《台風24号 10/8 15:00 → 10/9 9:00》
・10/ 9 輪島→能登町 85Km(Y.H)
・10/10 能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)
・10/11 和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)
・10/12 出雲崎→新潟市港 65Km(フェリー)23:30→
・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市
10月9日
《輪島朝市通り 石畳が摺り減っていた 5:45》
不覚にも定休日で閑散とした輪島の朝市通りを流して能登半島の突端方向へ向かった。
山のなかで台風24号に追い越され、富山湾側の能登町に出た時は台風一過の快晴になった。
輪島市街地に『宗玄』の酒蔵があった。荷物にならないサイズを買い、戻ってから知人のAさんと居酒屋で安着祝いをした。絵柄はこの後に訪ねた玖珠市の「見付島」だった。
能登の「の」はアイヌ語では「顎、半島」という意味とか。納沙布、ノシャップ、野付・・・。縄文と弥生の接点の地と言われる。
能登の「揚げ浜式製塩」は江戸時代から続く日本最古の塩田法。このような風景が所々に見られた。
《上時国家 観光パンフより》
《上時国家》;時国家は、壇ノ浦の戦いに敗れて奥能登(珠洲)に配流された平時忠の五男・平時国を祖とする。時忠は「平家にあらずんば・・・」で有名な人物。
江戸時代、能登は加賀前田藩と越中土方藩の二重支配を受け、十三代藤佐衛門時保は時国家を距離にして300メートルの「上(本家)と下(分家)」の二家に分けた。
網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす」に詳しいが、上時国家は百姓ながら加賀藩から年貢米や製塩の管理を請け負い、山林・鉱山、金融、廻船業を営む"多角的企業家"だった。
百姓=農民は間違いであることの立証事例になっている。
煤光りした太い柱、梁がこの奥能登に平家末裔の栄華の時代があったことを偲ばせる。
上時国家を出発して富山湾方面に出るために山中に入ると台風24号に追いつかれた。この年は台風が多く、この後2週間で28号まで発生している。
台風が飛ばす枯れ木の小枝を顔面に受けながら富山湾に面した玖珠市の「見附島」に出た。
空海が修行した唐の僧に奪還されそうになり海に投じた密教の教義を帰国してから海路佐渡から探しに来てこの地で見付けたという伝説が島の名前になったという。
台風が通り過ぎ天気が回復するのを待って、この日の宿の能登町のユースホステルへ向かった。海はかなり荒れ、強風で自転車が進まなかった。 (つづく)