天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

永続的な平和の構築 ~受賞記念演説より

2009年12月10日 | オバマ
 私たちが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきました。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しましょう。
 まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際にも、暴力に代わるものをつくり出していかなければならないと、私は信じています。永続的な平和を望むなら、それは態度を改めさせるのに十分なほどに強くて、国際社会の言葉として何らかの意味をなすものでなければなりません。規則を破るような政治体制には責任を負わせねばなりません。制裁は実質的な効果がなければなりません。非協力的な態度には圧力を強めなければなりません。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのです。
 核兵器の拡散を阻止し、核兵器のない世界を追求する取り組みが急務です。前世紀の中ごろ、各国は(核拡散防止)条約に従うことで同意しました。その取り決めは明確です。すべての国が原子力を平和利用でき、核兵器を持たない国は所有を断念する。核兵器を持つ国は軍縮に向けてまい進する。私は積極的にこの条約を支持してきました。条約は私の外交政策の要です。そして私はメドベージェフ大統領と一緒に、米国とロシアの核備蓄を減らす作業を行っています。また、イランや北朝鮮のような国が核不拡散体制を悪用しないよう主張することも私たちの義務です。国際法に敬意を払う者は、法がないがしろにされたら目を背けることはできません。自分の安全保障を心配する者は、中東や東アジアでの軍拡競争の危険性を無視することはできません。平和を追求する者は、核戦争のため各国が武装するのを何もせず傍観してはならないのです。
 同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用されます。ダルフールの大虐殺やコンゴでの組織的強姦、ミャンマーの弾圧、これらは責任が問われなければなりません。私たちが結束すればするほど、武力介入するか(何もせず)抑圧の共謀者となるか、私たちは選択を迫られなくなるでしょう。

 これは第2の点につながります。私たちが求める平和の本質についてです。平和は目に見える紛争状態がないということだけではありません。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができます。第2次大戦後、世界人権宣言の起草者を後押ししたのはこの洞察です。荒廃の最中、彼らは人権が守られなければ、平和は空虚な約束にすぎないと認識したのです。しかし、こうした言葉が無視されることはあまりにも多い。人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もあります。米国では長い間、自らを現実主義者と称する人と、理想主義者と称する人の間で緊張関係が続いてきました。狭量な利益の追求か、自らの価値観を押しつける果てしない運動か、明確な選択をするよう提案してきました。私は、こうした選択を拒みます。私は、市民が自由に話したり、好きなように礼拝したり、指導者を選んだり、何の恐れもなく集会を開いたりする権利を否定されるところでは、安定した平和は得られないと信じます。不平がたまって膿になり、部族や宗教のアイデンティティーに対する抑圧は、暴力につながり得る。私たちは、その反対も真実だと知っています。欧州が自由になった時、やっと平和が訪れました。
 米国は民主主義に対する戦争はしていません。私たちの最大の親友は、市民の権利を守る政府です。どんなに冷ややかな見方をしても、人類の思いを否定することは、米国の利益にも、世界の利益にもなりません。米国は様々な国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になります。アウン・サン・スー・チーさんのような改革者の静かなる威厳の証人となります。暴力にさらされながらも票を投じる勇敢なジンバブエ人や、イランの通りを静かに行進した数十万の人々の証人となります。このことは、これらの政府の指導者は、ほかの国家の力よりも、国民の思いを恐れているということを物語っています。希望と歴史はこうした運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任です。
 これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できません。時には、労を惜しまない外交と連携させなければなりません。抑圧的な政権に関与すると、義憤を持った純粋なままの状態でいられなくなることは分かります。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科したり、議論の余地なく非難するだけでは、現状は悪いまま進む可能性があることも分かります。抑圧的な政権は、開かれた扉という選択肢がなければ、新たな道を進めません。文化大革命のおぞましさを考えれば、ニクソンが毛沢東と会談したことは許し難いと思われました。けれども中国が多くの市民を貧困から解放し、開かれた社会とのつながりを持つ道筋をとる助けとなったことも確かです。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世のポーランドとのかかわりは、カトリック教会だけでなく、ワレサのような労働運動の指導者にも活動の場をつくりました。レーガンが軍縮に向けて努力しペレストロイカを受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけでなく、東欧全体の反体制派に力を与えました。単純な公式はありません。孤立させることと関与すること、圧力をかけることと励ますこと、両者の間のバランスを取るよう、最善を尽くさなければなりません。そのようにして人権と尊厳は徐々に向上するのです。

 第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえません。経済的な安定と機会が保障されなければなりません。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからです。これは疑いようがありませんが、安全がなければ発展が根付くことはほとんどありません。また、生きるのに必要な十分な食料やきれいな水、薬や住居が手に入らなければ安全は保障されないのも真実です。きちんとした教育を受けたり、家族を支える仕事を得たりするという子供たちの望みがかなえられないところに安全はありません。希望がなければ、社会は内側から腐りかねません。それゆえ、人々に食料をもたらす農家や、子供たちを教育したり病人を世話したりする国々を支援することは、単なる慈善事業ではありません。
 このことはまた世界が団結して気候変動に立ち向かわなければならない理由でもあります。もし私たちが何もしなければ、長年にわたる紛争の原因となる干ばつや飢餓、人々の大量移動をさらに引き起こすことになるというのは科学的にほとんど争いのない事実です。このため、即座に力強い行動をとることを求めているのは科学者や環境活動家だけではありません。わが国や他の国の軍幹部らも共通の安全保障が不安定な状態にあるということを理解しています。

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