へと向かう。

 さて、原発事故後も依然として衰えを見せないのが「クルマの渋滞」(四番目の写真)である。
 これは大量の化石燃料がまだ何とか供給可能だからである。
 クルマの大衆化により日本は本格的なクルマ社会を迎え、既に30年を経過した。
 このクルマの大衆化は工場での大量生産によりもたらされた。
 部品や関連物品を含めれば自動車関連産業の裾野はきわめて広大であり、大量生産のためには日本の原発列島化は避けられなく、54基をも数えるに至った。
 しかし、今なお大半のクルマは化石燃料により走っている。
 石油産業(二番目の写真)の主要なお得意先は「おクルマ様」であり、家庭の灯油は副次的な「おこぼれ」でしかない。だが、石油は国際情勢いかんで供給量に不安がある(ホルムズ海峡など)上に、将来の枯渇が懸念され、また地球温暖化の主力視されており、自動車業界も「脱石油」に懸命である。
 当然クルマ産業は「二酸化炭素を排出しないクルマ」としての「電気自動車」の開発と効率化、普及に力を入れている。むろん、電力の供給源を火力発電所に求めるのは矛盾するから、当然「原発推進」を国と電力業界に要望してきた。
 ところがフクシマの大事故が発生し、原発の増設どころか廃炉の傾向にある。
 そこで風力とか太陽光などの自然エネルギーによる発電ということになるが、たとえ琵琶湖の広さの土地に風車や太陽光パネルだらけにしたところで、旧盆の頃に電気自動車で帰省することなど困難になり、それゆえ高速道路が電気自動車で大渋滞することなどありえない時代が到来するであろう。
 まさに、隆盛を極めたクルマ社会は原発事故により衰退期を迎えようとしており、あたかも平家のごとしである。ただ春の夜の夢の如しと申すべきであろう。

この汚れはセシウムのせいなのだろうか

2012-03-10 20:45:10 | クルマ社会の問題



 黒光りするほどのどす黒いのは何だろう。
 福島県民、特に原発被災者に元気を与えてくれたフラガールたちの故郷に今も残る炭鉱から排出されて築かれたボタ山のようでもあるが、決してそれほどの大きさのものではないし、かと言って何かの燃えカスが堆積したものでもなさそうである。
 この薄汚さの中に、白い雪のようなものも混じっているが、やはりどうやら雪そのものである。
 それにしても不気味なほどの汚さである。
 むろん、これを食べてみたいとか、舐めてみたいというような者は居ないであろう。
 ところで、この汚れの正体は何なのだろうか。
 もしかしたら、いま日本国中で一番有害なものとして怖れられているセシウムによるものなのだろうか。
 むろん、セシウムは「目に見えない、臭わない」のが特色だから、この黒さはセシウムの色ではない。
 これらの堆積物の山の所在地はすべて車道のすぐ脇にある。
 もともとは道路の除排雪によって車道脇に堆積させられた人工の雪山であるが、当初は純白でミニ・アルプスさながらにきらきら輝いていたのだが、やがて次第に黒ずんできて、ひどい場合は黒ペンキで塗り固められたようになる。
 どうしてこれほどまで黒ずんでくるのかを研究した学者の存在は知らないが、おおよそのことは推察できる。
 つまりは沿道の大気と路面自体も汚れきっているから、除雪の際に路上の粉塵が一緒に押し込められ、融雪に伴い露わになったり、沿道の大気の粉塵が降り積もったり、路面の泥になった粉塵がクルマの走行により跳ね上げられたりして「汚れ」に度を加えたものであろう。
 クルマの走行が多ければ多いほど、またクルマの速度が速ければ速いほど排気ガスに含まれる汚染物質や有害で微細な粒子が多く撒き散らされ、またタイヤの回転に伴い舗装道路の磨滅も激しくなり、それだけ多くの粉塵が生じる。

 一年前の大震災に伴う原発事故の後に放射性物質の「除染」が強く叫ばれる一方で、多数のクルマの走行に伴う有害物質の大量噴出にはきわめて鈍感になっているようだ。
 いかにセシウムが除染された(セシウム自体は減少するわけではない)としても、日本の大気には有害物質が蔓延し、路面は有害粉塵の生産工場であることを忘れてはならないだろう。
 車道の脇に堆積された人工雪山の極度の汚れはこのことを教えてくれているのだ。
 だが、愚かな車用族はなおもクルマの使用をやめようとはしないであろう。
 そしてセシウムさえ除染されれば「安全安心」が回復されると信じているようでもある。
 加えて言うなら、原発なしに現在のクルマ社会もありえなかった(※注)のだから、セシウムなど「受けて立つ」べきではないか。

  ※注 本体と諸部品の大量生産のためには膨大な量の電力が不可欠 また、特に夜間操業の場合は夜間も稼働する(日中と夜間で出力の上下が困難)原発は頼りになる。 

日本のローテンブルグで疾走する「雲助」

2012-03-06 22:04:41 | クルマ社会の問題



 重要伝統的建造物群で有名な長野県東御市の「海野宿」を訪れた。
 まだまだ冬同然のシーズンオフであり、生憎の雨模様でもあったので、観光客の姿は希で、自分だけの「貸切」状態であったが、土産物店もほとんどないし、資料館とて閉館の状態であったせいか、ただ通過するだけのクルマが歴史的景観にミスマッチであった。
 これらのクルマは決して私のような旅する者を乗せて法外な乗車賃をぼったくるわけではない。
 でも私はあえてこれらのクルマを「雲助」と呼びたい。
 なぜなら、路上で左右の素敵な歴史的建造物をゆったりと眺めようとしているところを「そこ退け、そこ退け」とばかりスピードを落とすことなく疾走し、危険を感じさせるだけでなく、騒音をふり撒き、落ち着いた歴史的雰囲気すら奪い取ってしまうからである。

これで舗装道路の「汚れ」がわかる

2012-02-24 23:24:17 | クルマ社会の問題
 現今の東日本はセシウムなど放射性物質さえなければ「安全安心」でいられるらしい。
 特にアスファルトで舗装された道路ならば平板だから、路面に沈着したセシウムも風に吹き飛ばされたり雨水で流されたりするから、路面の放射線量は低いのが一般的なようだ。
 それに対して側溝などに溜まった泥などにはセシウムも溜まりやすいから、当然アスファルト路面よりはだいぶ放射線量は高くなる。
 でも、それでもって舗装路面が安全安心であると言うには早過ぎる。
 見出しの写真を見ていただきたい。
 車道の除雪作業により路肩に積み上げられた雪の車道に面した部分がすっかり黒ずんでいるが、この道路はむろん土がむきだしの未舗装道路ではないし、近くにも未舗装道路があるわけではないから、タイヤに付着した未舗装道路の土や泥とは思われない。
 それでも車道に面した部分は泥をぶっかけたように汚れきっている。
 思うに、舗装の路面はアスファルトとクルマのタイヤの摩擦で生じた粉塵と排気ガスに含まれる様々な汚染物質などの沈着により平常覆われているのである。
 それらを日常、特に歩行者や自転車の利用者が吸い込んでいる。
 それでも直ちに病院や医院に駆け込む人は少ない。
 しかし、10年や20年、或いは30年の後には顕著な健康被害となって現れる可能性が高い。
 これらの年数のことはよく聞くが、まさしく放射能による被害と同じではないか。
 道路粉塵や排気ガス起因の汚染物質もふだんは「目に見えない、臭わない」し、体内に取り込んだとしても「直ちに健康に影響はない」のである。
 でも、この雪に付着した黒ずんだ汚れの部分をアイスクリームのように食べたいと思う人は存在しないはずである。

雪国の道路の使い方

2012-02-06 21:52:44 | クルマ社会の問題
 
 またまた新潟県十日町の戦前の豪雪の模様の写真。
 これを見れば、道路にはうず高く雪が積み重ねられている。
 この時代までは道路はいわば「雪捨て場」としての役割を担っていたようである。
 むろん、人間が歩いたり、橇(そり)がすべれる程度の幅だけは確保されていた。

 次に、下の写真は山形市の中心市街地のこれまた戦前の雪模様。
 でもさすがに道路の大部分が雪捨て場にされているようには見えない。

 むろん、山形市と新潟県十日町の積雪量は比べものにならないということもある。
 それにしてもこの道路は現在に変わらぬ「大渋滞」。
 でも、渋滞は渋滞でも乗り物は超小型。
 しかも路面に雪がなければ動けない乗り物だ。
 それも5センチや10センチ程度の雪の路面ではすべり心地がすこぶる良くない。
 だから路面の雪の厚さが薄くなれば、脇に積まれた雪を運んで路面を修復する。
 いわばスキー競技会でゲレンデが雪不足の場合に雪を運んだり人工雪でコースを整備するのと同じである。だから現代のようにアスファルトの路面が見えるまでに除雪するようなことはありえない。

 現代の自治体が除雪費で苦しむのは、あまりにもクルマを優遇しようとするからである。

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   同じく新潟十日町の戦前の雪模様の絵葉書を5枚見られます。