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元寇船(PART 1)

2019-12-21 10:53:09 | 歴史四方山話
 

元寇船(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで元寇船を取り上げたのでござ~ますかァ~?


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いけませんかァ~?

別にかまいませんけれど、多くのネット市民の皆様は「元寇」のことなど、たいして関心を持たないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんも関心がないのですか?

あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義していますから、多少は関心がありますけれど、でも あたくしの関心はほぼ平安時代でござ~ますわァ~。。。 「元寇」は、鎌倉時代の出来事ではありませんかァ~。。。


元寇


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元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。

1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。

主に九州北部が戦場となった。




出典: 「元寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、卑弥子さんは鎌倉時代の出来事には興味がないのですかァ~?



興味が全くないとは申し上げませんけれど、やはり平安時代の方がよいのでござ~ますわァ。。。 そんなことよりも、どうして元寇船を取り上げたのか?。。。説明してくださいなァ。。。

実は、鎌倉時代の「元寇」に興味を持っているネット市民がいるのですよ。。。 次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『女子大生の秘湯』(PART 1)

『女子大生の多い混浴』(PART 1)

『ジューンさんのパンツ』(PART 1)

『ジューンさんのパンツ』(PART 2)

『じゅくじょのぱんてー』(PART 1)

『不倫と検索』(PART 2 OF 3)

『元寇と捕虜』(PART 1)


 



これはGOOの僕の「デンマンブログ」の12月12日のアクセス解析のリストです。。。 アクセス元ページ の3番に注目して欲しいのですよ。。。



あらっ。。。 「元寇船」で画像検索したネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうなのです。。。 実は、京都市に住んでいる笠原紀美代 (かさはら きみよ)さんが読んだのです。。。

また、いつものようにIPアドレスを調べて紀美代さんが読んだことを突き止めたのですかァ~?

そうです。。。

 


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。。。で、紀美代さんは京都市で何をなさっているのですか?



花園大学の文学部で勉強している女子大生ですよ。。。 紀美代さんは平安時代ばかりじゃなく、鎌倉時代にも江戸時代にも関心を持ているのですよ。。。

 


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。。。で、アクセス元ページ の3番の URL をクリックすると どのようなページが表示されるのでござ~ますか?



次のページが出てきます。。。

 


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『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



このページの左上の 元寇と捕虜(PART 1)- デンマンのブログ をクリックすると記事が表示されるのですか?



そうです。。。 次の記事が表示されます。。。

 


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『元寇と捕虜』(PART 1)

 



。。。で、紀美代さんは記事を読んで「元寇船」について新たな発見をしたのですか?



別に新しい発見をしたわけではないのですよ。。。 長崎で「元寇船」が見つかったということを聞いて検索したのだそうです。。。 でも、記事を読んで「倭寇」の事が書いてあったので興味深く読んだそうです。。。


倭寇


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明朝と南北朝と前期倭寇

 

中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。

使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。

その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。

倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。

朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた。

 


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出典: 「倭寇」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、日本人の海賊が朝鮮や中国の沿岸部を荒らしまわったのですわねぇ~。。。?



でもねぇ~、上のクリップを見れば分かるように 倭寇海賊10人のうち日本人は3人程度で、あとの7人は中国人を含めた外国人だったと言うのですよ。

。。。で、1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣したのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称したのですよ。。。

その返礼として、捕虜70余名を返すことにしたわけでござ~ますか?

そういうことです。。。

。。。で、その捕虜というのは懐良親王が手下に命じて捕まえた中国人の海賊たちですか?

そういう者たちもいたでしょうねぇ~。。。 それと、たぶん中国沿岸で拉致されて人質とされたり、奴隷として売られる羽目になった中国人もいたことでしょう。。。

。。。で、中国では、それほど倭寇に悩まされていたのでござ~ますか?

そうなのですよ。。。 日本人にとって“倭寇”と言うのは、“元寇”と比べたら あまりなじみのない言葉だけれど、中国では被害にあった人たちがたくさん居たから“倭寇”は有名なのです。。。 だから、今でも映画になっているくらいです。。。




倭寇的踪迹

 

(倭寇だと見て追跡する)

    (2011年中国作品)

 

1604年、明代中国のとある街。
ここを治めているのは、高度な武術の伝統を、それぞれの武器と型で守る名門四家。
ここで新たな流派を開こうとする者は、四大道場に闘いを挑み全てに勝利しなければならない。

ある日、この街に異様な長刀を携えた剣士2人が現れ、あっという間に道場の剣士たちを倒してしまう。
2人はこの新たな長刀を使った究極の剣術道場を開くつもりだった。
しかし彼らを受け入れたくない道場主たちは、その長刀を日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけ、弓矢の大部隊に追わせる…。

 


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一人は負傷し捕えられるも、もう一方の剣士は、外国女の踊り子が働く商売船に逃げ込む。
船を包囲する四大道場の精鋭たち。
踊り子の運動能力を見極めた彼は、武芸の達人でも扉の後ろから一振りで倒すことの出来る究極の棒術を彼女に伝授する。

剣士を仕留めようと船に近づく武芸家たちを踊り子が棒術で翻弄する間に、彼は捕えられた仲間を救い出すべく船を脱出し街に侵入する。
一方、長年世を捨て山に籠っていた四大道場の長老チウが、彼らの出現を知り、ついに街に下りてくるのだった……。




明の時代でも後期の話ですよ。。。 日本では江戸時代になりかけている頃です。。。



その頃でも倭寇が居たのですか?

“倭寇”という名前は当時の中国人ならば、誰でも知っていたけれど、かつてのような大掛かりで華々しい海賊行為は、もうなくなっていた。。。 ただ、それまでの名残が上の映画の中にも出ているのですよ。。。

例えば。。。?

倭寇鎮圧によって室町幕府3代将軍の足利義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行うのだけれど、この時の輸出品の日本刀が中国では人気があった。。。

日本刀がでござ~ますかァ?

そうなのですよう。。。 現在で言えば、日本人がベンツに乗るようなステイタス・シンボルになっていた。

それで、上の映画では日本刀だと言い張り、二人を倭寇だと決めつけたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。



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 (すぐ下のページへ続く)







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