や・・やはり圧巻でした!行きましたよ、池袋。
ああ、疲れました。その価値はありました。やはり、細かい部分もよく見えるし音が大きいのもいいです。家庭のPCやテレビの画面だとただ黒いだけなのかと思っていたところも梁などあったりとか、背景の額の絵とか、人物の服装や化粧も「おお!こんなだったのか」と新発見したり。
大きな収穫はピアンジの化粧が滅茶苦茶面白かったことです。HNを「ピアンジ」に変えようかと真剣に考えてしまいましたよ。いいなああ~、あの「イル ムート」や「ドン・ファン」メイク。
大きいジェラルド・ファントム素敵でした。大きいパトリック・ラウルも管理人ドキドキしてしまいました。エミーちゃんも可愛かったです!!
仮面舞踏会でのホセ・ティラードのダンスシーンも圧巻。惚れ直してしまいました。
オペラ座の内部も興味深く、働く人々もよく描かれていて楽しかったです。
仮面舞踏会の時の赤ら顔のやけにはしゃいだおばちゃんはカルロッタのお母さんなのだろうか?それとも別人?ちょっとアル中でしたよね。あのいつもいる太ったおばさんてカルロッタのお母さんですよね?「ママ~!」と叫んでいるのは彼女を呼んでいると思っているのですが間違い?
1925年ロン・チェイニー版ではカルロッタのお母さんが登場して支配人に食って掛かる場面があるのですが、やはり当時も母親が娘の面倒を見る、というのがあったのかも。
原作では、親のいないバレリーナのソレリにラウルの兄さんのフィリップがの細々とした面倒をみてくれる母親代わりに楽屋でかいがいしく彼女の面倒を見る場面があって「いいな~♪」と羨ましかったです。シャニー家の伝統(^^)?
映画は映画で、見始めるとその世界に入って、楽しかったり、悲しかったり、考えさせられたり、様々です。懐かしい、マエストロやカルロッタ、ピアンジ、支配人たちを大きく見られて本当に良かったです。
「オペラ座の怪人」映画では誰も異論を唱えないと思いますが2005年版が最高です。
映画として純粋に楽しみつつ、原作で想像しているだけの場面を補う意味でも楽しいです。
例えば、地下への深く、暗い螺旋階段(螺旋階段として描いてる映画は他にないのでは?管理人、この『螺旋階段』という細部も萌えなんです。そのうち絵に出来たらUPしますが、このエリックの地下へのルルーの描写は圧巻なんですよ)や、屋上にクリスとラウルが駆けあがっていく場面も、オペラ座の最上階まで行く時に映し出される楽屋裏や作業している人々もいいですね。等身大だと臨場感が違います。
このオペラ座の内部も、原作でこの二人が「フィアンセごっこ」をしながらオペラ座をあちこち歩く光景もこんなだったかな・・・と思いながら鑑賞。日本の田舎に住んでいる私には貴重な映像です。
そして映画で見るオペラ座は作品を創る息吹に満ちています。石膏を固める職人、衣装や小道具を調える人、様々な道具、見ていて飽きません。
それに原作にもそういう場面はいくつかあって「ボヘミアンの集まるオペラ座・・・」という表現もあります。クリスが仲良くしている裏方の人達とか・・。
「オペラ座」という物がとても有機的に感じられます。美術の方がオペラ座を「女性的に表現したかっった」とおっしゃっていましたが、それはファントムの罪を凝視せず、包み込む包容力。雑多な人々を抱え、作品を生み出していくダイナミックな機能。あえて、外部の描写を極力排除した効果で一種の小宇宙的な世界が展開。数奇な怪人の物語を社会性を薄めて同情的に描き出しているようにも感じます。
う~ん、事実やっていることは「罪のない人を殺す」大罪なのであまりリアルで生々しいと同情しにくいです。
(そういう訳で「V フォーデンデッタ」と「オペラ座の怪人」を交互に見たりすると混乱したりします。同じような状況で生きる人の例として「エレファント・マン」や「マスク」(J・キャリーのでない、実話の顔面の奇形の少年の映画)も見ました。前者は心の中に母親のいい思い出があり、後者は母親が支えているのですが・・・。
でも、やはり怪人の歌声に引き込まれます・・・。人格が立派というわけではない怪人の中に様々な苦悩、弱さ、悲しみを他人事として、睥睨したり、裁いたり出来ない。あの目の中に「悲しみの全てを見た」というようにあまりに彼の感情がリアルに胸に迫り、音楽の翼に乗ってさらに彼に近づいていってしまいます。
「悲しみの全てを」見ない人は「狂人と化した天才」と言い放つ。その時の言葉に詰まるマダムの傷つき、ため息をつく表情が素晴らしい。ブケーを殴る場面でもピッシャとやるマダム、その表情いいですねえ。何より圧巻なのは見世物小屋のあの恐ろしい直視に耐えない場面の、苦悩によじれていくような居た堪れないような少女の顔です。
それから表情で言えば「ドン・ファン」の時仮面をはがされた時の、動揺の後のファントムの一瞬傷ついた表情も胸に迫ります。すぐさま「怒り」に変わってしまうのですが、あの横顔はいいです。
以前クリスに仮面をはがされた後、後ろを向きつつ仮面をつける後ろ姿も、すがるように人形を見る演技も好きです。
そして泣いているクリスも可愛いです。素直に相手に悪いことをした、という後悔と申し訳なさに満ちていて。(・・で、なぜまた大衆の面前で彼の恥を晒すのか??管理人には理解不能です。過去がフラッシュバックして感情が制御不能になるのは予測可能なような気もします。いろいろ解釈もあるとは思うのですが、管理人はファントムに逃げて欲しかったからでは?と思っています。あのままでは捕まる、もしくは悲劇的な事が起こるのを予想していたので、それを回避するための彼女なりの苦悩の果ての選択なのかもしれません。仮に「勇気を持って、素顔で生きなさい」というクリスなりの意味をこめての行為だったら、心の傷の深さを測り損ねたとしかいいようがないような気もします。
その異なる精神構造の衝突。バックドラフトし、砕けるガラス窓、崩壊し炎上するオペラ座はその衝撃の強さの表れなのかもしれないです。
その後も色々感動して見て来ました。ちょっと、書くの疲れました。大した感想でもないし・・・。
チャールス・ハートもA・L・ウェバーもマシソンもアレキサンドラ・バーンも役者さんたちも素晴らしい、凄いです。
ああ、疲れました。その価値はありました。やはり、細かい部分もよく見えるし音が大きいのもいいです。家庭のPCやテレビの画面だとただ黒いだけなのかと思っていたところも梁などあったりとか、背景の額の絵とか、人物の服装や化粧も「おお!こんなだったのか」と新発見したり。
大きな収穫はピアンジの化粧が滅茶苦茶面白かったことです。HNを「ピアンジ」に変えようかと真剣に考えてしまいましたよ。いいなああ~、あの「イル ムート」や「ドン・ファン」メイク。
大きいジェラルド・ファントム素敵でした。大きいパトリック・ラウルも管理人ドキドキしてしまいました。エミーちゃんも可愛かったです!!
仮面舞踏会でのホセ・ティラードのダンスシーンも圧巻。惚れ直してしまいました。
オペラ座の内部も興味深く、働く人々もよく描かれていて楽しかったです。
仮面舞踏会の時の赤ら顔のやけにはしゃいだおばちゃんはカルロッタのお母さんなのだろうか?それとも別人?ちょっとアル中でしたよね。あのいつもいる太ったおばさんてカルロッタのお母さんですよね?「ママ~!」と叫んでいるのは彼女を呼んでいると思っているのですが間違い?
1925年ロン・チェイニー版ではカルロッタのお母さんが登場して支配人に食って掛かる場面があるのですが、やはり当時も母親が娘の面倒を見る、というのがあったのかも。
原作では、親のいないバレリーナのソレリにラウルの兄さんのフィリップがの細々とした面倒をみてくれる母親代わりに楽屋でかいがいしく彼女の面倒を見る場面があって「いいな~♪」と羨ましかったです。シャニー家の伝統(^^)?
映画は映画で、見始めるとその世界に入って、楽しかったり、悲しかったり、考えさせられたり、様々です。懐かしい、マエストロやカルロッタ、ピアンジ、支配人たちを大きく見られて本当に良かったです。
「オペラ座の怪人」映画では誰も異論を唱えないと思いますが2005年版が最高です。
映画として純粋に楽しみつつ、原作で想像しているだけの場面を補う意味でも楽しいです。
例えば、地下への深く、暗い螺旋階段(螺旋階段として描いてる映画は他にないのでは?管理人、この『螺旋階段』という細部も萌えなんです。そのうち絵に出来たらUPしますが、このエリックの地下へのルルーの描写は圧巻なんですよ)や、屋上にクリスとラウルが駆けあがっていく場面も、オペラ座の最上階まで行く時に映し出される楽屋裏や作業している人々もいいですね。等身大だと臨場感が違います。
このオペラ座の内部も、原作でこの二人が「フィアンセごっこ」をしながらオペラ座をあちこち歩く光景もこんなだったかな・・・と思いながら鑑賞。日本の田舎に住んでいる私には貴重な映像です。
そして映画で見るオペラ座は作品を創る息吹に満ちています。石膏を固める職人、衣装や小道具を調える人、様々な道具、見ていて飽きません。
それに原作にもそういう場面はいくつかあって「ボヘミアンの集まるオペラ座・・・」という表現もあります。クリスが仲良くしている裏方の人達とか・・。
「オペラ座」という物がとても有機的に感じられます。美術の方がオペラ座を「女性的に表現したかっった」とおっしゃっていましたが、それはファントムの罪を凝視せず、包み込む包容力。雑多な人々を抱え、作品を生み出していくダイナミックな機能。あえて、外部の描写を極力排除した効果で一種の小宇宙的な世界が展開。数奇な怪人の物語を社会性を薄めて同情的に描き出しているようにも感じます。
う~ん、事実やっていることは「罪のない人を殺す」大罪なのであまりリアルで生々しいと同情しにくいです。
(そういう訳で「V フォーデンデッタ」と「オペラ座の怪人」を交互に見たりすると混乱したりします。同じような状況で生きる人の例として「エレファント・マン」や「マスク」(J・キャリーのでない、実話の顔面の奇形の少年の映画)も見ました。前者は心の中に母親のいい思い出があり、後者は母親が支えているのですが・・・。
でも、やはり怪人の歌声に引き込まれます・・・。人格が立派というわけではない怪人の中に様々な苦悩、弱さ、悲しみを他人事として、睥睨したり、裁いたり出来ない。あの目の中に「悲しみの全てを見た」というようにあまりに彼の感情がリアルに胸に迫り、音楽の翼に乗ってさらに彼に近づいていってしまいます。
「悲しみの全てを」見ない人は「狂人と化した天才」と言い放つ。その時の言葉に詰まるマダムの傷つき、ため息をつく表情が素晴らしい。ブケーを殴る場面でもピッシャとやるマダム、その表情いいですねえ。何より圧巻なのは見世物小屋のあの恐ろしい直視に耐えない場面の、苦悩によじれていくような居た堪れないような少女の顔です。
それから表情で言えば「ドン・ファン」の時仮面をはがされた時の、動揺の後のファントムの一瞬傷ついた表情も胸に迫ります。すぐさま「怒り」に変わってしまうのですが、あの横顔はいいです。
以前クリスに仮面をはがされた後、後ろを向きつつ仮面をつける後ろ姿も、すがるように人形を見る演技も好きです。
そして泣いているクリスも可愛いです。素直に相手に悪いことをした、という後悔と申し訳なさに満ちていて。(・・で、なぜまた大衆の面前で彼の恥を晒すのか??管理人には理解不能です。過去がフラッシュバックして感情が制御不能になるのは予測可能なような気もします。いろいろ解釈もあるとは思うのですが、管理人はファントムに逃げて欲しかったからでは?と思っています。あのままでは捕まる、もしくは悲劇的な事が起こるのを予想していたので、それを回避するための彼女なりの苦悩の果ての選択なのかもしれません。仮に「勇気を持って、素顔で生きなさい」というクリスなりの意味をこめての行為だったら、心の傷の深さを測り損ねたとしかいいようがないような気もします。
その異なる精神構造の衝突。バックドラフトし、砕けるガラス窓、崩壊し炎上するオペラ座はその衝撃の強さの表れなのかもしれないです。
その後も色々感動して見て来ました。ちょっと、書くの疲れました。大した感想でもないし・・・。
チャールス・ハートもA・L・ウェバーもマシソンもアレキサンドラ・バーンも役者さんたちも素晴らしい、凄いです。