楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『 私の自転車旅物語』-2013 福井・能登・出雲崎へ 7 -

2021年04月29日 | 『私の自転車旅物語』

 

                                《台風24号 10/8 15:00 → 10/9 9:00》

・10/ 9   輪島→能登町 85Km(Y.H)

・10/10  能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)

・10/11  和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)

・10/12  出雲崎→新潟市港 65Km(フェリー)23:30→

・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市 

 

10月9日

《輪島朝市通り 石畳が摺り減っていた 5:45》

不覚にも定休日で閑散とした輪島の朝市通りを流して能登半島の突端方向へ向かった。

山のなかで台風24号に追い越され、富山湾側の能登町に出た時は台風一過の快晴になった。

 

 

輪島市街地に『宗玄』の酒蔵があった。荷物にならないサイズを買い、戻ってから知人のAさんと居酒屋で安着祝いをした。絵柄はこの後に訪ねた玖珠市の「見付島」だった。

能登の「の」はアイヌ語では「顎、半島」という意味とか。納沙布、ノシャップ、野付・・・。縄文と弥生の接点の地と言われる。

 

能登の「揚げ浜式製塩」は江戸時代から続く日本最古の塩田法。このような風景が所々に見られた。

 

《上時国家 観光パンフより》

《上時国家》;時国家は、壇ノ浦の戦いに敗れて奥能登(珠洲)に配流された平時忠の五男・平時国を祖とする。時忠は「平家にあらずんば・・・」で有名な人物。

江戸時代、能登は加賀前田藩と越中土方藩の二重支配を受け、十三代藤佐衛門時保は時国家を距離にして300メートルの「上(本家)と下(分家)」の二家に分けた。

網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす」に詳しいが、上時国家は百姓ながら加賀藩から年貢米や製塩の管理を請け負い、山林・鉱山、金融、廻船業を営む"多角的企業家"だった。

百姓=農民は間違いであることの立証事例になっている。

煤光りした太い柱、梁がこの奥能登に平家末裔の栄華の時代があったことを偲ばせる。

 

上時国家を出発して富山湾方面に出るために山中に入ると台風24号に追いつかれた。この年は台風が多く、この後2週間で28号まで発生している。

 

台風が飛ばす枯れ木の小枝を顔面に受けながら富山湾に面した玖珠市の「見附島」に出た。

空海が修行した唐の僧に奪還されそうになり海に投じた密教の教義を帰国してから海路佐渡から探しに来てこの地で見付けたという伝説が島の名前になったという。

 

台風が通り過ぎ天気が回復するのを待って、この日の宿の能登町のユースホステルへ向かった。海はかなり荒れ、強風で自転車が進まなかった。 (つづく)

 

 

 





東京五輪は誰のためにやるのか

2021年04月28日 | 日記

コロナ感染拡大で東京五輪開催の醜い責任のたらい回しが始まった。

中止の権限はIOCにしか無いとのことだがバッハ会長は東京都、日本政府から「無理」と言ってくるのをじっと待っている。

日本政府の丸川担当大臣が東京都から医療体制の整備方針が示されていないからとあからさまに小池知事に責任を押しつけた。

小池知事は事務レベルでは都と国はやり取りをしていると反発している。

 

誰も実は真剣に考えてないことが露呈してくる。この場に及んで何とお粗末な状態かと思いきや、今日(4/28)関係組織トップ5者会議が開かれるのだという。

狸がお互いに竦み合うだけで「安全・安心な開催を確認」するのだろうけれど、責任の擦りあいをしながら進めても結果は良くないのは経験的に皆な知っている。

 

海外観客のシャットでインバウンド効果は言われなくなった。国内観光振興効果も期待薄でその世界のドンである二階氏も「スパットと止めることもあり得る」と言い出した。

巷間言われている中止によるIOCからの「違約金請求」は過去に例が無いらしい。コロナウイルスという“自然災害”は対象から除外されるのは自然なこと。

 

関西大の宮本教授の試算によると中止による損失は4.5兆円という。GDPの1パーセントである。この国はコロナ対策で既に数十兆円を使っている。

時事通信・山田恵資解説委員によるとIOCは開催に係る保険を掛けており、放映権料のダメージはそれほど大きくないのだという。

 

それでも管首相は開催に拘るのは「自分のため」ということでしかない。

オリンピックこそ不要不急。

誰かが管首相に単刀直入に「何のため、誰のため」に開催するのかを問うて欲しい。

 

或いは小池知事が自ら「中止」を決断して欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語』-2013 福井・能登・出雲崎へ 6 -

2021年04月26日 | 『私の自転車旅物語』

2013年10月3日→13日   能登の旅

 

・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30→

・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)

・10/ 5    敦賀港→坂井市 120Km(Yさん宅)

・10/ 6    滞在;永平寺、丸岡城、越前竹人形館など

・10/ 7    坂井市(JR)→羽咋ハクイ市(民宿)

・10/ 8 羽咋市→輪島 90Km(民宿)

・10/ 9   輪島→能登町 85Km(Y.H)

・10/10  能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)

・10/11  和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)

・10/12  出雲崎→新潟市港 65Km(フェリー)23:30→

・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市 

  

10月8日

夕方、輪島市内に到着。

 

釣り宿のような民宿に泊まった。(左奥の白い建物)

 

街に食事に出たが台風が近づいていたせいか、人通りは殆ど無かった。

 

灯りの点いていた建築資材店で適当な店を紹介してもらう。

親切な人でわざわざ店まで案内してくれた。

「さより」の塩焼きと地魚の刺身。能登杜氏による地酒が浸みた。

 

店主と話していて愕然。

この日は火曜日だったが、翌朝の水曜日は楽しみにしていた「能登の朝市」は定休日という。わざわざ訪ねてきたのに何と言うこと。

いつか又来ればいいのだと気を取り直して、観光センターの“御陣乗太鼓”も観に行かずにお客さんと四方山話を楽しんだ。

能登と北海道は北前船で繋がっており、能登の杜氏が北海道の酒造りに関わっていた時代があったらしい。

 

海を見ながら宿へ。

台風の気配があった。 (つづく)

 

 


今年一番の快晴

2021年04月26日 | 日記

 

今朝のポタリング。

毛糸の帽子、冬の手袋、ウインドブレーカー上下の重装備でも手指は冷たかった。

予報では朝の最低気温は-3℃、

樽前山、恵庭岳に新しい雪が積もったようだ。

 

雲一つ無い青空。

 

2021.4.26   6:40


『 私の自転車旅物語』-2013 福井・能登・出雲崎へ 5 -

2021年04月25日 | 『私の自転車旅物語』

2013年10月3日→13日   能登の旅

           ・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリ)23:30→

      ・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)

   ・10/ 5    敦賀港→坂井市 120Km(Yさん宅)

   ・10/ 6    滞在;永平寺、丸岡城、越前竹人形館など

   ・10/ 7    坂井市(JR)→羽咋ハクイ市(民宿)

   ・10/ 8 羽咋市→輪島 90Km(民宿)

     

10月7日

 

 

好天の下、お世話になった坂井市のYさん宅からいよいよ能登半島へ。前夜ご馳走になった「鱒の押し寿司」を奥さんが弁当にと沢山持たせてくれた。

JR北陸本線春江駅まで車で送って貰って、11:50に乗車。早速、お寿司を半分食べた。油桐の葉で包んであり、酢で締めているので長持ちした。

金沢でJR七尾線に乗り換え、2時間30分の輪行で14:39に羽咋市のJR敷浪駅に到着した。

 

堅く締まっていてオートバイ、車でも走ることが出来る「なぎさドライブウェイ千里浜」をツーリングして、「ユーフォリア千里浜キャンプ場」に泊まるというのが当日の予定だった。

 

 

 

しかし、MTBのタイヤでは流石に砂に埋まる。ギアに砂が入る危険性もある。諦めて普通道路で終点に向かい、隣接したキャンプ場に泊まることにした。

周辺には名物の「浜ぐり焼き」の出店や「砂像」があった。ここの砂は粒子が揃っているため水を含ませると硬く締まり、彫像し易いとのこと。

レストハウスでキャンプの受付をすると、最後に「何かありましたら警察の電話番号はこです」とメモ紙を渡された。

 

 

何だか漠然とした不安が募り、台風24号と25号の影響で雲行きが怪しくなってきたこともあり、直ぐに取り消して羽咋市内の民宿を探すことにした。

宿に落ち着き、台風で使うことは無くなったキャンプ道具一式をダンボール詰めにして家に託送した。

 

 

10月8日

 

羽咋市内にある能登一宮の気多神社にお参りして輪島を目指した。大国主命を祭神に祀る。創建2000年。

 

能登半島は国定公園に指定されていて、輪島に至る日本海岸には松本清張の『ゼロの焦点』で悲劇のヒロインが身投げをする「ヤセの断崖」などの奇岩、断崖が30Kmに亘って続く「能登金剛」がある。

 

《能登金剛 右が「巌門」》

《「義経・弁慶の船隠し」》1185(寿永4)年、兄・源瀬朝の厳しい追手から逃れる義経と弁慶らが、奥州へ下る途中、荒波を避けるため舟を隠したと伝えられている入り江の岩場。48隻もの船を隠したとの伝説がある。

 

《大笹波水田》;能登の景勝地「ヤセの断崖」からやや南方に位置する180枚の棚田。「日本の棚田百選」に選ばれているが観光客が少ないため、能登の原風景を独り占めできる絶好の穴場スポットになっている。

 

《「ヤセの断崖」 看板の白い矢印方向の突端  下の写真は断崖上部》;高さ35メートル。2007年の能登半島地震(M6.9)により突端部分が崩落した。

〝ヤセ〟の由来は痩せ地であったという説や断崖から海を見下ろした時の痩せる思いがするなどの説がある。

 

《能登らしい風景》

 

 

 

 

《輪島方面と皆月海岸方面の分岐》;皆月海岸に降りてしまうと輪島へは行き止まりになって登り坂を戻ることになる。

 

 

 

お~、90Kmを走って輪島に来た。ところがところが・・・。 (つづく)

 


穀雨の季節になってイネの籾降ろし

2021年04月22日 | 農作業ヘルパーの記

今年は20日が「穀雨」だった。

農家ではハウス作業が始まり、JAの農作業支援も始まっている。

学生時代のRugbyで傷めた腰痛の古傷を抱えているが、今年も状態が許す限り出掛けることにして登録手続をした。

健康維持、社会との繋がり、自転車旅の資金づくりの一石三鳥というところか。

 

昨日(4/21)、T農場でイネの種籾降ろしを手伝った。昨年も一緒になった札幌のKさんと再会した。自宅の農園で野菜、果樹など何でもつくっている。葡萄の蔓の選定法を教わった。降雪前の作業なので来シーズンに活かそう。

 

《奥の方からコンベアが流れてくる 2021.4.21》

 

籾降ろしはパレットに土を敷き、種籾を散播し、覆土するという3工程を機械がする。人は出来上がった1.5Kg~2Kg位のパレットをコンテナ台に運んで積み上げる。

その数コンテナ1台当たり、1段に10個×21段=210個。

ハウス1棟に3台分を並べ苗作りをするとか。5月に12ヘクタールの水田に植えられる。

《手前が出来上がったパレット》

 

《播種する種籾は思いのほか多い》

 

昨春に出掛けたT農場はパレットに穴に播種するたポット式の苗作りだったが、工程は一緒。

同じ作物でも農家によって作業が微妙に違い、近所どうしでも「隣のやり方は知らない」という声を意外にもよく聞く。

JAの作物ごとの部会で最新技術、市場動向などは共有化されているけれど、細かい作業のことは農家に伝わっているものが多いということか。

稲作にもコロナ禍が影響している。インバウンドが無くなって消費量が減少し、今年は価格が下がる見通しとのことだった。

 

半年ぶりの作業で身体のあちこちが痛いが、取り敢えず今日、明日と続く。

 

 

 

 

 

 

 

 


それでも東京五輪はやる

2021年04月20日 | 日記

管首相は東京五輪開催について、バイデン大統領のお墨付きは貰えなかった。

「決意は支持する」と上手く交わされた。管首相にとっては残念なことだろう。

 

19日のロイター電がアメリカは渡航禁止国を世界の80%に拡大すると伝えている。

大半の米国人は、既にヨーロッパの多くの地域に渡航できない。ケニア、ブラジル、アルゼンチン、ロシアなど世界約200カ国のうち34カ国をレベル4としているが、さらに130カ国を加えることになる。

今回の措置は、「各国の保健状況を再評価するものではなく、米疾病対策センター(CDC)の既存の疫学評価に沿って国務省の渡航勧告を調整した」と説明。

6月2日現在、CDCは日本のコロナ感染症危険情報度合いはレベル3(渡航中止勧告)としている。

 

菅首相はバイデン大統領を深追い出来なかったということだろう。「科学的」な根拠で返されたらもともこうもない。政権はいよいよレームダックに入る。

緊急事態の宣言を引き延ばしているのはオリンピック開催に向けて、〝効果を演出〟するために感染ピークが過ぎるのを確認しているからではないか。

最近、政界御用人スシロー氏が「一部専門家の見方」として、感染ピークを越えているとの見方を披瀝している。彼はどのような立場でコロナ関連番組に出張っているのだろうといつも思う。

人の命より政権の命が優先されている。

 

 

 


『 私の自転車旅物語』-2013 福井・能登・出雲崎へ 4 -

2021年04月19日 | 『私の自転車旅物語』

2013年10月3日→13日   能登の旅

 

  ・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30→

     ・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)

  ・10/ 5    敦賀港→坂井市 120Km(Yさん宅)

  ・10/ 6    滞在;永平寺、丸岡城、越前竹人形館など

 

10月5日

 

東尋坊を出て、福井市、続いて坂井市の看板を見てホッとするも束の間、市街地から抜けるのに迷う。何度も停まってはスマホのカーナビアプリを見て進行する。

 

本州は古い街道が入り組んだりしていて、道路標識も北海道ほど親切でないような気がする。

街の位置関係を頭にたたき込んでおかないと停まっている時間が長くなる。薄暗くなってくるとなおのこと。

 

坂井市内で遂にSOS。Yさんに車で迎えに来てもらって予定より1時間以上オーバーして18:00過ぎに到着。ひと風呂浴びさせてもらって久々の友との酒宴。

 

Yさんは学生時代から北海道で過ごし、40年振りで故郷の福井県に戻ったのだった。

テーブルには奥さんが近所のオバァチャンから習った心と手間のこもった郷土料理が並んだ。

通称〝油桐〟の葉で包んだ鱒の押し寿司は、優しく美味だった。多めに作ってくれていて旅立ちの時に「お弁当に」と持たせてくれた。デカイ油揚げ料理も名物だ。

 

そして友人が揃えてくれた地酒の数々。苫小牧東港から敦賀港に一昼夜をかけて着き、翌日、120Km離れた〝約束の地〟に無事到着した安堵感を美酒が包んだ。

『もてなし』とは旅人への暮らしに根づいたねぎらいか。次の旅のことも考えずに夜更けまでお互いの日常を語り合った。

 

10月6日

Yさん宅に滞在し、観光地を案内して貰った。

北海道には無い家庭菜園のモグラ被害。地上へトンネルを掘った土が山盛りになっている。根の食害があるそうだ。

 

福井県と言えば曹洞宗・道元の永平寺。ここは修行にやってきた「雲水」の登用門。寺社の右側の細い道の先にあった。『龍門』とある。

専用口で問答試験があり、合格すると入門が許されるという。お寺の跡取りばかりでなく、一般の若者で門を叩く人も多いという。

 

樹齢数千年の杉に囲まれた鐘つき堂。

 

 

 

丸岡城。

1576年に信長の家臣が築城。最古の天守閣を有することから国宝だったが1948年の福井地震により崩壊、一部を再築したため現在は重要文化財。

 

屋根に石を用いているのはこの城だけ。寒さと水に強い「笏谷(シャクタニ)石」というものが使われ、北前船で北海道にも運ばれたという。

往きはバラスト代わりに船底に積み、帰りは身欠きニシン、肥料用ニシン糟、昆布を積んで帰った。

 

「笏谷石」は江差・中村家の土台石にも使われている。江戸時代の大江商人・大橋宇兵衛が建設し、大正初期に中村米吉が譲り受けた。よくこの坂道を歩いたものだった。(重要文化財)

自転車旅はすっかり北前船の時代を航海している気分になった。

 

天守閣から坂井市の街並み。

 

 

福井市一乗谷遺跡。

越前を100年に亘り治めていた朝倉氏は、近江の浅井氏との連合軍で信長に臨んだが破れ、一乗谷の城下に放たれた火は三日三晩燃え続けたと言われている。

当時は2万ともいわれる人々が生活し、小さな谷を埋め尽くすほど家々が立ち並でいたという。

歴史の表舞台から姿を消したこの地は、往時の屋敷や人家跡がそのままの状態で田畑の下に眠っており、今もそれらの発掘作業が続けられている。

国から「特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」の三重指定を受けているのは「金閣寺」「銀閣寺」「醍醐寺」「厳島神社」と、この一乗谷朝倉氏遺跡だけという。

 

先祖が花巻の我が家と何の関係も無いが丸岡城によく似た家紋があった。

 

ゆっくり休養した。坂井市から能登半島の付け根の羽咋市へJR輪行して、いよいよ能登半島へ。 (つづく)

 

 

 

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語』-2013 福井・能登・出雲崎へ 3 - 

2021年04月18日 | 『私の自転車旅物語』

2013年10月3→13日   能登の旅

 

 

   ・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30→

      ・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)

   ・10/ 5    敦賀港→東尋坊→坂井市 120Km(Yさん宅)

 

午前6時に敦賀港の港湾福祉センター(船員宿泊所)を管理人ご夫婦の見送りを受けて出発。いつものように朝は走る前に食べない。胃にもたれる感じがする。せいぜい紙パックコーヒーかインスタント味噌汁だ。

この日の目的地は120Km先の福井県の坂井市のYさん宅。

Yさんは昔の職場の同期で定年後の職場を退職して出身地の坂井市に戻った。送別会で「自転車で訪ねるから」と約束していた。

 

《2013年10月6日~9日 台風24号の動き 能登半島走行中に来襲!》

 

敦賀港からいよいよ本州自転車“野宿”旅の始まり。という計画だったが途中で台風24号の悪天候に巻き込まれて野宿を断念。重たいので羽咋市でテント一式を宅急便で家に送る羽目に・・・。

 

10月5日。敦賀港から日本海を北上して越前岬、東尋坊を回り、福井市内に戻って坂井市まで行った。ここまではまずまず晴れていた。

 

敦賀港付近でイカ釣りを楽しむ若者3人組と遭遇。身の厚い紋甲イカだった。

 

敦賀湾を左手に見て日本海沿岸を北上。穏やかな海が広がっていた。

 

越前岬の喫茶店で休憩。ひと息つく。

 

さらに北上を続ける。越前海岸には北前船の寄港地が多く、格式のある回船問屋が保存されて残っていた。

道南の江差町の横山家、中村家と行き来していたのだろう。往時の栄華と日本海交易のダイナミズムを感じる。(「右近家」資料館)

"裏日本"と誰が名付けたものか。などと考えていたらベンチに置いた遅い朝食のサンドイッチを烏にさらわれた。

 

 

敦賀港から7時間、100kmほど走って「東尋坊」に着いた。沢山の観光客が遊覧船の順番待ちをしていて、北島三郎の哀調を帯びた一節がちょっと似つかわしくない賑やかさだった。

 

土産店をブラブラして14:00に出発。あと20KmほどでYさん宅だ。

(つづく)

 

 




   


『 私の自転車旅物語』 - 2013 福井・能登・出雲崎へ  2 - 

2021年04月16日 | 『私の自転車旅物語』

2013年10月   能登の旅

この年は7月に道南の桧山管内へ初めての自転車旅に出掛け、10月には初めて道外旅を体験した。

 

 

 ・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30

 ・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)

 

苫小牧東港から、ほぼ一昼夜のフェリー旅で敦賀港へ向かった。昔の職場の友人で福井県坂井市にいるYさんを訪ねてから能登半島を巡り、JR輪行で良寛の出雲崎に寄って新潟からフェリーで苫小牧に戻るという旅だった。

台風が日本を横断して能登半島に向かう予報が出ていた。

 

先ずはフェリー乗船。輪行バッグに入れて「手荷物」にすると安く運べるが、敦賀港に真夜中に着いて直ぐに宿の船員会館を探せるよう自転車は組み立てた状態で積み込むことにした。

乗船手続きをして車輌待機場へ。行き先の書かれた小さな荷札をつけて貰って船体後部からスロープを自転車を押して上る。

順番はバイクから始まり、続いて自転車は自分だけだった。広々とした貨物室の側壁の専用コーナーに船員さんがロープで固定してくれた。

サイドバッグから洗面具、軽食、本、アルコールなどの身の回り品をザックに移し替えて船室へ。出港すると貨物室には戻れない。

2等大広間は空いていた。持ち込んだビールを飲んで直ぐに眠った。

 

津軽海峡を抜けて早朝に秋田沖を通過している時に目が覚めた。甲板に出ると曇り空の下に岩木山が浮かんでいた。もう携帯は通じない。台風が近づいているせいか揺れた。

 

朝食を摂ってから風呂に入り、船内をウロウロしたり本を読んだりしながらやがて能登半島沖に差しか掛かった。

とてつもなく大きく見えた。走れるか自信が無くなった。

 

再び風呂に入ったり、本を読んだり、音楽聴いたり、地図を見たり。一昼夜は長い!

再び夜を迎え、午後8時30分にようやく敦賀港に到着した。船首からトラックが降りてバイクが降りて自転車は最後だった。

船員さんに会釈してスロープを下る。「気をつけて」の声。

 

外に出ると10月の敦賀港の空気が生温かかった。宿の「港湾福祉センター」は港の傍なのだが暗くてなかなか見つからない。

電話してみると、「通りに出て手を振っているから」との管理人さんのやさしい言葉。

間もなく到着することが出来た。私一人のために風呂を沸かして待っていてくれた。

最近は船員さんもビジネスホテルに泊まるので、各地の専用宿泊施設はどんどん閉鎖されて寂しいと管理人の高齢のご夫婦が話す。素泊まり3,600円と安いのに。

温かい風呂に浸かり、広々とした和室の布団で翌日からの旅に備えて早めに寝た。 

(つづく)