楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 6

2021年03月31日 | 『私の自転車旅物語』

2013年7月の檜山旅

   ・7/21 恵庭→札幌→(バス)→函館 (Mさんの「自遊旅」)

   ・7/22 函館→江差 60Km(ふじや旅館)

   ・7/23   江差→上ノ国 15Km(「花沢温泉」公園野営)

   ・7/24   上ノ国→熊石 50Km(「青少年旅行村」キャンプ場)

   ・7/25 熊石→北檜山 40Km(新矢旅館)

     

上ノ国の初めての野宿では傍の町営日帰り温泉で暖まりたかったが休養日なのは残念だった。

公園の池の傍の平らな場所を探して一人用山岳テントを設営し、インスタント味噌汁で弁当を食べて早めに就寝したように思う。

 

そして、朝方4時頃に動物が歩くようなガサガサする音で目が覚めた。公園は山に近かかった。熊に違いない・・・。ここらは巣らしいと「夷王山」の博物館の人に聞いたことを思いだした。

防御する武器はない。じっと息を殺して耳をそば立てていると、足音は池の方向に向かった。やがて池の方からポチャン、ポチャンと断続的な小さな音が聞こえてきた。

 

恐る恐るテントのジッパーを静かに開けて池の方を見るとお婆ぁさんが。毎朝、池の鯉に餌をやりに来ているという。“熊”の話しをすると大笑いになった。

 

上ノ国から江差に戻り、日本海岸を北上して常宿だった北檜山の「新矢旅館」を目指した。北檜山まで90Km、道路は〝貸し切り〟で朝の空気を一杯に吸った。

 

途中、乙部でヤマベ養殖場を訪ねた。三相動力電気を導入する補助事業で受益者が少なく、事業採択に時間を要したが「地域への行政配慮」でOKとなった。国にも粋な計らいがあった時代だった。

数年後に会計検査院の現地調査があり、無事、通過した想い出がある。

暑い陽差しの中、記憶を頼りに思しき場所に辿り着くと辺りは緑肥用か、菜種畑になっていた。

国道からの入り口を間違えたかな?もっと奧だったのかな・・・? 

道端に座って昼食のコンビニおにぎりを食べていると、一面の黄色い花が『暫く!』と迎えてくれているようで何やら嬉しくなった。養殖施設は見つけられなかったけれど。

 

乙部から熊石へ。熊石町には円空が旅の途中に籠もっていたという洞がある。草に覆われていた。

 

熊石から大成の海岸は熊に似た奇岩が多い。

 

大成には山岳霊場の太田神社がある。そこから瀬棚町太艪までの6Kmの海岸は長いこと不通区間だったが、訪ねた年の春に40年の歳月をかけて開通したばかりだった。

3つのトンネルと高い防波堤で"重装備"されていたので視界はやや期待ハズレだったが、内陸ルートの峠越えと違って自転車に優しい。

   

やがて瀬棚に着いた。戦後開拓入植で牛飼いが始まった地域だ。丘陵地に沢が襞のように入り込み、海からの防風のためにガンビの木(白樺の方言)が植えられていたことから地元の人は一帯を"ガンビ岱"と呼んでいた。

想い出がある。

昭和50年代、集乳体制を近代化するために酪農家をタンクローリーの走れる道路の近くまで沢から移転する事業が始まった。

調査をしていたある日、Kさんが入植時のアルバムを見せてくれた。風を避け、水のある沢に小屋がけの牛舎が写っていた。

そしてバイオリンを持ち出して、「ここではこんな曲でないとね・・・」と笑って『船頭小唄』を弾いてくれた。涙が出た。ガンビ岱を何とかしなくてはと決意した日だった。

 

転勤して数年が経って畜舎完成パーティーの案内が届いた。6戸の牛舎と草地が整備されたと記憶している。小学生で共進会の牛を曳いていた娘さんが中学生になって新築牛舎にいた。

 

ガンビ岱は映画『そらのレストラン』のロケ地になっている。Kさんらしき人物が登場すれば嬉しかった。

 

瀬棚から目的地の北檜山「新矢旅館」へはもう少しだ。平坦だけど90Kmは結構キツかった。

(つづく)

 

 

 

 

『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 5 -

2021年03月30日 | 『私の自転車旅物語』

2013年7月の檜山旅

   ・7/21 恵庭→札幌→(バス)→函館 (Mさんの「自遊旅」)

   ・7/22 函館→江差 60Km(ふじや旅館)

   ・7/23   江差→上ノ国 15Km(「花沢温泉」公園野営)

 

江差から日本海沿いに南の上ノ国へ向かった。途中、江差で最初にに暮らした下宿に寄ってみた。海岸に面した津花町の漁師のEさん宅で、その昔にヤン衆部屋として使った3畳間が沢山あってサラリーマンが5~6人下宿していた。

訪ねた時はすっかり建て替えられ、親戚の人が住んでいた。Eさんは亡くなられ、息子さん夫婦は漁師を辞めて函館に出たという。朝食に山盛りのイカやアワビの刺身が出るという贅沢さだった。

 

《ここから上ノ国》

江差と上ノ国の境界から幕末に松前藩がアイヌとの戦いに備えて築いた「館(タテ)」跡が点在する夷王山を臨む。日本短角種という茶色の肉牛の繁殖センタ-があり、仕事でよく出掛けた。

《「夷王山」山頂付近  博物館に和人とアイヌの戦いの歴史が展示されている》

 

《「館」跡が数多くある》

 

《「夷王山」神社》

 

上ノ国町も歴史は古く、市街地には江戸時代の記録で1560年頃の建立とされる国の重要文化財の『上国寺』がある。

 

「夷王山」にはキャンプ場が無いので、博物館の人に空き地にテントを張って良いか聞いてみると、「構わないけれど、ここらは熊の巣ですよ」との返答。恐れをなし下山した。

 

あちこち捜して市街地の公園に町営の日帰り簡易入浴施設を見つけた。温泉は残念ながら休日だったが、近くの公園にテントを張ることにした。

函館の『自遊旅』のMさんのアドバイスを思い出した。「子供の遊具は無いこと」「トイレ、水道があること」よし、大丈夫だ。

キャンプ場以外の場所で野宿は初体験だったが朝方にドキッとすることで目が覚めた。 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 4 -

2021年03月29日 | 『私の自転車旅物語』

2013年7月の檜山旅 

 鴎島の入り口に置いた自転車に再び乗って北海道最古の「姥神大神宮」へ向かった。

   ・7/21 恵庭→札幌→(バス)→函館 (Mさんの「自遊旅」)

   ・7/22 函館→江差 60Km(ふじや旅館)

 

《江差町 姥神大神宮祭 観光協会Hpより》

 

江差は古くに和人が日本海から船で流れて住み着いた。「姥神大神宮」は800年の歴史があると言われる。住んでいた頃は毎年8月11日から3日間の例大祭に”江差っ子“が全国から舞い戻り、見物客を含めるといつもの人口の2倍の3万人で街はごった返していた。

山車は当時10台ほどだったか、「江差の五月は江戸にもない」とニシン漁で賑わっていた頃に親方衆が財力に任せて京都から導入した。道文化財に指定されているものもある。

夜中の11時頃に二日間の巡行を終えた全ての山車が新地の繁華街に集結し、祇園祭の流れを汲む笛、太鼓の饗宴が夜空の下で続くさまはは圧巻だった。

沿道で振る舞い酒を頂きながらくたくたになって山車を曳いていた若き日が祭りの記憶と共にあるが、このコロナ禍でどうなっただろうか。

 

江差の宿は「ふじや旅館」に決めていた。結婚してから住んでいた住宅のすぐ傍に建ち、通勤の行き帰りに玄関前を通っていた懐かしい建物だ。住宅は既に取り壊されて無い。杉の梁の一部を転勤の度に持ち歩いてきた。

「ふじや旅館」は100年の歴史があり、明治時代の末期には江差追分の流派統一の集まりが開かれた由緒ある旅館だ。
 
 
夕食は独身時代に仲間と通ったヤキトリ店に出掛けてみた。精肉店の直営であり、豚の直腸の炭火焼きは昔のままの絶品だったが、40年前の二代目店番の女性は亡くなり、次の方は引退したりして訪ねた時は所有者の奥さんが4代目として直々に取り仕切っていた。〝人生いろいろ〟の一端を聞いてしんみりとした酒になった。
 
 
旅館の朝食の朝イカが懐かしく美味しかった。当時は朝早くから「エカーエカー」とおばちゃんがリヤカーで売り歩く時代だった。
 
美味しいご飯を食べて、独身時代に暮らした下宿とアパートを訪ねてから上ノ国へ向かうことにした。 (つづく)
 
 
 
 

 

 

 

 


『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 3 -

2021年03月27日 | 『私の自転車旅物語』

 2013年7月の檜山旅 

 箱館のMさんの『自遊旅』に1泊して国道227号中山峠経由で昼に江差町に着いた。

   ・7/21 恵庭→札幌→(バス)→函館 (Mさんの「自遊旅」)

   ・7/22 函館→江差 60Km(ふじや旅館)

 

23歳から仕事で6年半を暮らした江差町は第二の故郷のような土地だ。

街の入り口の高台から見える獅子岩が懐かしい。

 

「鴎島」へ直行した。千畳敷の夕日はその昔、開高健のサントリーウイスキーCMにも使われた。同僚と早朝のホッケ釣り、結婚してからは休日の散歩コースだった。

歌手のペギー葉山が「鴎島まつり」で来町して芝生のステージでそよ風に乗せて”南国土佐“を歌ったことがある。その日と同じ気持ちの良い青空だった。

 

江差町と言えば「江差追分」。信州の馬子唄が北前船で伝わったという。前歌、本歌、後歌とあって、鴎の鳴く音にぃ~という有名な下りはいくつもある本歌の一つだ。鴎島には漁師で名人の故・青坂満さんが住んでいた。

 

 

   

《復元された開陽丸》
 
鴎島から江差の街を望む。復元された開陽丸が島への防波堤道路沿いに浮かぶ。
 
開陽丸は幕府がオランダに建造させた最新鋭の軍艦だったが新政府に反乱した榎本武揚らが乗り込んで森町鷲ノ木、そして新政府軍との戦いに備えて江差に向かうが、沖合でタバ風と言われる暴風に見舞われて座礁、沈没した。
 
長らく発見されなかったが、現在の防波堤の下に埋まっていることが分かり、江差に住み始めた翌年の1974年(昭和49年)に引き上げられた。勤務中に見物に行くという長閑な時代だった。
 
貝殻や海藻がびっしりと付き、錆びで真っ赤な岩の塊のようになった大砲がクレーンで海面から姿を現すという歴史的なシーンを目撃した。江差高校生が錆び落としをして綺麗になって町の博物館に展示された。
 
 
鴎島でのんびり休息して、800年の歴史があると言われる北海道最古の「姥神大神宮」へ向かった。 (つづく)
 
 
 
《鴎島》

 


『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 2 -

2021年03月25日 | 『私の自転車旅物語』

  

  2013年7月の檜山旅の日程は次のようなものだった。総距離 220Km

   ・7/21 恵庭→札幌→(バス)→函館 (Mさんの「自遊旅」)

   ・7/22 函館→江差 60Km(ふじや旅館)

   ・7/23   江差→上ノ国 15Km(「花沢温泉」公園野営)

   ・7/24   上ノ国→熊石 50Km(「青少年旅行村」キャンプ場)

   ・7/25 熊石→北檜山 40Km(新矢旅館)

   ・7/26   北檜山→瀬棚→今金→国縫 55Km→(JR)→札幌→恵庭

 

2013.7.22  Mさんの見送りを受けて、1973年から6年半を暮らした初任地の道南檜山管内へ向か った。ルートは国道227号。渡島館内との境界に「中山峠」がある。定山渓の峠と同じ名前だ。

檜山管内の農業は規模も生産額も渡島管内に比べて小さく、農業団体の事務所は函館市に置かれていたので月に1~2度は車で峠を往復していた。緩やかなカーブなのだけれど駆け出しの頃の仕事の緊張感でハンドルをガチガチに握っていた。

 

自転車でゆっくり走ってみて当時気がつかなかった歴史の跡に触れることができた。「箱館戦争二股口」だ。

 

《この道の奥に石を積み上げた「台場」の跡があった》

 

自遊旅のMさんが詳しいが、現場の説明文などを要約すると、

 1868年(明治元年)10月に開陽丸を旗艦とする榎本武揚・艦隊2,000名が渡島管内森町の鷲ノ木村の浜に上陸し、五稜郭に榎本政権を樹立。翌年4月、檜山管内の乙部、江差から上陸した新政府軍600人と榎本隊の土方歳三を隊長とする300人が二股口台場付近で戦闘となる。土方隊は5月に遂には五稜郭方面に敗走し、箱館戦争は終結する。鷲ノ木村は榎本軍の傷病者の療養地となり、戦死者は霊鷲院に手厚く葬られた。 

 

昨年の夏に恵山方面にドライブした時に「鷲ノ木」の浜辺に立ち寄った。旧幕府軍の北海道上陸地と2013年の自転車旅で訪れていた国道227号線中山峠の「二股口戦場」が繋がった。

自転車で中山峠を歩くようなスピードで登っていると重金属鉱山の小さな集落跡や小学校の分校跡地の案内表示を見つけることが出来た。いずれも現在の国道から少し林の中に入った場所にあった。

 (江差町につづく)

              

《鷲ノ木の浜 2021年8月   車で再度訪ねた時のスナップ》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

       


『生討論 あなたはどう考える?五輪・パラリンピック』 

2021年03月23日 | 日記
う~ん、今か。
 
21日夜のNHKTV『生討論 あなたはどう考える?五輪・パラリンピック』。開幕予定日まで4ヵ月、いかに混乱している大会であるかを象徴する「バラバラ感」満載の番組だった。
 
 
〝出来ることなら開催して欲しい〟というお決まりの前提で、出席者のIOC委員、組織委員会幹部、競技団体役員は立場を背負い、作家、社会学者は“そもそも論”を展開し、タレントは情報が無くて是非の判断がつかないと困惑気味に訴える。
 
NHKも「やりました」感が漂う。
 
 
興味深かったのは二人のマラソンオリンピアンの意見の違いだった。増田明美氏は乱暴な言い方をすれば「体育会系のノリ」、やることが選手と社会を明るく元気づけると本人もマラソン中継解説の時のようにいたって元気だ。
 
有森祐子氏は現役時代のレース展開に見られたように内省的で冷静だ。「社会があってのオリンピック」という立場が明確で、国民の支持がなければ成り立たないことを(関係者は)考えなければならないことを話した。
 
有森氏に全く同感だ。
 
 
「新聞通信調査会」(公財)が昨年末に「対日メディア世論調査」の中で東京オリパラの開催の是非について、海外5ヵ国の世論調査を行っていて、23日に結果を発表した。
 
「中止すべきだ」「延期すべきだ」との回答が全ての国で70%を超えた。米国が74.4%、フランスが70.6%。国内の世論調査と同じ傾向だ。世界は経済よりコロナ感染対策を重視している。
 
 
これまでもオリ・パラについて「あり方」も含めて議論しなければならない場面は沢山あったのに同調圧力、既成事実化、無関心によってやり過ごされてきたツケが瀬戸際で一気に出てきた。
 
 
アメリカがどう出るかで決まるのだろう。進むも引くも後始末は日本国民。〝政治ファースト〟の中を消えかかる聖火が進む。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


『私の自転車旅物語』 - 想い出を辿る旅 檜山へ 1 -

2021年03月21日 | 『私の自転車旅物語』

2013年7月21日の晴れた日に札幌駅前から中央バス「はこだて号」に乗った。 想い出を自転車で辿る旅のスタートを仕事の初任地だった檜山管内にした。

予約の時に自転車輪行であることを伝え、当日は専用袋に入れた状態で床下の収納庫に自分で運び入れる。運転手から壊れた場合は責任を負わないことを告げられる。

観光シーズンはスーツケースが優先されるが取り残されたことは無い。自転車運搬は航空機のLCCの一部とフェリーは有料だか長距離バスは無料だ。

 

高速道路を5時間のバス旅をして函館駅前に到着。MTBを組み立て、『自遊旅』に向かった。自転車で日本一周をしたMさんが使わなくなった実家を改造して旅人に無料の宿として提供している。もう15年は経つだろう。

 

《Mさんの『自遊旅』》 

 

Mさんは隣の千歳市に住んでいた時にロードレースや自転車旅の手解きをして頂いた師匠のような人だ。出会わなければ今のように自転車が趣味にはならなかっただろう。

75歳を過ぎているが夏になると「ねぶた」や大曲の花火大会を目がけて自転車旅をしている。土方歳三についての造詣が深く、官軍との戦場を巡る古道に詳しい。

 

『自遊旅』に落ち着いて早速二人で温泉へ。旅人にはお馴染みの“ラッキーピエロ”で特製ハンバーグの夕食を摂り、帰り道にとあるスーパーに寄る。元祖・ハセガワストアの「ヤキトリ弁当」を買うためだった。

串抜き用の仕掛けとしてケースの下に小さな穴が開いている。

 

四方山話やら旅のことを話して夜が更けた。

「雨が降ってきてもテント設営ですか」と聞くと「勿論!」。「どんな場所が良いのですか」と聞くと「遊具の無い広場」と言う。

子供の遊ぶ住宅地の公園は不審者に間違われて通報されることもあるので注意するようにとアドバイスがあった。

「一度経験すると度胸がついて大丈夫」と激励される。

 

《旅ノートへ手紙》

 

次の旅人のつまみ用にビーフジャーキーを冷蔵庫に入れて、江差へ出発。

(つづく)

 

 

 

 

 

 


意識と言葉

2021年03月20日 | 日記

養老孟司氏によれば、「言葉は波動となって耳から入って信号化され、大脳で言葉として認識される」という。

「意識が無ければ言葉は出ない」という。ヒトと動物の違いでもあるらしい。

 

武田総務大臣が16日の衆院予算委集中審議で答弁に向かう総務省鈴木電波部長に「記憶に無いと言え」と発言したらしい問題。

19日の参院予算委集中審議で武田氏がやっと認めた。微かな音声が大脳で認識されたということだ。

 

「記憶に無いまでは聞き取れた。目の前であまりに記憶に無いが繰り返されていたので無意識に口に出たのでしょう。誤解を招いたとしたらお詫びする」と付け加えて。

あり得ないけれど国会という場で意識も無く喋っているということ。もうお辞めになっては如何か。

 

しかし、蓮舫議員はこの言い訳を聞いて次の質問に移ってしまった。こんなことがまかり通るのなら政治家があからさまに行政サイドに呟き、囁くことが成功体験のひとつとして加わる。

もっと追求すべき重大な問題だ。(こう答えろという)意識が無ければ言葉を発するはずは無いのだから。

 

与党の政治家があまりに酷い。若く優秀な官僚が「記憶が無い」と言い続ける姿は異様だ。

来たるべき総選挙で、政治を飯のタネにしている政治屋を当選させるかどうか、選挙人の“意識”が問われる出来事が続いている。

 

 

 

 

 

 

 


徹底した追求を

2021年03月18日 | 日記

よく聞いてみると確かに『記憶に無い』と低く呟くような音声が入っている。

奥野総一郎国対委員長代理は「16日の衆院予算委員会の中継映像を分析した結果、外資規制違反を東北新社側から報告されたかどうか鈴木氏が答える際に武田氏が閣僚席から声を掛けたとみられる様子が確認された」と指摘した。(共同通信 2021.3.17  20:20)

立憲民主党の逢坂議員に対する総務省鈴木電波部長(前・総務課長)の答弁の時だ。

 

マスコミ報道は緊急事態宣言の解除に覆われているが、事実とすれば前代未聞の担当・武田大臣による参考人・総務省職員への答弁指示とも取れる。

大臣を先頭に、総務省挙げて事実の隠蔽工作、東北新社との辻褄合わせが行われている可能性さえある。

 

立憲民主党は専門家に声紋鑑定を依頼するという。

とかく「そんなことより」という声が上がる。しかし、安倍政権から続く政治疑惑をウヤムヤにしてきた結果が今日の強引で劣化した政治の姿。

損失は国民に跳ね返る。徹底して真相解明すべだ。もう解散しかないか。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言は水に流れ  聞は石に刻む -国会を見ていて-

2021年03月16日 | 日記

話した方は覚えていなくても聞いた方は覚えている

東北新社木田シニアマネージャーか。総務省情報流通局鈴木電波部長(前・総務課長)か。どちらかが嘘を言っている。 

コロナ禍の冬眠生活、今日(16日)は国会衆院予算集中審議を見ていた。

 

参考人の東北新社の中島社長によると、衛星放送事業者の認定要件である「外資比率20パーセント未満」をクリアしていないことに気付いて総務省に報告に行ったのは木田氏だったが、当初面会しようとしていたイダ・衛星地域放送課長が休暇中とのことで鈴木総務課長(当時)に報告したという。

ところが、参考人の鈴木氏は「着任したばかりで来訪者が多く、そのような報告があったことは覚えていない」と繰り返すばかり。

重要な認定要件を欠いたまま放置され、その後、東北新社から子会社へ認定事業の承継が行われたという経過が明らかにった。

絶対にここは「覚えていない」で押し通すという鈴木氏を見ていると森友事件の財務省佐川氏が重なる。成功体験である。

 

一般的に面会しようとしている人が休んで不在なのであれば居る日に予定を組み直すのではないか。簡単に鈴木氏にスイッチしたのは解せない。

鈴木氏から「覚えていません」と言われる程度の面識だったとすればなおのことである。アポはどのようなものだったのか、中島社長が調べて国会に報告することになった。

 

鈴木氏に報告後、総務省からは何の反応も無く、中島社長は「子会社への事業承継が認められたのだから欠格事項はクリアされたものと理解していた」という。

鈴木氏は木田氏に何を話し、木田氏は何を書き残しているのか。

両人の証人喚問でしか真実は明らかにならない。