狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

占領下、一九五二年日航機「撃墜」事件

2012-11-24 00:28:53 | 歴史修正
  「一九五二年日航機「撃墜」事件」(文庫版、著者:松本清張氏、出版社:角川書店、出版日:1994/12/2)
 社会派推理小説の巨匠である松本清張氏が、自ら間違いに気付いて2回も改訂して書き直したノンフィクションです。
 国内初のジェット機日本航空マーチン202型双発「もくせい号」が伊丹経由福岡行として、1952年(昭和27年)4月9日午前7時34分に荒天の中、羽田空港を離陸しました。その直後の8時過ぎ、米極東空軍ジョンソン基地(埼玉県入間基地)の管制官とノースウェスト社のパイロット(副操縦士と共に米人)との交信後に、三原山外輪山(東京都大島)に衝突しました。同日15時50分に米極東空軍・横田基地(東京都多摩、現在の米第5空軍司令部)からの通信を受けた米第5空軍・小牧基地(愛知県、当時の米第5空軍司令部)が航空庁に誤報を伝え、機体の発見と乗客乗員全員救助を発表させました翌日8時半、機体の発見と乗客乗員37名全員の死亡が確認されました。
 事故当時米軍機10機が上空を訓練飛行し、離陸前に羽田空港コントローラー(米側管制官)から、上空の米軍機の存在により館山(千葉県)通過後10分間、高度2000フィートでの飛行を命じられました。通常は6000フィートでの飛行です。三原山は高さ2500フィートで、館山からは10分以内の距離に在ります。悪天候下で三原山の南の差木地(東京都大島)のラジオビーコンの電波帯を頼りに飛行していましたが、米軍機がもくせい号を仮想敵機として攻撃し、右補助翼タブが損傷してフラッタリングを起こし、右側に航路が逸れて三原山に衝突しました。客室乗務員に異常は伝えられず、乗客はシートベルトもせずに水平飛行したまま衝突しました。この米軍機の演習では、もくせい号の飛行ルートを朝鮮北軍の飛行ルートを想定しています(米軍演習のシュミレーションは早朝、北側による攻勢が始まり北側が38度線を越えた制空権を維持している局面に国連軍(米軍)が南から反撃に転じた状況です)。
 米側の情報の偽装により、事故原因と米軍のスキャンダルが隠蔽されました。ジョンソン基地のコントローラーと、もくせい号のスチュワード機長、クレベンジャー副操縦士との交信記録テープが米軍から提供されませんでした。GHQ司令部が第一生命ビル、ノースウェスト東京支社が近くの明治生命ビルにあり、交信の「東京モニター」が明治屋(明治生命、明治生命ビルとは別)にありました。「東京モニター」は、ノースウェスト社が米軍に懐疑的であったり、GHQ内での内部抗争からマッカーサー解任の後のリッジウェイが総司令官就任(1951年4月~1952年4月)となった事が背景にあって存在しましたが、国会の事故調査委員会には先のテープ同様に生かされませんでした。CAA(米国民間航空局)ハワイ駐在員ウェーン・ブッシュが事故4日後に三原山に現地「調査」に入り、その翌日の記事で「視察」したと表記を変え、其の後の記事でブッシュと言う名前は消されました。結局米国は事故調査に協力しませんでした。ICAO(国際民間航空機関)の発行した1953年の航空機事故資料には、もくせい号の事故は記載されていませんでした
 乗客の中に唯一の女性客(烏丸小路万里子)が含まれ、米軍のリード大尉が中心となって日本銀行や交易営団から盗んだダイヤの横流しを手伝っていました。烏丸小路万里子は戦後、英仏語が出来る事から山梨県の米軍駐屯施設で働き、そこでパトロンと繋がりました。目を発表の静岡県浜名湖西南に向けさせておいて機体が発見される前に、米軍が烏丸小路の持参していたダイヤの押収と事故原因に繋がる機体の破片(右補助翼タブ)を回収しました。烏丸小路は三沢基地(青森県)や板付基地(福岡県)に、横領ダイヤを売り捌きに度々訪れていました。後に横領した者の内の一人のマレー大佐が横領罪で起訴され、横浜の軍事裁判で懲役10年・重労働10年・軍役剥奪・年金給与停止の判決が下されました。軍法会議の判事はチェイス少将を代表に7人、検察官にはバチソン大尉等2人、弁護官にも米軍人2人が選任されていました。烏丸小路の写真は公表されませんでしたが、本書には掲載されています。又、日航広報部も烏丸小路に関する資料を公表しませんでした。
 かつて航空機大国だった日本1945年(昭和20年)に太平洋戦争に敗北すると、GHQによって航空機の研究・設計・製造を全面禁止されました。GHQによって航空機産業を始め重工業全体を弱体化させ、日本が農業小国となって米国に経済依存し続ける様に図られました。しかし1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の勃発により(1953年休戦)、日本の旧航空機メーカーに米軍機の点検・修理の依頼が増えました。翌年の1951年(昭和26年)に民間航空会社の日本航空がGHQの意向で発足しました。社長には柳田誠二郎(元日本銀行副総裁)、専務取締役に松尾静磨(元航空庁長官)が就任しました。同年9月8日にサンフランシスコでの講和会議にて署名された、日本国と連合諸国との平和条約と旧日米安全保障条約が、翌年1952年(昭和27年)4月28日に発効されて日本は一応独立しました。それで航空機の運航や製造の禁止の一部が解禁されました。同年7月には航空法が施行されました。又、其の直前の1952年2月28日には、日米安保を基にして日米行政協定が締結されました。この協定は後の1960年(昭和35年)の新日米安全保障条約に付随する日米地位協定に継承されるものであります。その様な背景のあった米軍の占領下において、航空管制は全て米軍により行われていました。『日航機「撃墜」』はその様な中で行われました。
 作者の松本清張氏は、1960年(昭和35年)「日本の黒い霧」(文芸春秋)で最初にこの事件について発表し、其の後1972年(昭和47年)「風の息」(赤旗、及び単行本(朝日新聞社))にて改版して発表、更に2回目の改版として1992年(平成4年)4月本書(単行本)を出版しました。その直後の同年8月4日に82歳で亡くなられました。2回の改版の理由として、1971年(昭和46年)7月30日全日空機雫石衝突事故(岩手県岩手郡雫石町、航空自衛隊機との衝突により乗客乗員162名全員死亡)、1983年(昭和58年)9月1日大韓航空機撃墜事件(ソ連領空侵犯に米ソ両国からの警告無く米国スパイの疑い、269人全員死亡)、1985年(昭和60年)8月12日日本航空123便墜落事故(円高バブル形成の為のプラザ合意9月22日G5により発表される直前、群馬県高天原山(=タガマ・ハラン、御巣鷹山)にて524名の内520名死亡)があった事により、旧版の誤りに気付いた事によります。
 一説によると、松本清張氏は山窩(サンカ)の出であるらしいです。生まれが福岡県企救郡板櫃村(現・北九州市小倉北区)と一般的にはされていますが、実際は広島県広島市であるらしいです。祖父の田中雄三郎氏は鳥取県南西部の内陸部にある日南町で生活し、父の峯太郎はそこで生まれた後に鳥取県米子市の松本家の養子となりました。青年期に広島へ移住しそこで清張氏が生まれました。其の後直ぐに下関に引越し、子供の頃に小倉に引っ越しました。多民族の古代日本において、原住民族や渡来系民族で大和政権の中央の権力に従う事を嫌った人々が山へ逃げて、その存在自体を隠す様にして暮らして来ました。1952年(昭和27年)に住民登録法が施行されるまで、その一部は戸籍を持ちませんでした。清張先生の権力に反抗する強大な力は、サンカの血が流れているからかもしれません
 参考文献として、「KE007応答せよ!大韓機事件の真実」があります。1994年にフリーライターの著者が自費出版された書籍をWeb版に再編したものです。
 http://www.isao-pw-okinawa.ecweb.jp/ke007/
 このホームページの中に、「もくせい号事件の考察」が在ります。著者は松本清張氏に1985年頃「KE007応答せよ!」の資料を研究されることを希望して資料を送った経緯を持っています。沖縄では、米軍機と民間機とのニアミスが頻繁に起きています。
 
一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)一九五二年日航機「撃墜」事件 (角川文庫)価格:¥ 580(税込)発売日:1994-12-02




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