② 後鳥羽上皇
後鳥羽天皇
1 神器無き即位
白河上皇以降、しばらく院政の時代が続き、「治天の君」(天皇の父で真に権力を持つ上皇)を争う戦いもあり、それに乗じて武士が台頭する。遂には、平安末期、平氏が皇位継承に口をはさみ「安徳天皇の誕生とその悲劇」を生む。
そして、この章の主役後鳥羽天皇の登場になる。筆者は、後世に名を残す天皇は、何らかのコンプレックスを持っているのではないかと思う。よく調べると即位の経緯が単純ではなく、複雑な事情を背負っている場合が多い。尊成親王(後の後鳥羽天皇)も、誕生時には天皇に即位する可能性はなかった。それどころか仏門に入る運命だった。長い間戦乱の無かった平安時代は、「平将門の乱」を経て、その後、「保元・平治の乱」で完全に武士の世の中に変化して行く。それは何事も武力で解決する闘いの歴史だ。最初の本格的武家政権は、源平の両雄の決戦を経て、平清盛の政権が実現する。しかし諸行無常の世の中は衰退する平氏と、復讐に燃える源氏との再決戦を迎える。その後、鎌倉幕府の時代へと移行する日本の中世の前夜だ。時の天皇は、後鳥羽の父である高倉天皇の第一子安徳天皇の時代で、安徳天皇は申すまでもなく平清盛の娘徳子(建礼門院)との間の皇子である。後鳥羽天皇は「平家に非ずんば人に非ず」と言われた時代の真っ只中で生まれた。平家との血縁の無い後鳥羽に即位の可能性はなかった。しかし、歴史の急展開でその運命は大きく変わる。
清盛像
寿永2年(1183年)7月25日、源氏の木曽義仲に追われた平家一族は、安徳天皇を奉じて西国に落ちる。早くも御所では、8月20日に後鳥羽天皇が即位する。木曽義仲は別の王子である北陸宮を新天皇に推したが、当時なお治天の君(朝廷の権力者)であった後白河上皇の意思で後鳥羽に決まった。異例なのが、まず3種の神器がないこと、そして前天皇が退位していない事である。禅譲でも譲位でもない異例の即位である。何より問題なのは、その後壇之浦の海中深く神器は沈んでしまい3種の神器が揃わない事である。現代ならば実質的に天皇であればそれで良いとも言えるが、古代には神器にこそ日本国統治の霊力が宿っていると考えていた。もし天変地異や戦乱が続けば、その霊力を引き継いだ天皇の「徳の無さ」が原因とされたくらいだ。後鳥羽天皇が、どうしても強い君主意識を発揮し朝廷主導の「あるべき世の中」にせねばならないと決意する理由がここにある。後鳥羽は決して軽んじられてはならないのだった。
ただし、即位時はまだ4歳であり、その様なコンプレックスに悩むのはまだ先のことである。治天の君は、あくまでも祖父の後白河上皇であり、武家社会では源頼朝が君臨することになる。その後、建久3年(1192年)後白河上皇が崩御し、建久10年(1199年)頼朝が横死する。二人の希代の英雄であり策士であったライバルが相次いで亡くなり、後鳥羽は子の土御門天皇に譲位し上皇となり、「治天の君」の地位を得て、いよいよ後鳥羽の闘いの歴史が始まる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます