天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

八幡古表(こひょう)神社〜神功皇后住吉

2020年02月13日 | 豊の国


中津城から山国川対岸の古表神社をのぞむ。河口の先は吹出浜。

社伝によると、神功皇后三韓征伐の折、「此処の海辺の石の上にて神々を祭る。 よって、軍卒多く集まり船をも調達、険浪を渡り三韓を伐つ。 」「 今よりこの良き地に住みて永遠に国家国民を守護せんとす。 」と土着玉手翁に託して545年鎮座。当初、息長大神宮、後にこの古へを表す古表神社へ。



三輪鳥居



東脇殿 四十柱神社(古表大明神)-祇園大神たち細男舞(くわしおのまい)・神相撲の神々-744年

実際には四十七の神々。神相撲、行司は八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)

本殿 八幡宮(息長大神宮)-息長帯姫尊(神功皇后)、虚空津比売命(豊姫命・皇后の妹)

西脇殿 住吉神社(住吉三神)-神相撲、無敗の西横綱



住吉大神と祇園大神の取り組みを八意思兼神が審き、神功皇后が見守ります。

細男舞(くわしおのまい)・神相撲は「美女・美童の形を表す御神像を造り、戦場において伎楽を奏し、寇賊の心をとらかし、疲れていた官軍の士気を奮いおこしたところ、敵を誅つことができた。」との由来。

隼人の霊を慰めるために始められた放生会では、にな貝を放し、細男の伎楽を奏する。にな貝を放上するのは、隼人反乱の時、海に追い落とされて滅ぼされた隼人がにな貝になったとされるため。

八幡古表神社の傀儡子の舞と相撲


奈良時代に始まる宇佐神宮の放生会に古表船を出し、傀儡子(木彫りの操り人形)を操って細男の伎楽を奏したのが起源とされ、東西10体ずつの神々によって逐次、勝ち抜き相撲。次いで東・5体の神々と西・住吉神の飛び掛り相撲。次いで東・11体と西・住吉神の押し合い相撲。最後に、東西4体ずつの女神による八乙女舞が奏されて終わります。現在は4年に1度の放生会で奉納され、昼間は沖合に繰り出した船上で一部が披露され、夜は古表神社境内の神舞殿で、およそ1時間半にわたって披露されます。



神社に伝わる細男舞(くわしおのまい)の御神像に着せる着物を1年に1度、8月6日・7日に虫干しする乾衣祭(おいろかし)。中津藩の歴代藩主は、この着物(神衣)を寄進しており、黒田官兵衛・長政が寄進したものが6着保管されています。明治以降は一般の氏子からの寄進も認められ、現在では1,000着以上の神衣が奉納されており、乾衣祭のときには色鮮やかな衣が社殿を埋め尽くします。

仏教の殺生を戒める教えにならって、供養のため捕らえた生き物を野に放してやる宇佐神宮寺の弥勒寺の重要な行事でしたが、平安時代の古くから上毛郡(かみげぐん)と下毛郡(しもげぐん)の古表社が、和間神社浮殿の前の海上で、傀櫑子舞(くぐつまい)を奉納していました。江戸時代になると、古表社は独自でこの祭りを行なうようになりました。八月六・七日、乾衣祭(おいろかし)と一緒に行われます。山国川を海上一里にかけて上下して、放生儀式と細男舞が執行され、蜷などの魚介類が放されます。古表神社境内では、細男舞・神相撲・神楽などが奉納されます。



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