昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

真実の数

2024-09-29 08:19:17 | 日記
1518.9.29生誕のルネサンス期ヴェネチア派ティントレットの真骨頂は、バロック期を思わせる物語性と大胆な構図で最晩年の「最後の晩餐」もまたしかり。「如何に優れたものであろうとも、まず相手に受け入れてもらえなければ意味を為さない」・・・個人的に春秋時代の斉の管仲を想起します。綿密に描き出された実在と幻想の一体化。これがある美術の真実。

今でも言っているかどうか解りませんが、某有名アニメキャラの「真実はいつも1つ!」という決め台詞。そこに自虐的な僅かなニヒリズムでも漂えば受け入れやすかったでしょう。それを自信満々に宣言されては、「まあ、それもいいんじゃないっすか」と苦笑い。
科学にしろ何にしろ、絶対的な根拠、基準を1つに決めてしまえば、別に間違っている訳ではありませんし。それに賛同する方々の間だけですが。

吾妻鏡の実朝横死事件の前日譚では不吉な事が色々起こったと語られます。そして出立前、実朝は自ら髪1筋を引き抜き管内公氏に記念と言い手渡し、庭の梅を見、禁忌の和歌「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」を詠唱。南門を出る際は源氏の守り神たる霊鳩が騒ぎ、車より降りる際には刀を引掛けて折り、その後に惨劇。

吾妻鏡には、編纂者らの勝手な創作が多く混入していると見るのは、既に史学者内の定説でもありましょう。上記の記述もおそらく史実ではありますまい。しかし、文学には文学の真実、真相というものがあるようで。それは事実の忠実な記録の「真相」を貫き「(人を含めた歴史の)生きている所以」に至ろうとするものであろうかと。人が逃れることができない感情、主観と言えば陳腐になりますが。

何故ブランド戦略が成り立つか。

吾妻鏡の文學は無論上等な文學ではない。だが、史家の所謂一等資料吾妻鏡の劣悪な部分が、かへつて歴史の大事を語つてゐないとも限るまい(小林秀雄「実朝」)

真実は1つ→全ては収束するという考え方は、構造全体を多角的に観察するわけではなく、便宜的に取り敢えずの「1つの結果」に集約するための手法でしかないように思えるのです。便利な道具ではありますが、それが全てではないとの認識が必要なのではと。

日本の教育に危機感を覚える所以でもあります。