アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

375 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 花山天皇 狂気の天皇か?仏教の伝道師か?

2018-06-01 09:49:55 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

65代 花山天皇 狂気の天皇か?仏教の伝道師か?

第65代天皇

在位期間
984年11月5日 - 986年8月1日

元号

永観寛和

先代

円融天皇

次代

一条天皇


誕生

968年11月29日

崩御

1008年3月17日

陵所

紙屋川上陵

別称

花山院・華山院・入覚

父親

冷泉天皇

母親

藤原懐子

女御

藤原忯子藤原姚子藤原諟子婉子女王

子女

昭登親王清仁親王深観覚源

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花山天皇を語る前に、藤原摂関家を整理する。

藤原北家が宮中貴族を独占してからは、親兄弟の一族内の闘争に明け暮れた。上記系図を見ると分かるように、道長の独占的地位はこの時点(花山天皇)では確定していなかった。忠平、師輔と繋いで、伊尹、兼通、兼家の兄弟の競争が激化する。歴史を後から見ると兼家の息子3兄弟の争いとなり、その中で道長が勝利し頼通となり、時代は藤原全盛期となる事が分かっているが、花山天皇即位時点では、伊尹が摂関家の中心であった。

天皇家も摂関家も、親から子供へはスムーズに世代交代するが、兄弟は厄介だ。大概もめる事になる。

花山天皇は、16歳で践祚するもののわずか2年で陰謀によって退位する。

寛和の変」という。兼家の策略で出家を勧められたのだ。寵愛する中宮忯子が妊娠8か月で亡くなり嘆き悲しむ花山天皇に、兼家の孫の一条天皇実現の為、息子道兼が一緒に出家しようと騙したのだ。京の元慶寺において落飾したとたんに道兼は逃亡した。そこで初めて陰謀を知り花山天皇は悔しがるというのだ。(筆者は出家しても天皇の地位に留まっても良いし、法皇という地位もあったのにと思う。)

「花山天皇」の画像検索結果

事実花山法皇と呼ばれることになるが、散々な晩年である。「長徳の変」というのを紹介する。

いわば花山法皇襲撃事件だ。家系図をご覧いただきたい。勝ち誇る兼家系の尹周がある家の娘に通っていたところ、その妹のところには花山法皇が通っていた。通うとは通じていたという事だ。通じていたとは、関係していたという事だ。関係していたとはやっていたという事だ。やっていた(・・・・?)失礼した。

尹周は自分の女にちょっかいを出されたと思い襲ったのである。何と矢で衣の裾を射抜いたのである。気の毒に花山法皇は恐怖のあまり御所で震えていたという。

「花山天皇」の画像検索結果

花山法皇はその後も、そちら?の方は、達者で、乳母であった女性の娘とその子とを同時に愛したようだ。

ほぼ同時に出産した二人の皇子を、「母腹宮」「女腹宮」とよんだそうだ。

筆者は想像する。乳母というのは、乳を与えるだけではなくあの?手ほどきもしたという。従って、花山法皇は親子孫と3代に亘りお世話に?なったと思料する。ロマンあふれる天皇てある。

花山院菩提寺本堂

多くの淫乱の素養が伝えられるが、一方で、西国33か所観音霊場を整備するなど仏教への貢献も誠に大きい。

Abe Seimei.jpg安倍清明

因みに、安倍清明はその花山天皇の退位を予言した事で、陰陽師としての名声を得たとされる。

時代は誠に面白い時代だ。♡♡

また、以前花山天皇については書いたことがあるので内容が重複するが追記する。

「西国33か所観音霊場巡礼のお寺を開いた徳ある天皇という評価の一方、奇行がいくつも記録されている天皇である。花山天皇と父の冷泉天皇には、藤原元方の怨霊の影響が強くあったと言われている。冷泉天皇が即位するに当たり藤原摂関家の強烈な権力争いがあり、敗れた藤原元方の強い怨霊の影響があり、怪現象が相次いだと記録されている。花山天皇は、即位式にあたりその王冠が重いと言って脱いだとされる話から、なんと、その即位式の最中に、玉座(高御座)の中で、その場で目に付いた女官と我慢できず事に及んでいたという話まである。その他艶聞が多い、そして、最愛の女御を妊娠中に亡くし、心労のあまり出家したと言われる。しかしその出家も、藤原氏の陰謀があったようで、一緒に出家しようと言った最愛の部下である藤原道兼に神器を奪われた上に、直前に裏切られたようである。結果、恨みを残して出家した天皇は、西国の33か所のお寺を巡礼して回ったというのである。
出家後も欲求は我慢できず、ある女御が妊娠して皇子を生んだ、しかしそのほぼ同時期、その母君も妊娠させていてこちらも皇子を生んでいる。従って、前者を「娘腹の宮」後者を「母腹の宮」と呼ばれたと言う。」


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