楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 6

2021年12月30日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月14日(つづき)

原城跡を出発して島原半島南部の口之津港から熊本県の天草諸島の鬼池港へ渡り、この日の宿「風来坊」へ向かった。

 

口之津港→鬼池港(島鉄フェリー)

 

    

島の人と物資の輸送を担う大動脈。

 

 

鬼池港に着くとこれから逆航路に乗る九州の国立大学の2年生に出会った。九周横断中だった。

薄手のスポーツウェア。寒さで口をガタガタ震えさせながらママチャリを押して・・・。ずっと、寝袋だけで野宿をしてきたという。

 

「ところで、大学は始まっているんじゃないの?」「ええ。気がついたら新学期が始まっていました(笑)。いいんです。それより自転車旅の方が意味がありそうですから。」

 

矢継ぎ早に自転車旅の装備について質問を受けた。

答えている間にフェリーは出航間近となり若者は係りの人にせかされて大急ぎで乗り込んで行った。あれから6年、もう社会人だろうな。

 

  

 

  

鯛等の地魚の刺身、手作り餃子、地元野菜の炒め物、ふぐの白子のソテー、肥後赤牛のステーキ、自家製スモークチーズ、地酒・・・。

贅沢三昧した。

 

「風来坊」の主は東シナ海を望む天草の別荘を購入して改造し、趣味の海釣りと実益のバックパッカーハウスを経営するカッコイイ若夫婦だった。オーストラリアで知り合ったという。

同室は長期滞在していたフランスの青年。写真を専門誌に販売しながら世界放浪していた。

若夫婦もフランス青年も、どちらも個性的な生き方が羨ましく思えた。

 

「風来坊」は2017年と訪れ、若夫婦と再会することが出来た。

オホーツク海に北方を意識することは無いが東シナ海には南方をびしびしと感じる。

 

 

2015年4月15日

ずっと自転車旅をしたかった天草諸島とも今日でお別れ。熊本の陸地の阿久根市へ向かった。

 

牛深港を出て蔵之元港を望む。(三和商船)

蔵之元港からは陸路で長島へ。

 

長島から熊本の本土の阿久根市に掛かる黒之瀬大橋。

ここは日本で屈指の潮の流れが早いところという。橋はそれまで小舟で往来していた住民の悲願だった。

 

この日の宿は阿久根駅前のトレインホテルに決めていたが閉鎖されていた。

探し回って手頃なビジネスホテルに投宿。

 

2週間の旅もやっとの折り返し。長い!

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

 

年が明けましたら南阿蘇から高千穂越えの旅を書きます。

皆様、良いお年をお迎えください。

 

 


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 5

2021年12月30日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月12日

薄曇りの空。長崎県南端の野母崎から85Km走って夕方に島原のY.Hに着いた。

島原は大学のラグビー部に入部した時の主将Hさんの出身地だ。アメリカ、スウェーデン、日本で研究・教育者の道を歩んでいたが20年前に若くして亡くなられた。

 

Y.Hは貸し切りだった。4月の九州は桜も残っていて晴れていれば北海道の人間には快適なシーズンだが、この時期の旅人はまだ少ないのかもしれない。

風呂に入り、おかみさんに紹介してもらった「島原一美味しいよ」という皿うどんの店に行くことにした。

 

今にも降ってきそうな夜道を15分ほど歩くとその店があった。美味しいという評判を聞いて来ましたと話すと、「Y.Hは従兄弟なんです」とのことだった。

長崎皿うどんは細くカリッと揚がった麺と思っていたら自家製の太麺だった。モチモチの食感は初めてだったが確かに美味しかった。

油を多く使うので最近は提供する店が姿を消しているとのことだった。

 

満腹になったが、「話しのタネに」と強く勧められ、『六べえ』という薩摩芋の麺を食べさせてくれる店を紹介してくれたので行くことにした。

 

江戸時代の1972年、〝島原大変肥後迷惑〟と呼ばれる大災害があった。普賢岳の噴火が傍の眉岳の崩壊を誘発し、海に崩れ落ちた土砂が引き起こした津波が島原領内ばかりではなく対岸の熊本、天草も襲った。

地域が崩壊し、食べ物に窮した人々を救ったのが、その名も「六兵衛」という庄屋さんが考案した『六べえ』だったという。

 

干したサツマイモの粉と山芋を練り合わせて茹でた3cmくらいの真っ黒い麺で、鰹と昆布の出汁を醤油仕立てにした素朴な汁物だった。

薩摩芋の甘味が乗っていて心に浸みた。

 

2015年4月13日

薄曇り。連泊して島原市内を見物した。

 

 

島原の市街地は普賢岳の伏流水が池を作り、川となって家の庭に流れ、綺麗な錦鯉が放されてる旧邸宅もあった。水の街だ。

 

  

《島原城と武家屋敷跡》

 

島原藩の代表的なキリシタン大名だった有馬晴信の家督を継いだ直純(14代)は家康の激しい禁教弾圧によって宮崎県に転封させられている。

その後に関ヶ原合戦や大阪の陣で軍功を上げて奈良から入ってきたのが松倉重政だった。

重政は島原城築城のために領民から例年の2倍の重税を徴し、過酷なキリシタン弾圧を進めた結果、1637年前に16才の天草四郎を総大将とする日本最大の農民一揆、『島原の乱』が起きる。

天草四郎はキリシタン大名の小西行長の家臣の子だった。

 

島原城は五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城だったが、明治の御一新で惜しくも解体された。

現在の城は1960年~1964年に復元されたもの。

 

《島原名物菓子 かんざらし》

探して探して、やっと見つけた店で食べてみた。薄い蜜に浸かった白玉団子がさっぱりしていた。

 

 

《キリシタン殉教者の慰霊堂と内部》

 

《内堀3兄弟殉教の慰霊像》

島原市内には松倉重政のキリシタン弾圧によって殉教した信者の慰霊像が数多く建っていた。

1627年2月21日、棄教を迫られた16人の中に内堀3兄弟も含まれ、拷問の末に真冬の有明海に沈められている。

末の5才のイグナチオは指を切断された小さな手をまるで神に捧げる薔薇のようにかざしたという。万感胸に迫り立ち尽くした。

 

2015年4月14日

晴れ渡る。天草へ向かう途中、『島原の乱』の原城に寄った。

 

 

《原城全景;観光協会》

 

《天草四郎の像と墓碑》

《原城からの有明海の眺め》

 

天草四郎を総大将に蜂起したキリシタン農民らは天草も含めて3万8,000人。

松倉重政によって廃城となっていた原城に3ヶ月間に亘って立て籠もり抵抗を続けた。幕府側の動員は12万人だったとという。

 

天草四郎は落城後に捕らえられて斬首されて長崎でさらし首、重政は鎮圧後に内戦の責任を取らされて斬首されて松浦家は断絶。両者とも悲劇的な結末となった。

 

原城は明治維新後に天守、櫓とも解体されたが、堀や石垣はかなりの部分が当時の姿を残している。

敷地内の天草四郎の像や墓標は遠い封建時代にあっても思想、信条の自由を掲げて勇敢に闘った人々がいたことを今に伝えている。 (つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 4

2021年12月28日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月9日

 

《平戸→佐世保の都市間バス》

 

  

 

雨模様なので平戸から佐世保までバス輪行した。この日の宿は、国道沿いにあった小型マイクロバスを改造したライダーハウスにした。

オーナーは北海道も詳しい若いバイクライダー。外は肌寒い小雨で貸し切りだった。近くのコンビニで弁当を買い、嬉しい空調暖房付きの"猫バス"でひとり宴会をしてぐっすり寝た。

 

2015年4月10日

一転、快晴。佐世保から長崎へ向かった。(50Km)

 

《大浦天主堂》

 

《原爆の爆心地》

 

 

長崎は坂の街。アップダウンの曲がりくねった小径が続く。

九州の言葉は分からないことが多い。道を訪ねて確認をすると「そう」という返事が返ってくるから、自分なりにルートを描くと必ずしもそうで無かったりする。

どうやら、こちらの言うことも伝わっていないようだ。「そう」という返答を繋げて行くと頭の中に間違ったルートが刻まれる。

 

この日の宿は予約しておいた「カトリック会館」。Y.Hとして一般客にも開放されている。

随分とぐるぐる回りして到着した。

同室は72才のバイクライダーだった。苦学生時代、大手カメラメーカーの企業戦士時代、そして離婚。

趣味のカメラを片手に全国バイク旅を続けていた。波乱の人生話を聴いて、まだまだ自分は甘いなぁと感じた夜だった。

 

2015年4月11日

平戸で出会ったチャリダーの勧めで、長崎県南端の野母岬に向かうことにした。(50Km)

 

 

市内を抜けてホッとしたところに随分と髙い橋が架かっていた。『長崎女神大橋』(1,289 m)だ。

長崎港によって分断されている長崎市の南部と西部を最短距離で結び、市内の交通混雑の解消と大型船による物流の改善で地域振興を図ろうとするものだった。

 

支柱からワイヤーで支える斜張橋としては国内で6番目の長さ。夜間にはライトアップされ、観光都市長崎の新しいシンボルとなっている。


 

野母崎の手前で東シナ海に浮かぶ“軍艦島”(端島)を眺めることが出来た。

小さな岩礁の下に石炭の鉱脈が見つかり、周囲をコンクリートで囲んで埋め立てして出来た人工の島に端島炭坑の城下町が出現した。

 

1974年に廃鉱となったが、最盛期には5,000人余りがその頃の東京都の9倍という世界一の人口密度の中で暮らしていた。

緑を育てる場所が無く、アパートの屋上に土を運び野菜や花を育てていたという。

 

1974年に閉山して今は廃墟だ。

軍艦のように見えるのは、日本最初の鉄筋コンクリート集合住宅などの炭坑施設の残骸である。

 

生まれ故郷の三井芦別でも小学生の時にエネルギー転換で街から次々に人が出て行く光景を見た。

収奪産業の宿命でもあるが、なかなか経験の出来ない社会で気づいたことも多かったように思う。人情と厳然たる格差の存在か。

 

 

間もなく「野母崎」に着いた。

陸地としては日本最西南端の地。宗谷岬には「日本最北端到達証明書」があるが、ここには無かった。少し残念だった。

 

 

 

関東圏でうなぎ割烹を営んでいた主人が野母崎に移り住んで始めたY.Hに泊まった。

珍しい魚の刺身が美味かった。 

 

翌日、島原へ向かった。 (つづく)

 

 


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 3

2021年12月26日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月7日

伊万里から昼過ぎに長崎県北部の平戸島に到着。本土と大きな橋で繋がっている。50Km

 

 

生きの良い魚が港に水揚げされていた。平戸はアジの漁獲量が日本一らしい。

食事に入った店で輪行しながら日本一周をしているご同輩にお会いした。長崎県南端の「野母岬」を強く勧められ、行くことにした。本州最西南端とのこと。

 

《ザビエル記念教会 平戸市;1931年 建て替え》

 

平戸は戦国時代には既に海外との交易を盛んに行っていた。1550年、ポルトガル船が入港したとの話を聞きつけて、前年に鹿児島に着いて日本に初めてキリストを伝えたフランシスコ・ザビエルが訪れている。

当時、平戸を治めていた松浦隆信は、貿易による地域発展への期待から布教を認め、領地であった平戸島西海岸と生月島の住民をキリスト教へ一斉改宗を行い、日本における最初のキリスト教繁栄の地となった。信者は「キリシタン」と呼ばれた。

 

《ザビエル記念教会の周囲に今も残る古いお寺》

 

日本各地でキリスト教が広がるにつれ、キリシタンと寺院や神社の間で対立も起き始め、江戸時代になって本格的な禁教が全国的に始まる。

平戸ではキリスト教に寛容だった松浦隆信の死後、全国的にも早い1599年から激しい弾圧が始まったという。

 

集落にあった教会堂や十字架は壊されたが、人々は仏教や神道を隠れ蓑として、納戸に深くしまわれた聖画などを礼拝し、グレゴリア聖歌にも似たオラショという祈りの言葉を唱えて密かに信仰を続けた。

“潜伏”キリシタンと呼ばれている。

 

長い禁教時代を耐えて信仰を続けてきた人びとがいる事が世に広く知られることになったのは、1853年のペリー来航で日本の鎖国が終わり、1865年に長崎にフランス人の礼拝堂として完成した大浦天主堂に潜伏キリシタンが訪れたからだった。

 

1873年、明治政府はキリスト教を解除し、教会が各地に立てられ、“潜伏”キリシタンは仏教や神道などを棄却してカトリック信者なったが、禁教時代に密かに守ってきた信仰のしかたを継続した人たちもいた。

教会を持たず、また禁教時代に行ったキリシタン信仰と仏教や神道なども並行して行う様式をそのまま続けることを選んだ人々である。

〝かくれ〟キリシタンと呼ばれている。

 

今もなお、〝かくれ〟キリシタンの信仰が残るという平戸島の沖合の小さな「生月島(いきつきしま)」を訪ね、泊まることにした。

 

平戸島から生月島へ渡る大橋。この日は横殴りの風が強く、寸前のところで交通止めになるところだった。

橋を渡り切った所に案内所があり、宿を紹介してもらった。

 

旅館『東富屋』。もともとは豆腐屋を営んでいて旅館業に変わった時に「東富」の字を充てたという。

 

島の北端の断崖に立つ「大バエ」 (大碆鼻)燈台。地球が丸いことを感じる。

 

生月島から平戸島を望む。

生月島は、緩やかな丘陵が広がる、漁業の島だった。

 

宿の物静かな老夫婦から「島の観音様を見ていったらいいよ」と教えて貰い、翌朝、探したが分からず仕舞いだった。

「観音様」であったことが生月島のキリシタンの歴史を物語っているように思えた。

旅から戻って、遠藤周作の『沈黙』を読み返した。

 

(つづく)

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 2

2021年12月25日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月7日

呼子を出て50Kmほどの伊万里に着き、適当な所で野宿しようとしたけれど寒くて駅の案内所でホテルを紹介してもらう。

フロントに、60才前の男性がいた。主に建設作業員向けの格安ホテルだったが、泊めてくれた。

 

病気で命拾いしたのをきっかけに経営していた建設会社を畳んで、2年間の車旅に出て、途中で違反が重なり免許を失った後はバスで廻ったという。その執念に脱帽した。

 

2015年4月8日

7:00に呼子を出発し、長崎県・平戸の生月島を目指した。およそ80Km。

 

 

《名護屋城博物館からの城壁の眺め》

 

《名護屋城の復元予想ジオラマ》

 

ほどなく名護屋城跡を通過した。秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として諸大名による割普請(わりぶしん)で、わずか5ヶ月で築城した。自身も1年余り在陣している。

1592年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。

その後、城は幕府への謀反を恐れ、居城以外の城の破壊を命じた江戸時代初期の「一国一城令」により破壊されたと考えられている。石垣も広範囲にわたって壊されていた。

 

城の面積は約17ヘクタールと広大で、当時では大坂城に次ぐ規模を誇った。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、20万人を超える人々が集ったという。

 

《名護屋城 天守閣跡地 2021.12.10》

 

自転車旅の時は城壁沿いの道路を走っただけだったが、先日のドライブで天守閣跡まで登ってみることが出来た。

兵どもが夢の跡。

秀吉は一体、何のために巨大なエネルギーを使って大陸侵攻を考えたのだろうか。

 

 

 

名護屋城跡を見てから佐賀県・伊万里を経由して、源平の合戦(平家方)や元寇との戦い、朝鮮出兵で活躍し、大陸文化の摂取にも努めた「松浦水軍」の発祥地である長崎県・松浦市に着いた。

ひたすら玄界灘の島々を眺めながらのツーリングだった。

 

松浦家は平安時代末期からの古い家柄で、江戸時代は平戸藩主として、平戸島をはじめとして、 おおよそ現在の佐世保市から北松浦半島、壱岐市、五島列島の一部を含む範囲を治めていた。

外国との海洋交易によって藩の振興を目指していた。

安部政権の末期のまともに国会答弁も出来ない大臣がここの出身と知って、随分スケールが違うものだと思ったことがあった。

 

この日の宿泊地の平戸まであと20Km。(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 1 

2021年12月23日 | 『私の自転車旅物語』

12月7日のBS『こころ旅』で火野正平氏が高千穂神社の鳥居の前で“お手紙”を読んでいた。2015年4月に自転車旅で訪れた場所だ。

福岡まで飛行機輪行し、九州の北部海岸沿いに平戸の生月島まで行き、長崎、天草、熊本と南下して、南阿蘇山麓から高千穂の嶺を越えて別府鉄輪温泉にゴールするという850Kmの旅だった。

 

暫くぶりの『 私の自転車旅物語』は、初めての九州自転車旅。3週間の長い旅だった。

 

《唐津→呼子 2015.4.6》 

 

2015年4月4日

《福岡空港に到着》 

 

飛行機輪行は初めてだった。自転車は預け荷物にしてトータルで重量をクリアすればOKで無料だ。

サイドバッグ1個を一緒に預け、機内にはもう一つのサイドバックを出来るだけ軽くして持ち込んだ。

テント設営のペグやハンマーなどの金属類は出来るだけ預け荷物へ。自転車は到着地では航空会社の職員さんが直接持って来てくれる。いつも申し訳なく思う。

この夜は福岡市内のゲストハウスに泊った。

 

2015年4月5日

《アクロス福岡シンフォニーホール》

 

自転車を始めた20年ほど前、ツール・ド・フランスのドキュメンタリーで、色とりどりのジャージを纏った一団がアルブスを越え行く時にBGMで流れたのがチャイコフスキーのバイオリンコンチェルトの最終楽章だった。

テレビ局に問い合わせて知った。

ソリストに三浦文彰さんを迎えた九州交響楽団の定期演会でこの曲を聴いた。さあ明日からは初めての九州自転車旅だと思うとちょっとウルッとなった。

 

2015年4月6日

福岡から唐津駅までは地下鉄とJRで輪行した。航空機貨物なので念のため変速機周辺を段ボールで補強していたが問題無かった。

段ボールはゴミ処理しなければならないので、以後、サイドバッグに薄いプラスチック板2枚を入れておいて適宜、補強材に使っている。

 

《呼子大橋》

 

 

この日、ずっと小雨が降っていた。夕方に唐津から15Kmほどの呼子港付近に着いて民宿を訪ねるとどこも港湾工事関係者で埋まっていて満室。

観光客向けの高いホテルには泊まれない。はてさてと思案し、近くの屋台で干物を売っていたおばさんに相談すると、近くに閉館中の旅館があるから泊まるだけなら何とかなるかも、と教えてくれた。

 

早速、F旅館へ。快くお願いを聞いてくれた。ご主人は高校の先生を退職した方だった。先日、糸島の息子宅を訪ねドライブで訪ねてみたらあいにくカギが掛かっていて再会することが出来なかったのは残念だった。

 

 

夕食に入った食堂で北海道で歯学を学び診療所の巡回で来ていた青年歯科医師と出会った。銀行務めの後に歯学部に入り直し、1年前に鳥取から無医村解消のために唐津に移住してきたという。

店の主人も1年前に長崎から移って来たばかりで、「私達も風来坊です。」の一言で大笑いした。

F旅館さんの計らいで〝呼子のイカ〟を安く食べさせて貰った。

 

 

翌早朝、「呼子の朝市」を見てから伊万里へ向かった。

(つづく)

 

 

 


野党は政治疑惑追及を緩めてはならない

2021年12月18日 | 日記

朝日新聞のスクープで、建設業者の受注に関する国の基幹統計でも2013年から不正があったことが発覚した。

GDPにも影響しかねない数値が二重カウントにより過大になってしまうような報告の仕方を都道府県に指示していたという。どうみてもおかしい。

会計検査院の指摘があり、2018年からは厚労省が自ら行っていた。マスコミは「書き換え」と表現しているが、国が勝手に都道府県データを変えていたわけで明らかに公文書の「改竄」である。

その内容が具体的であり、内部から抜けたとみて間違いない。

 

何故、このようなことを組織ぐるみで行ってきたのか。国会、マスコミは背景を徹底的に究明すべきだ。〝またか〟で終わらせてはならない。国が関係書類を隠蔽しても都道府県には残っているはずだ。

 

安部晋三に関わる政治疑惑で行政組織が毀損してしまったと常々感じている。こうも霞が関の不正行為が次々に明らかになることに慄然とする。そして、こうした不正行為を〝させられ〟てきた心ある職員がまだいることに安堵するという奇妙な思いに駆られる。

 

時を同じくして、森友文書改竄訴訟が「認諾」という手続に入ることで突如、終結した。

公文書改竄という不正をさせられて悩み、遂には自殺に至った元近畿財務局職員の赤木俊夫さん。

妻雅子さんが「誰が指示したのか、真実と経緯を知りたい」と国に損害賠償請求を起こした裁判だが、法廷に証人が立つこともないまま国が訴えを認めて賠償金を支払うことで全てが闇に葬り去られた。

「認諾」は裁判長も当日まで知らなかったというから抜き打ちである。

 

命をかけて良心を訴えた赤木俊夫さんに、ここまで卑怯で卑劣な手段を取らざるを得なかった「真実」が国側にあるということだろう。

 

雅子さんは「追い詰められる公務員をこれ以上出さない」ための訴訟でもあったと語っている。

野党が「批判ばかり」という世論調査やネット世界のレッル貼りを気にするあまり、政府を監視する役割を失ってはならないと改めて思う出来事が続いた。

 

政治疑惑の後始末に忙殺される行政組織を本来の国民、住民のための業務に専念できるよう立て直す国会論戦が必要だ。士気が下がり、人材も集まらなくなる。しわ寄せは国民に来る。

野党第一党の泉・立憲民主党は大丈夫かと心配である。


スマホのデータ移行奮闘記

2021年12月16日 | 日記

スマホが古くなって反応が遅くなっていた。

自転車旅の時にはバッテリーを気にしながらカーナビ機能や宿の検索などに活躍するが、普段は電話とライン、カメラくらい。新品は高くて買えない。

そこで、先日福岡に行った時に息子の型落ちを格安で貰って帰ってきた。

 

ところが機種が異なり中古でもある。AndroidスマホからiPhoneにデータを移行するという作業が必要になった。

簡単に考えていたらこれが年寄りには大変な作業だ。

 

近くのドコモ店舗では全く対応してくれない。

データ移行の装置はあるが使い方は教えてくれない。

トラブルが起きた場合のことを考えてのことだろう。

 

そこでAppleサポートセンターの電話指示を受けながら半日作業をしたが、「連絡先(住所録)」がどうしても移行しない。

何度も何度も初めてのiPhoneを操作し、ほとほと疲れ切ったが結局はダメだった。

遂に「当方ではAndroidのことは正直分からないことが多く、これ以上解決策を提案出来ません」ということになった。

疲れてぐっすり寝た。

 

今朝、気を取り直し、ネットでAndroidのデータ移行アプリを探し、トライしてみたら何と前日の苦労がウソのように見事、住所録が移行された。万歳である。

 

アプリはドコモの「データコピー」。このことを書かないと今回の作業が終わったような気がしない。

 

操作は簡単で移行時間も2分程度と短い。最初から使っていれば・・・とも思ったが、述べ5人のAppleサポートセンターのスタッフの皆さんの年寄りに対する親切な応対には感謝だ。

結果的には、AndroidとiPhoneの違い、iPhoneの基本操作、パスワードとメールの設定方法などを知ることが出来た。

 

そして、住所録が移行しない原因も分かった。

1回目はうまく行かず、「CloudへのアクセスをOffにしてください」とのメッセージが出たからだ。

 

Appleサポートセンターがこのことを知っていたら何度も似たような作業をしなくても済んだかも知れない。

スマホを動かしている基本ソフトは異なるわけで、開発会社の相互間で〝他社の製品には立ち入らない〟という企業倫理、仁義ようなものが通信ネットという先端技術のど真ん中に存在していることに驚く。

日頃、“他社からの機種乗り換え大歓迎!”と宣伝していてもだ。

「デジタル庁」「携帯の値下げ」もいいけれど、機種変更、特に中古品において生じる身近な不便さを先ずは解消してもらいたい。

 

妻は「アタマの体操が出来ていいね」と横で言っているが。。。

ひとまず今夜もぐっすり眠れそうだ。

 

 


Blog書きかけで北海道に帰ってきた

2021年12月14日 | 日記

《福岡 天神地下街 2021.12.12》

 

ニュースは各地の人出が戻ったことを伝えている。

久し振りの福岡市内も以前と変わらない印象だ。Xmasの飾り付けが年末を感じさせる。

 

博多うどん、もつ鍋、とんこつラーメン、サバ刺、胡麻サバ

この街の食べ物はバライティーに富んでいてどれも好物だ。

サバの生は北海道でなかなか食べることが出来ないが、居酒屋の定番メニューなのが楽しみだ。

 

昨晩は妻方の親戚のMさんと中華に。紹興酒を呑みながら「北海道は大荒れみたいだけれど、飛行機は大丈夫?」と随分心配された。

全国の天気予報は〝北海道〟で一括される。地域によって大きな違いがあることを説明することがよくある。冬は特に。

念のため今朝(12/13)、新千歳空港のある千歳市と住んでいる隣の恵庭市の予報をネットで見ると風雪の影響は無いようでひとまず安心する。

 

ここまで書いて帰りの荷物整理やお礼の電話などを掛けているうちに出発の時間になり、空港でもうろうろして結局、続きを書かずに静かな新千歳空港に戻った。

駐車場の空気は流石に冷たい。

今年もあと半月。

のんびりした5泊6日の旅だった。

 

《福岡市内 2021.12.13》

 

 

 

 

 


九州、糸島にて

2021年12月10日 | 日記

久しぶりにスマホから投稿。夏の日本海ツーリング以来だ。なかなか手間が掛かる。

1年半ぶりに福岡に。

この先もコロナが落ち着き、この自由さが続いて欲しい。

着いた夜に福岡サンパレスホールで九響の400回記念定期でブラームス#2,3を聴いて、翌日、息子夫婦に呼子方面をドライブ案内して貰った。

そのうち書こうかなと思っている2015年の自転車旅の想い出の旅館と食堂を見たかった。

 

当時、旅館は閉館していたが小雨の中、「今晩泊まる所が無い」と頼むと快く泊めくださり、夕食は近くの食堂を紹介して頂いた。

旅館はあいにく留守だったが、名前を覚えていなかった食堂は偶然にも息子夫婦が予めネット検索して昼食に訪ねた“呼子のイカ”を食べさせてくれる店だった。

 

 

この日はアオリイカだった。前回食べたケンサクイカより甘い。

ご主人に6年前に来たこと、地元の診療所に巡回で来ていた歯医者さんと一緒になったことを話すと思い出してくれて懐かしい食事になった。

 

 

糸島の海でウエットスーツを着てサーフィンを楽しむ若者達がいた。気温17℃、北海道より10℃近く高い。

日没も30分位遅いかな。

日本は広い。

 

 

≪糸島半島 2021.12.10≫