The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

クリスティーヌ リクエスト♪

2006年11月22日 | 「オペラ座の怪人」
クリスティーヌ

『ポーの一族』の「はるかな国の花や小鳥」のエルゼリがもっとも私のクリスに近い気がします。
近所の子供に歌を教えている女性なんですが、夢見がちで、優しく、儚い感じの女性です。
エルゼリは若い頃、デートで散歩中、幻覚か見間違えでお城を見てしまう。そして思わず恋人に「夢の世界のお城が見えたわ!信じてくれる?」と言うのです。
恋人は「そうだね。信じるよ」と言ってくれます。
でも何かの原因で二人は別れる。しかしエルゼリは恋人をずっと愛し続けるのです・・。その男が結婚しても。

その「夢見がち」な気質の背景に現実に傷つきやすい繊細さを感じます。そして空想上の「はるかな国のお城」に依存してしまう一種の淋しさや危うさを「おかしなこと」として一笑せずに肯定してくれた、たったそれだけでその男を愛し続ける。
もしかしたら「信じる」と言った瞬間からその男は彼女の精神世界の偶像になったのかもしれません。
また「信じる」と言った時の「救い」的な瞬間が彼女の中で時間を失い永遠になって、彼女の心を照射し続けるのも一種の「諦念」を感じさせます。その瞬間だけでもあれば生きていける、というふうに。

脆さを抱えながら、いつも優しい彼女に主人公のエドガーが詰め寄ります。
どうしてそういう風にきれいに生きられるのか?と。人間はもっとどろどろしているものなのでは?と。

エリゼリは「憎んだり、いがみあったり・・・。そんな感情は嫌なの」と答えます。決然と。(時々クリスも決然としています、原作では)


そんな感情にさらされるくらいなら空想の中にいるわ・・・というような。
ダーエ・パパも似ています。



(「その瞬間」があればいい・・・というのは原作エリックみたいだ、なんて今思いました。
なぜなら、原作では「一緒に泣いてくれた」後の描写は



「私の目の前で二人は抱き合った。


二人は出て行った。
クリスティーヌはもう泣いていなかった。


泣いていたのは私だけだった。」



とあるからです。

「泣いていない」でラウルと出て行ったわけです。
泣いているのはエリックだけです。


「私と一緒に泣いてくれた」それだけで浄化されクリスを開放するエリック、愛しいですね。彼の望みは本当にささやかだったと分かるから。
「何事も壮麗な事が好きだ」といい、各国の皇帝に仕え、壮大な建築物を創った途轍もないエネルギーの根源はそんなささやかなものすら与えられなかった欠落だったような気もします。
そして彼女が立ち去るのは殺人という大罪に対しての制裁ともいえるかもしれません。

「愛を得、愛を失う・・」とは私の知人の言葉ですがその言葉の間「瞬間」。
その「瞬間」を掴み取ろうとする「生そのものの」がのたうつような激しさ・狂気は彼の血に装飾される。情熱と受難は表裏一体となって。
見世物小屋の展示物、奇術師、皇帝の暗殺者・殺人鬼と地を這うような人生は浅薄な道徳を超えて神聖ですらあるかもしれません。
彼自身そのように考えるからこそ20年もの月日をかけて「勝利のドン・ファン」を作曲するのでしょう。彼しかしらない地獄の壮麗さを楽譜にする作業は芸術家としての本能でもあり、そこに価値を見出すからだと。

恩寵のように愛を一瞬でも受けたあと、このオペラの楽譜を自ら処分する行為も印象的です。
「心身脱落」(解脱と同じ意味で、一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う。一切を放下し、何の執着もない自由無碍の精神状態である)して地獄のオペラを捨て神に召される・・・。
神に対する挑戦状とも言うべき「勝利のドンファン」の楽譜を捨てるのは、古い自分を、過去を捨てていく象徴と私は思っています。
美しいと同時にクリスを廃人する事も出来るオペラ、「闇」(病理)そのもののオペラ。(クリスを廃人に出来てもカーロッタは出来ないかも。カーロッタとエリックの魂は似ていないから)


「焦がれ死にだよ・・」
自由(過去や経験則の鎖に縛られている状態からの)に憧れ、愛に、他人に愛され・肯定される自分に焦がれ続けた長い人生の終焉。
「PASSION」そのもの。そうならざるを得ない焼き尽くされるような激しいさ。

そしてそのエリックの遺体がオペラ座に抱かれて眠る、というイメージも素晴らしいです。

映画の美術の方が「オペラ座は女性的にデザインした」というのも納得がいきます。



・・・で、そうそうカーロッタとの2ショットお受けいたしました。