愛の記憶(PART 1)
【デンマンの独り言】
記事を読み終わったあとの余韻と言うものがありますよね。
クラシックでもそうでしょう?
チャイコフスキーの「白鳥の湖」を聞き終わっても余韻がオツムの片隅に1時間から半日ぐらいイメージと共に、かすかに鳴り響いているものです。
あなただって経験した事があるでしょう。
ええっ。。。?僕の記事には余韻を感じるほどの内容が無いってぇ~。。。?
そんなことは無いでしょう?!
余韻を感じる内容はたくさんあったはずですよう。
ええっ。。。?オマエの余韻は何なのかぁ~?
あなたは、僕にそうお聞きですか?
うへへへへ。。。
次の写真ですよう。
小百合さんがこの格好で、カナダのアルバータ州のバンフまで行ったのですよう。
僕のお袋と小百合さんの世代の違いを感じない訳にはゆきません。
僕のお袋が小百合さんと同じ年頃に、1才足らずの僕をおんぶして単独でカナダのバンフまでロッキー山脈を見に行けるか?
逆立ちして行田市から東京まで歩いてゆけ!と言われるようなものでしょうね。
うしししし。。。
でも、考えてみたら、僕を背負って「大正座」に「愛染かつら」を見に行った事は、
“お袋の世界”では、ちょうど小百合さんが生後8ヶ月の長男を背負ってバンフに行ったようなものです。
なぜなら、映画館に入って映画を観たのは、お袋の長い人生であの時だけだったのですから。。。
まさに、外国に行くようなものだったでしょう。
お袋が「愛染かつら」を観た感動は、背中を通して僕に伝わったのかもしれません。
だからこそ、僕は1才にも満たないのに「愛染かつら」の1シーンを記憶していたのです。
本当に、自分でも信じられないことです。
“真実は小説より奇なり!”
正に、その通りですよう。
1才に満たない時の記憶が、小百合さんの上の写真を見る事によって、またありありと甦(よみがえ)ったのです。
信じられないような不思議な事は、結構、身近にあるものです。
考えてみたら、小百合さんとの出会いも不思議な経験でした。
この記事の余韻で、その不思議さを、今、たどっているところです。
『おんぶされて観た映画 (2009年4月29日)』より
愛の記憶というのは、デンマンさんがお母様におんぶされて観た映画のことでござ~♪~ますか?
そうですよう。
。。。んで、今日はまたその映画のことでお話になるのでござ~♪~ますか?
いや。。。違います。もう、映画「愛染かつら」のことは語りあきました。興味のある人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
■『おんぶされて観た「愛染かつら」』
(2009年4月29日)
映画のことでないとすると、今日はいったい何についてお話になるのでござ~♪~ますか?
一才までの記憶についてですよう。
でも、3歳までの記憶は残らないと申しますわ。
そうなのですよう。そう言う人が多いのですよう。バンクーバー図書館から借りてきた『源氏物語』を読んでいたら次のように書いてありましたよう。
光源氏の母は桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい)であった。
源氏がいまだ幼く、母の記憶さえ残らぬ三歳のとき死別。
父帝の女御(にょうご)として入内(じゅだい)した藤壺(ふじつぼ)が母君に生きうつしであるという人の噂を、幼い源氏は胸熱くして聞いた。
母への切々とした思慕であったものが、成長に及んで藤壷への憧憬に変貌してくるのを、ひそかにおそれる源氏ではあった。
【エッセイ: 生方〔うぶかた〕たつゑ】
181ページ 『源氏物語』 現代語訳者: 円地文子
現代語訳日本の古典5
1979年6月22日 初版発行
発行所: 株式会社学習研究社
母の記憶さえ残らぬ三歳のときと書いてあるのですよう。僕も、これまでに同様な事を何度か耳にしたり、読んだ事があるのですよう。
そうでござ~♪~ますわ。あたくしも3歳未満の記憶なんて思い出すこともできませんわ。
でもねぇ、ジューンさんは次のように言ってましたよう。
こんにちは。ジューンです。
“三つ子の魂百まで”
幼児の頃の教えやしつけは
終生、その子供の心に
刻み込まれてしまう。
そのような意味ですよね。
日本には上のような諺があります。
それで、三歳までの記憶は残らないと
思っている人が多いのではないでしょうか?
わたし自身は、1歳の頃とか
2歳の頃の記憶があります。
言葉で覚えていなくても
感覚で覚えている事ってありますよね。
あなたはいかがですか?
さて、上の諺を英語で何と言うのでしょうか?
いくつか言い方がありますよ。
よく見かけるものに次の言い方があります。
The child is the father of the man.
つまり、幼児の頃のしつけが
大人になってからの性格を
形付ける、と言う事です。
次の諺は、そのものズバリを説明しています。
What is learned in the cradle is
carried to the grave.
ゆりかごで習い覚えたことは、
墓場まで持ってゆく
次の言い方も分かり易いです。
The leopard cannot change its spots.
ヒョウがもって生まれた斑点は
自分で変えることはできない。
その通りですよね。
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
『猫の記憶 (2009年5月9日)』より
「言葉で覚えていなくても感覚で覚えている事ってありますよね」と言っているのですよう。確かに、僕も「愛染かつら」を観た記憶はあるけれど、白衣を着た男女が白樺林でなんだか悲しそうに話していたシーンだけしか覚えていないのですよう。
こんな感じのシーンだったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。
でも、デンマンさんがコラージュした上の写真は悲しそうではござ~♪~ませんわねぇ~。うふふふふ。。。。
うん、うん、うん。。。悲しそうにしようと思ったのだけれど、やっぱり人生は明るく楽しく送った方がいいでしょう。。。だから、楽しい感じにでっち上げたのですよう。うしししし。。。
つまり、3歳未満だと言葉を上手に話せない。でも、視覚的に覚えていることがあるとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。。。卑弥子さんにも3歳未満で視覚的に覚えていることってあるでしょう?
そうですわねぇ~。。。思い出そうとしてもイメージとして覚えていることってぇ、ござ~♪~ませんわ。
。。。で、卑弥子さんの最初の記憶って何ですか?
オネショして、しかられた時の記憶でござ~♪~ますわ。うふふふふ。。。
つまり、小学校に上がってからも卑弥子さんはオネショしていたのですかぁ~?
なんで。。。なんでぇ~。。。3歳から急に小学校の思い出になってしまうのでござ~♪~ますか?
小学生のときの思い出ではないのですか?
違いますわよう。小学生になってからはオネショをしませんでしたわ。失礼しちゃうわあああぁ~
要するに、卑弥子さんが小さい時ってぇ、ずいぶんとオネショをしたのですねぇ。。。だから、最初の記憶がオネショなんですよう。。。そうでしょう!?
デンマンさん!。。。いい加減にしてくださいなア。。。人格攻撃はお止めください。。。ますますお嫁に行けなくなってしまいますわあああぁ~。。。んで、今日は、デンマンさんの1歳未満の別の記憶についてお話になるのでござ~♪~ますか?
いや。。。僕の記憶ではないのですよう。
どなたの記憶でござ~♪~ますか?
夏目漱石です。
あらっ。。。漱石先生にも1歳未満の記憶があるのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。僕はバンクーバー図書館から借りてきた漱石先生の孫が書いた本を読んでいたのですよう。
何と言う書名なのでござ~♪~ますか?
『漱石の孫』というタイトルなのですよう。その本の中で次のように書いてありました。
漱石のトラウマ
前半で、漱石の「恐怖の父」としての側面を書いた。
彼がなぜそうなったかを語るのは、心理学者でも文芸評論家でもない僕の仕事ではない。それに、トラウマ(心理的外傷)やコンプレックス(心理的複合)からする解説は、いってみればすべて実体のみえない「心」という現象についての推論、仮説にすぎない。
無意識(本人が意識できない意識)の問題なので、本人がどう思っていようと関係なく「じつはこうでした」というレトリックが成りたつようになっていて、本当にそうであったかどうかを立証したり反証したりする物的証拠のほとんどない世界なのだ。
ある意味、考古学的発見の存在しない古代史仮説のようなものである。
臨床的な場所からいえば、本当はできるだけくわしく患者の人生や生活を知っていて、できれば長期にわたって観察してきていないと判断できないのが心理学的な仮説というものだと、僕は理解している。
作家や個人を、表層的なかぎられた情報で深層心理学的に理解するのは、じつは相当危険なはずなのである。
以上書いたような前提にたった上で、あえていうのだが、漱石、夏目金之助の幼少期トラウマはかなり根深かったろうと思う。
生家は牛込の町名主の家である。
生まれてすぐに里子にやられ、夜店の籠にぶらさがっているのを、姉がかわいそうだと連れ帰ったが、またすぐに養子に出されている。
生まれて1歳までのできごとだ。
その養子先での様子を描いたのが自伝的な『道草』であったといわれる。
ひとりっ子としてもらわれた主人公の健三は、幼い頃、毎晩のように養父母から、こうたずねられる。
「お前のおとっさんは誰だい」
彼が養父を指すと、
「じゃ、お前のおっかさんは」と聞かれる。養母を指すと、
「じゃ、お前の本当のおとっさんは」と聞かれ、主人公はいやいや同じ答えをくりかえすのである。
(中略)
これが漱石の養家における事実であったかどうかわからない。わからないが、やけにリアリティのある描写ではある。もし事実あったことなら、こうしたやりかたは、ほとんど子どもの精神を病ませようとしているにひとしい。
(中略)
この挿話がリアルなのは、漱石の「本当」と「虚偽」についての潔癖性や、異常なほど気まじめで禁欲的かと思うと理不尽な感情を爆発させる二重性が、この話でよくわかるような気がするからだ。
かりに、この話がフィクションだとしても、そこにある心理的なリアリティは、漱石の性格的な悲劇の起源を示しているように思える。
212-216ページ 『漱石の孫』
著者・夏目房之介
2003年4月22日 初版第一刷発行
発行所・株式会社 実業之日本社
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