悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

水道水の異臭騒ぎ

2013-11-20 17:28:12 | 雑記

古河市では、今月12日(火)の夕方から、水道水から異臭がするという訴えが相次ぎ、
給水車を出す騒ぎになった。
私は、翌日の昼頃、近所の肉屋に買い物に行き初めて知った。
まったく気がつかなかったと言うと、おかみさんが水をコップに汲んできてくれた。
まったく異臭も、異常も感じなかった。
水道管の敷設位置(流れ)の関係で、我が家では匂わないのではと言ったが、
私の味覚にも問題がありそうである。その後も、まったく異常を感じなかった。

本日一週間ぶりに肉屋に行った。また同じ話になったが、思川で取水した水は、
古河市全域に配水されているので、家によって違うというのはおかしいと言う。
どうにも気になったので、水道課に電話して聞いてみた。
旧古河市内は、全域同じ水が流れているが、市内を縦横に走っているので、
配管の状況によっては匂いのない水が家庭に流れていく可能性はあるとのこと。
また、取水口から最も遠い大山地区では、地域一帯で匂いがしなかったとのこと。

それでもピンとこなかったので、近所を聞いて回った。多くは、微かに感じたが、
それほど気にならなかったと言う家もあった。
結果、市水道課の言うとおり、同じ市内でも異臭のない水が回っている地域があり、
市内各地でばらつきがでたようである。

水道課員はいっとき緊張したと思ったので、「たいへんだったですね」と言うと、
ほっとしたような、嬉しげな反応が返ってきた。


新聞記事から

2013-11-19 21:17:25 | 雑記

ナチスの暴虐の中でも人間性(何を持って人間性というのか難しいが)を保ち、
仲間への思いやりをさえ発揮した人々がいた。私にはできないだろう…
フランクルの「夜と霧」を読んだ感想はそんなものだった。

本日の朝日新聞第2面「ひと」欄を読んだ。
ホロコースト第二世代の作家「エヴァ・ホフマン」が紹介されていた。
両親は、ナチスの大量虐殺を生き延びたユダヤ人だから第二世代になる。
父母のものであっても、自分の経験ではない。
私にとってのフランクルの経験は、それよりも遠い。

そんな私が受けとめたことには、どんな意味があるのか?

彼女が初来日したとき、広島、長崎、福島を訪問した。被爆2世と語りあい、
「弱い立場の親」に対して、複雑な矛盾する感情を共有したと感じたそうだ。
親を保護したくなる気持ち、何もできなかったのかと軽蔑したくなる気持ち、
そう思ってしまうことへの罪悪感などなど…。
これらの矛盾した気持ちを持ち続けることは、かなり辛いだろうと思う。
書くという行為を通して、
「第二世代は感情的なものと歴史をつなぐ位置にいます」と言う。

著書の代表作の邦題は、「記憶を和解のために」

「出来事の単純化、短絡的な反応は好みません」と言い、
「未来の世代も歴史的な事実が個々の体験であると感じるかもしれない」と言う。

社会のさまざまなできごと、広島の、沖縄の、福島の体験、被差別者の苦悩、
たとえばろう者の労苦などが、自分の体験であるように感じることができる世代、
個々人が、少しずつでも増えていけば、社会は変わっていけると思う。


ベンチの話

2013-11-18 21:15:53 | 町づくり

笠間で見たベンチは、店に電話をして聞いたところ、15,000円であった。
送ってもらうと高くつくので、車で取りに行った方が良さそうだ。
2列目、3列目のシートを倒すと、何とか車中に持ち込めそうだ。値段が張るので、
ホームセンターに類似商品を見にいった。
以前使っていたものと似た形のものは8,000円くらいだが、けっこう重い。
笠間の商品は背もたれがあるので、近所の老人などが座るには適当だ。
2mもあるので、門扉を開いて置かないと、人や自転車の出入りに邪魔になりそうだ。

けっきょく、今日のところは迷いつつ、どちらとも選ぶことができなかった。

もう一つの問題は、すでに2個盗難にあっているので、対策をしておきたい。
バイクの盗難予防チェーンを使うことが考えたが、雨が降ってきたときに面倒では困る。

このベンチの話は、すでに何回も書いている。この取り組みを市民が真似をして、
古河市内いたるところに休憩所があり、誰でも座って休むことができるようにしたい。
そんな思いで始まったのだが、反応はほとんどない。



誰か言いふらしてくれないかな~

歩いて暮らせる街「古河」を目指して、もう少し続けていきたいと思う。

そのためのベンチ探しであった。


笠間の500選を歩く

2013-11-17 20:16:24 | ウォーキング

「美しい日本の歩きたくなる道500選」は、参加した大会が認定大会であった場合に、
ついでに押印を受けるという程度の取り組みであった。
本日、高萩ウオーキングクラブ主催「笠間の菊まつり」に参加し、茨城県を完歩した。
茨城県最初の押印が、2006年であったから、7年がかりということになる。
各ヵ所ともに年に1回は開催しているので、熱心な人は、最短1年で達成できる。
まったく気の長い話であるが、1つひそかな楽しみがあった。1つの県を完歩すると、
希望すればバッジがもらえる。このバッジは、茨城県の地形をかたどったものなので、
記念としてリュックにつけて歩きたいと思っていた。~時は移り、規則が変わった。
県単位の表彰がなくなってしまった。残っているバッジを頒布するだけとのこと。
バッジは残部僅少と聞いているので、間に合うだろうか。
明日さっそく問い合わせてみよう。

ところで、笠間稲荷を出て間もなくのところに中古の家具を並べた店があった。
店の中に2mもある木製のベンチが目を引いた。店は品物だけ、店舗は数軒先。

先にも報告したが、当家のベンチは2度にわたり盗難に遭い、一つもなくなってしまった。
あちこちと探していたが適当なものがなかった。値段にもよるが、気に入ったので、
明日にでも電話をして聞いてみたい。大きいので車で運べるか心配だ。

また、笠間らしいできごとを一つ。朝、駅のトイレに入ったのだが、男女を間違えてしまった。
出てみて気がついた。女性トイレだった。

この後、「芸術の森公園」で昼食となり、トイレを見ると同じ表示がしてあった。
今にして思えば、左が男性、右が女性であるとわかる。
しかし、駅のトイレは同じデザインで、約4分の1のサイズ。良く見れば、確かにわかる。

駅にゴールし、周囲の人に聞いたところ、間違う人が多く、管理者も困っているとのこと。
「芸術もよいが」とは言いたくないが、もう少しわかりやすい方が良いと思う。

思い返すと、朝、笠間駅のトイレを出たとき、女性がいぶかしげに振り返ったのだった。


長距離ウォーク

2013-11-16 18:32:15 | ウォーキング

いぶすき菜の花マーチに参加するにあたり、池田湖を回る40㎞コースに参加したいと、
長距離の経験が少ない参加者が希望している。歩けないとわかれば、アンカーないし、
救護隊に頼んでしまえばよいのだが、引率者としてそうも言っていられないので、
来月の「汽笛一声ウオーク」に誘ってみることにした。この大会は、33㎞コースがある。
脚試しにはちょうどよいので、新橋から桜木町まで歩くことになる。
新橋から横浜までと言ったらびっくりしていたので、頼りない話である。
この大会は、ほぼ東海道線に沿って南下するので、どこでまいっても電車に乗れる。
私も安心して帰せるので、気が楽だ。
この挑戦者は、毎日5㎞~8㎞を歩いていると言っていた。20㎞未満と、30㎞以上は、
脚への負担が違うので、この経験はあまり頼りにならない。
彼はろう者なので、どんな道中になるのか、不安半分楽しみ半分である。


連鎖反応

2013-11-15 18:14:13 | 読書

藤沢周平のエッセイ集を読んでいる。ほっとするような、面白いことに気がついた。
ミステリー小説が好きなことはよく知られている。
懇意にしている編集者におすすめの小説を教えてもらうことを楽しみにしていたそうだ。
また、頼まれた小説やエッセイなどを書きながら、好きな小説を読みふけってしまい、
筆が進まないことがよくあったと書いている。
編集者が家に来たときなどに、「サスペンス小説を読んでいまして、と言うのは、
原稿遅れの言いわけとしてはまずい」などとユーモアたっぷりに書いている。
私も、機関紙の発行期日が迫っていながら、藤沢周平の小説などを読むのを中断できず、
優先すべき作業になかなか取りかかれないことがある。
また、今読んでいる「小説の周辺」というエッセイには、『読書日記』なるものがあり、
読んだサスペンスものが何冊もあげられている。簡単な感想も書いてあるので、
読みたくなる。そうして読んだ本も何冊かある。

現代物だが、小説の主人公が好きな曲を取り寄せて聞いてみることもある。
そうして好きになった曲の1つに、「ジョージ・ウィンストン」の『Longing Love』がある。
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この曲は、松岡圭祐の「千里眼シリーズ」の中で、主人公の岬美由紀が触れていた曲。
主人公は、元航空自衛隊の優秀なパイロットで、臨床心理士になった魅力的な女性。

また、主人公が読んだ本に関心を持ち、図書館で探したりということもある。

こんな行ったり来たりや、はしご読書も、本を読む楽しみの一つである。


記録のない世界

2013-11-14 18:44:50 | 雑記

大森貝塚の発見者として有名な「モース」が、日本滞在中に収集したコレクションが、
江戸東京博物館に展示されている。
明治初期の日本で庶民が実際に使っていた道具や、泥の付いた下駄などを見てきた。
色づけした写真に写っているのは、生き生きとした職人や子どもの姿である。
日本に来た外国人の多くが、日本の住居、食事、人そのものに、高い評価をしている。
約120年前の日本に思いを馳せるのは、楽しい。戦前戦後で大きく様変わりした日本。
それでも、これらの写真や、道具類を見ていると、人の生活は続いているのだと感じる。
昨年は、東京都写真美術館で、やはり幕末期の日本を撮った写真展を見た。
100年後、孫の孫あたりが、私の生きていた時代を写真や映像で見る機会があれば、
どんな感想を抱くだろうか。

私は、写真をあまり保管していないし、映像も1~2点しかない。
これらを、他者が見る機会ははたしてあるだろうか。

そのような光景を想像するとき、まったく記憶されていない光景の方が現実味がある。


楽しい仕事

2013-11-13 16:45:37 | 雑記

仕事で楽しい経験をすることはあまり多くないと思う。好きで選んだ仕事でもそうだ。
私にとって、40年の間に楽しくできたと思える仕事は、「おおぞらウォークラリー」だ。
ウォークラリーの実施にあたり、障害者と家族やボランティアがチームを組む。
設問は、手話、点字などで出される。手話を読めるろう者、点字を読める盲人に助けられて、
チームはコース課題をクリアしていくことになる。
最初のチェックポイントでの設問は、「春を見つけてください」。
福祉事務所の職員に手を引かれた盲人が、道ばたの野草の香りなどに春を発見するが、
ひとしきりその話題に盛り上がった直後、一瞬だが、置いて行かれてしまった。

職員の撮ったビデオには、その様子がしっかり撮られていた。

その後、いくつかの課題を解きながら、和気あいあいとチームは進んでいく。
ゴール直前のチェックポイントでは、手話で課題が出された。
ここではろう者が問題を読み取り、手話サークルの人が他の人に伝える。
皆で答えを考え、チェックカードに答えを書き終わり、さあ、ゴールを目指そうというとき、
先の福祉事務所の職員は、「○○さん行きましょう」と、自然な様子で手引きをする。
こんな風景を見ると嬉しくなる。ウォーキングゲームである「ウォークラリー」を通して、
ノーマライゼイションの実現を、という主催者のテーマがみごとに実現されていた。

これは、ビデオ担当のKさんが、趣旨をよく理解していたからこそ撮れた画像だと思う。

盲人の参加者には、点訳友の会の人が「レーズライター(表面作図器)」でコース図を作る。

 

弾力性に富んだシリコンボードの上に、薄い透明の塩化ビニールシートを置き、
その上からインクのないボールペンで書くと、シートの表面にその筆跡が盛り
上がって出てくる仕組みになっている。
この道具で、コース図を作ると、交差点でどちらに曲がるかがわかる。

盲人の参加者は、「次の十字路は左に曲がるよ」などと声を上げていた。

 


市民活動支援センター②

2013-11-12 17:59:17 | 地域

いぶすき菜の花マーチへの参加準備が進み、参加者も25名となった。
旅行のしおりを作ることになり、自治振興課市民活動支援室に利用申込みをした。
以前は、利用範囲が限られ、町内会、自治会などとなっていた
申請書には自治会長の署名が必要だったが、議員の働きかけなどにより、
利用団体の幅が広がり、自治会長の署名も不要となった。下記申請書参照

ボランティア団体などの小さな組織は、活動場所に困ることが多い。
(ボランティア団体は、福祉の森の会議室等が無料で利用できる)
このセンターには、談話室もあるので、会議にも無料で利用できる。当会は、
社会教育関係団体の登録をしているので、公民館の会議室が半額で利用できる。

市民活動を活性化するには、公的な支援が求められる。市民、グループなどが、
活発に行動するようになれば、街自体が活性化する。
行政には、市民、団体の力を生かすため、上手に付き合ってほしいと思う。


私の貧乏体験

2013-11-11 17:52:29 | 雑記

父は国鉄職員だった。食べるものに困ったり、靴が買えないということはなかったが、
おもちゃや漫画本が買ってもらえず、「家は貧乏だ」と、子ども心にいつも思っていた。
私だけではないと思うが、風邪を引いてバナナを食べさせてもらえるのが楽しみだった。
とくに漫画本が買ってもらえないのが記憶に残っており、クラスメイトの女の子から、
漫画本を借りて読むのが楽しみであり、うらやましくもあった。
私がわがままを言うと、父母は、近所の誰それさんは、父母揃って仕事に行くので、
家に残る子どもに10円を渡し、5円で貸本屋、残りの5円で焼き芋を買って食べ、
父母の帰りを待っているのだ。おまえはまだ恵まれていると、言われていた。
我が家よりも、貧しそうな人を引き合いに出し、我慢をさせるということだったろう。

戦後10年の昭和30年代は、まだ食べるのに困るような貧困が残っていたように思う。
そんな時代に生きた私にとって、賤と貧の対照にあるものは、否定すべき存在だった。

学校卒業後、福祉事務所に勤務し、保護基準で生活してみた。その低水準に怒りを覚え、
保護世帯を組織しようと考えたが、先輩から否定され、すごすごと引き下がってしまった。
貧乏は、私の敵だったが、きちんと対峙するような仕事をしてこなかったのが心残りだ。