My Testimony/僕の証<9-6/6>:番外編~“Naked King” 、僕を「裸の王様」として捉える「世間の病気」を流行らす「空気感染」、& 腹話術、Tele-Transmission……
※ 当「My Testimony/僕の証」シリーズの内、本記事「<9>:番外編」に於いては、他の文献から多く記事を引用しておりますが、当方はこの記事をはじめ、その他、本ブログ全記事に於いて、一切、収入を得ておりません。
※ また本シリーズのその他の記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事でありますが、本記事「<9>:番外編」のみに於いては本年を2019年(平成31年)としている事について、御容赦願います。
My Testimony & Witness
僕の証
番外編
~“Naked King”
僕を「裸の王様」として捉える「世間の病気」を流行らす「空気感染」
機械に頼らないTele-Transmission、腹話術……
(「My Testimony/僕の証<9-5/6>」からの続き)……
もう、キリがないので、今回の「My Testimony/僕の証」は、これぐらいで止めておく。今後、その都度、また折に触れて、僕自身に関わる、或いは関する事を記事にしたいと思う。
しかし、この結果的に「証」(testimony、witness)をした事によって、僕の内面が大分整理出来た様に思う。そして、それによって、また以前の様に「敏感で太い鈍感力」が復活して来た様にも感じる。国際時事情勢を日々追いながらも、その途中、時々、毎日に自分の内面を見る事を怠らず、決して時事情報群に流されてしまわないように、それらの多くの情報を処理しきれずに「パニック」に陥らない様に、足元をしっかりと固め、心に「信仰」の礎を据えて、バランス、安定を取りながらの泰然自若、確乎不動の自分を再び完全な方向へと、神様の御心のままに導かれたい。そして、この「証」の上でも大事な事であった、主からの「恵み」に対する感謝と歓び、その「不思議」な「奇しい」主の業(わざ)への賛美を忘れずに。
今後、僕は引き続き、日々、研究、調査、検証、データ・マイニング(data mining)等をしながら、ブロガー(blogger)、キュレーター(curator)、及びアンカー(anchor、アンカーマン)として行っていく。キュレーターもアンカーも、共に「最終的にまとめる人」である。
念の為に言っておくが、例え僕自身に、及び僕の身辺に、「不思議」な「奇しい」事が起ころうとも、それらは僕が行っている事では無く、僕は唯の、単なる「人間」でしかなく、僕自身には大した能力が無い事を、ここに添えておく。同じく、唯の「人間」でしかないマリア“さん”が「処女」にしてイエス“様”をお産みになられた事を、御参考にされたい。マリア“さん”はその後、夫であるヨセフとの性の交わりによって、イエス“様”の弟妹をお産みになられたのであるから、決して預言者でも無く、特別に神聖な女性でも無く、カトリックという「宗教組織」が恣意的に形容詞として付けている聖人でも無い事が解るであろう。但し、唯一の神様に「選ばれた」事は真実であり、その事を「運命」として抵抗せずに素直に受け入れられた通り神様への「信仰心」を持っておられた事も事実であり、その様に聖霊存する心をお持ちになられ、一般の人々と比較してもより聖い心を持っておられた事も確かである。マリア“さん”の身に起こった「不思議」な「奇しい」事は、マリア“さん”の身を通されて、創造主の全能の力が示されたのである。
僕は唯の人間でしかないものの、自分のプライバシーが明かされる等の現実が有るが故に、ストーカー的被害に遭ったり、その他、様々な迫害に繋がっている。その根本の出来事が存在する限り、今後、一切、その様な状況は変わる事が無い。また、僕の生活パターンも変わらないし、僕自身も敢えて変えようとは思わない。その他、僕の身に、或いは僕の身辺に起こる「不思議」な「奇しい」事が存在するが故に、僕はどうしても世間の中に在っては目立ってしまうし、出る杭の様な存在に見られてしまうし、世間とのズレが生じ、世間から浮いてしまう。その様な事から、昨今に至っては、子供達や未成年、若者達、自分よりも年下の者達からの揶揄・嘲弄や嘲笑、侮蔑、挑発等を受ける事が時々有る。ある程度年配の落ち着いた大人であれば、理性や良心で感情をコントロール出来たり、精神・心の成熟レベルの高さから、煽り、挑発に相当する様な事は行わないものと思う。
その様な僕の境遇は、デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが1837年に発表した童話、「裸の王様」とそっくりである。
以下、ウィキペディア:「裸の王様」より、あらすじ(原典:岩波文庫の大畑末吉訳「皇帝の新しい着物」)
『ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいた。ある日、城下町に二人組の男が、仕立て屋という触れ込みでやってきた。彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない、不思議な布地をつくることができるという。噂を聞いた皇帝は2人をお城に召し出して、大喜びで大金を払い、彼らに新しい衣装を注文した。
彼らはお城の一室に織り機を設置し、さっそく仕事にかかる。皇帝が大臣を視察にやると、仕立て屋たちが忙しく織っている「ばか者には見えない布地」とやらは大臣の目にはまったく見えず、彼らは手になにも持っていないように見える。大臣はたいへん困るが、皇帝には自分には布地が見えなかったと言えず、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告することにした。
その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と報告する。最後に皇帝がじきじき仕事場に行くと「ばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えない。皇帝はうろたえるが、家来たちには見えた布が自分に見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒める。
そして、皇帝の新しい衣装が完成すると。皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進する。集まった国民も「ばか者」と思われるのをはばかり、歓呼して衣装を誉めそやす。
その中で、沿道にいた一人の小さな子供が、「だけど、なんにも着てないよ!」と叫び、群衆はざわめいた。「なんにも着ていらっしゃらないのか?」と、ざわめきは広がり、ついに皆が「なんにも着ていらっしゃらない!」と叫びだすなか、皇帝のパレードは続くのだった。』
(以上、ウィキペディア:「裸の王様」より)
この童話に於いてまず言える事は、子供は社会的・世俗的な様々なものに未だ縛られていないので、比較的自由な言動を行えるという事である。そして、子供の知識や経験が浅い分、精神面に於いて遮るもの、曇らせるものが無く、リスクを知らず、躊躇する事に繋がるものが無い事である。また、子供は未だ教養を積まず、悩み熟考する事も余り無いので、理性や判断、心の思いのレベルが低く、一次的、及び一時的な感情に素直に表現する事である。
他方では、特に日本人の気質・体質として特徴的なものとして挙げられるのが「空気」に支配されやすい事であるが、一人が言うとそれに「感染」するが如くにして、みんなが口をそろえて同じ事を言い出す事である。僕の周囲でも、一人が笑うと、それを見聞きした世間の中で「一次的なブーム」が形成されて、同じ様に皆笑う状態が生まれる事を、今までに僕は経験として身に受けて来た。僕は、この「世間の病気」に対して「空気感染」と呼んでいる(一般的に「空気感染」というのは風邪やインフルエンザに於いて用いられている)。
日本人は他国の人々よりも比較的良心のレベルが高い事は、確かである。震災の炊き出し時にも、列を乱さず我慢強く順番を待ったりする等、自分の欲望によって公の秩序を乱そうとはせず、財布等の落とし物も交番に届ける等の例は、外国では考えられない程の事である。日本人は「無宗教」で「無神論者」が多いが、不文律としての規範を、元々、心の中に持っているのかもしれない。その一つの理由が、古代ユダヤ人の末裔の存在であろう。神社をはじめとした日本の伝統・文化・歴史は、その古代ユダヤ人の末裔に依る所が大きい。
しかし、自分の生き方、人生の羅針盤やバックボーン、礎となるべく、はっきりとした成文律の規範を持った方々は、日本人には少ない。また、葬式等で仏教のお経を聴いた所で、意味が全く解っていない事であろう。ただの形式主義である。その点に於いては、逆に、海外の世界中の殆どの方々が、聖書やクルアーン(コーラン)といった書物を規範とし、自分の生き方の基準としている良さが在る。そして、聖書やクルアーンは、誰が呼んでも理解出来る様に、易しく優しい言葉で書かれている。しかし、日本にも戦前には、「修身」という道徳の教科書が存在したものだが……。
そういった成文律の規範が無い事から、日本の世間の、特に「空気感染」してしまうレベルの人達は、自分が発言する言葉や「笑い」という判断の「裏付け」となるものが存在しないのである。発言する言葉や「笑い」という判断に「根拠」が無いから、弁明出来ず理由を述べる事が出来ない無責任な態度となっているのである。また、その判断に繋がる価値観にも裏付け・根拠が存在していない事が言える。人の価値観の根拠となるのは、成文律の規範である。
その様に、一人の触発によって、周囲の者達が煽られて「空気感染」してしまい、「一時のブーム」が生まれる。この「一時のブーム」とは、「世間の病気」である。マスコミがちょっと洗脳や煽動を策動すると、直ぐ、それに乗じて流されてしまい、世論調査にも容易く影響している。
一方で、元々胸の中で思っていた事を吐き出す「トリガー」の意味も含む。「タブー」というものが世の中には存在する。「平和ボケ」している様な、眠っている様な、世間の中の人達は、その様な「タブー」に相当する知識すら持っていないが、僕の様に「タブー」を知っている方々も存在される。よって、こちらは良い意味で、一人の発言によって、それに触発され、且つ、SNS等を通して生じたブームに乗じて、「タブー」が暴露されて明かされていき、世の中が変わっていく可能性が有る。
以上、これらの事を、童話「裸の王様」を通して、また、僕自身を通して、見る事が出来る。
丁度、今から1年前、僕は本ブログに於いてアメリカが「失敗」だらけの「裸の王様」である事を書いた記事を投稿したが、僕自身、「丸裸」にされて、自宅では恰も「モンスター」、或いは「ゴジラ」の如く「王様」の様になってブロガー、キュレーターとなっている姿と重なる。また同様に、アメリカは「厚顔無恥」であると批判した記事も同じ日に投稿したが(それらの記事は次に掲げる)、「世間の価値観」からすれば僕も「厚顔無恥」として目に映っている事であろう。実際、それによって、「笑い」が生じている。しかし心配無用。僕は人の判断を全く当てにしていない。「世間の価値観」には「根拠」が無い。よって、それから生じる判断は、いいかげんで無責任なものと言える。僕は「自信」であって「他信」では無いので、自分を信じ世間・他人を疑い、それどころか、世間・他人を否定すらしている程なのである。そして、僕の「自信」の根拠として、「聖書」が存在しているのである。果たして、世間と僕と、どちらが増し(まし)であろうか?(※ 「まし」とはサルの古名「猿(まし)」ではない事に注意)。
参考文献
・ウィキペディア:「裸の王様」
関連・本ブログ記事
・2018/01/09付:「小民の私の指摘『米国は裸の王様』US :“naked King”、great country by debt、failed again、naked Dollar、stripped by expose」
・2018/01/09付:「アメリカは『厚顔無恥』である(America is“shameless”)・・・利己的・独善的主張、正体『バレバレ』(egoistic、self-righteous、“expose!expose!”)」
僕が「持たされている」、元い、「恵みとして与えられている」、世間、周囲からは鬱陶しく思われている「カメラ」の為に、僕は、「見とぉ!」とか「見るな!」とか言われながら指を指される事が多かった。それ故、僕は街中を歩く時、犬のウンコを踏まない様にする為だけでは無く、すれ違う歩行者の顔を見ない様にする為にも、且つ、挑発に乗らない様にする為にも、下を向いたり横を向いているのであって、「自信」が無い訳ではないのである。
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
「 My Testimony/僕の証<9> 」<1/6> ~ <6/6> ↓
【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】
本ブログ過去の関連記事
・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド
※ また本シリーズのその他の記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事でありますが、本記事「<9>:番外編」のみに於いては本年を2019年(平成31年)としている事について、御容赦願います。
My Testimony & Witness
僕の証
番外編
~“Naked King”
僕を「裸の王様」として捉える「世間の病気」を流行らす「空気感染」
機械に頼らないTele-Transmission、腹話術……
(「My Testimony/僕の証<9-5/6>」からの続き)……
もう、キリがないので、今回の「My Testimony/僕の証」は、これぐらいで止めておく。今後、その都度、また折に触れて、僕自身に関わる、或いは関する事を記事にしたいと思う。
しかし、この結果的に「証」(testimony、witness)をした事によって、僕の内面が大分整理出来た様に思う。そして、それによって、また以前の様に「敏感で太い鈍感力」が復活して来た様にも感じる。国際時事情勢を日々追いながらも、その途中、時々、毎日に自分の内面を見る事を怠らず、決して時事情報群に流されてしまわないように、それらの多くの情報を処理しきれずに「パニック」に陥らない様に、足元をしっかりと固め、心に「信仰」の礎を据えて、バランス、安定を取りながらの泰然自若、確乎不動の自分を再び完全な方向へと、神様の御心のままに導かれたい。そして、この「証」の上でも大事な事であった、主からの「恵み」に対する感謝と歓び、その「不思議」な「奇しい」主の業(わざ)への賛美を忘れずに。
今後、僕は引き続き、日々、研究、調査、検証、データ・マイニング(data mining)等をしながら、ブロガー(blogger)、キュレーター(curator)、及びアンカー(anchor、アンカーマン)として行っていく。キュレーターもアンカーも、共に「最終的にまとめる人」である。
新約聖書・マルコの福音書9章35節 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 The New Testament・The Gospel of Mark 9:35 He sat down, and called the twelve; and he said to them, “If any man wants to be first, he shall be last of all, and servant of all.” |
旧約聖書・イザヤ書52章12節 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。 逃げるようにして去らなくてもよい。 主があなたがたの前に進み、 イスラエルの神が、 あなたがたのしんがりとなられるからだ。 The Old Testament・The Book of Isaiah 52:12 For you shall not go out in haste, neither shall you go by flight: for Yahweh will go before you; and the God of Israel will be your rear guard. |
YouTube: Junko「主の真実はくしきかな」 | YouTube: Panimetta「詩篇27篇」 |
念の為に言っておくが、例え僕自身に、及び僕の身辺に、「不思議」な「奇しい」事が起ころうとも、それらは僕が行っている事では無く、僕は唯の、単なる「人間」でしかなく、僕自身には大した能力が無い事を、ここに添えておく。同じく、唯の「人間」でしかないマリア“さん”が「処女」にしてイエス“様”をお産みになられた事を、御参考にされたい。マリア“さん”はその後、夫であるヨセフとの性の交わりによって、イエス“様”の弟妹をお産みになられたのであるから、決して預言者でも無く、特別に神聖な女性でも無く、カトリックという「宗教組織」が恣意的に形容詞として付けている聖人でも無い事が解るであろう。但し、唯一の神様に「選ばれた」事は真実であり、その事を「運命」として抵抗せずに素直に受け入れられた通り神様への「信仰心」を持っておられた事も事実であり、その様に聖霊存する心をお持ちになられ、一般の人々と比較してもより聖い心を持っておられた事も確かである。マリア“さん”の身に起こった「不思議」な「奇しい」事は、マリア“さん”の身を通されて、創造主の全能の力が示されたのである。
新約聖書・ヤコブの手紙1章19節 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。 The New Testament・The Epistle of James 1:19 So, then, my beloved brothers, let every man be swift to hear, slow to speak, and slow to anger; |
僕は唯の人間でしかないものの、自分のプライバシーが明かされる等の現実が有るが故に、ストーカー的被害に遭ったり、その他、様々な迫害に繋がっている。その根本の出来事が存在する限り、今後、一切、その様な状況は変わる事が無い。また、僕の生活パターンも変わらないし、僕自身も敢えて変えようとは思わない。その他、僕の身に、或いは僕の身辺に起こる「不思議」な「奇しい」事が存在するが故に、僕はどうしても世間の中に在っては目立ってしまうし、出る杭の様な存在に見られてしまうし、世間とのズレが生じ、世間から浮いてしまう。その様な事から、昨今に至っては、子供達や未成年、若者達、自分よりも年下の者達からの揶揄・嘲弄や嘲笑、侮蔑、挑発等を受ける事が時々有る。ある程度年配の落ち着いた大人であれば、理性や良心で感情をコントロール出来たり、精神・心の成熟レベルの高さから、煽り、挑発に相当する様な事は行わないものと思う。
旧約聖書・ヨブ記30章1節 しかし今は、私よりも若い者たちが、 私をあざ笑う。 彼らの父は、私が軽く見て、 私の群れの番犬とともにいさせたものだ。 The Old Testament・The Book of Job 30:1 “But now those who are younger than I have me in derision, whose fathers I considered unworthy to put with my sheep dogs. |
その様な僕の境遇は、デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが1837年に発表した童話、「裸の王様」とそっくりである。
以下、ウィキペディア:「裸の王様」より、あらすじ(原典:岩波文庫の大畑末吉訳「皇帝の新しい着物」)
『ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいた。ある日、城下町に二人組の男が、仕立て屋という触れ込みでやってきた。彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない、不思議な布地をつくることができるという。噂を聞いた皇帝は2人をお城に召し出して、大喜びで大金を払い、彼らに新しい衣装を注文した。
彼らはお城の一室に織り機を設置し、さっそく仕事にかかる。皇帝が大臣を視察にやると、仕立て屋たちが忙しく織っている「ばか者には見えない布地」とやらは大臣の目にはまったく見えず、彼らは手になにも持っていないように見える。大臣はたいへん困るが、皇帝には自分には布地が見えなかったと言えず、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告することにした。
その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と報告する。最後に皇帝がじきじき仕事場に行くと「ばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えない。皇帝はうろたえるが、家来たちには見えた布が自分に見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒める。
そして、皇帝の新しい衣装が完成すると。皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進する。集まった国民も「ばか者」と思われるのをはばかり、歓呼して衣装を誉めそやす。
その中で、沿道にいた一人の小さな子供が、「だけど、なんにも着てないよ!」と叫び、群衆はざわめいた。「なんにも着ていらっしゃらないのか?」と、ざわめきは広がり、ついに皆が「なんにも着ていらっしゃらない!」と叫びだすなか、皇帝のパレードは続くのだった。』
(以上、ウィキペディア:「裸の王様」より)
この童話に於いてまず言える事は、子供は社会的・世俗的な様々なものに未だ縛られていないので、比較的自由な言動を行えるという事である。そして、子供の知識や経験が浅い分、精神面に於いて遮るもの、曇らせるものが無く、リスクを知らず、躊躇する事に繋がるものが無い事である。また、子供は未だ教養を積まず、悩み熟考する事も余り無いので、理性や判断、心の思いのレベルが低く、一次的、及び一時的な感情に素直に表現する事である。
他方では、特に日本人の気質・体質として特徴的なものとして挙げられるのが「空気」に支配されやすい事であるが、一人が言うとそれに「感染」するが如くにして、みんなが口をそろえて同じ事を言い出す事である。僕の周囲でも、一人が笑うと、それを見聞きした世間の中で「一次的なブーム」が形成されて、同じ様に皆笑う状態が生まれる事を、今までに僕は経験として身に受けて来た。僕は、この「世間の病気」に対して「空気感染」と呼んでいる(一般的に「空気感染」というのは風邪やインフルエンザに於いて用いられている)。
日本人は他国の人々よりも比較的良心のレベルが高い事は、確かである。震災の炊き出し時にも、列を乱さず我慢強く順番を待ったりする等、自分の欲望によって公の秩序を乱そうとはせず、財布等の落とし物も交番に届ける等の例は、外国では考えられない程の事である。日本人は「無宗教」で「無神論者」が多いが、不文律としての規範を、元々、心の中に持っているのかもしれない。その一つの理由が、古代ユダヤ人の末裔の存在であろう。神社をはじめとした日本の伝統・文化・歴史は、その古代ユダヤ人の末裔に依る所が大きい。
しかし、自分の生き方、人生の羅針盤やバックボーン、礎となるべく、はっきりとした成文律の規範を持った方々は、日本人には少ない。また、葬式等で仏教のお経を聴いた所で、意味が全く解っていない事であろう。ただの形式主義である。その点に於いては、逆に、海外の世界中の殆どの方々が、聖書やクルアーン(コーラン)といった書物を規範とし、自分の生き方の基準としている良さが在る。そして、聖書やクルアーンは、誰が呼んでも理解出来る様に、易しく優しい言葉で書かれている。しかし、日本にも戦前には、「修身」という道徳の教科書が存在したものだが……。
そういった成文律の規範が無い事から、日本の世間の、特に「空気感染」してしまうレベルの人達は、自分が発言する言葉や「笑い」という判断の「裏付け」となるものが存在しないのである。発言する言葉や「笑い」という判断に「根拠」が無いから、弁明出来ず理由を述べる事が出来ない無責任な態度となっているのである。また、その判断に繋がる価値観にも裏付け・根拠が存在していない事が言える。人の価値観の根拠となるのは、成文律の規範である。
その様に、一人の触発によって、周囲の者達が煽られて「空気感染」してしまい、「一時のブーム」が生まれる。この「一時のブーム」とは、「世間の病気」である。マスコミがちょっと洗脳や煽動を策動すると、直ぐ、それに乗じて流されてしまい、世論調査にも容易く影響している。
一方で、元々胸の中で思っていた事を吐き出す「トリガー」の意味も含む。「タブー」というものが世の中には存在する。「平和ボケ」している様な、眠っている様な、世間の中の人達は、その様な「タブー」に相当する知識すら持っていないが、僕の様に「タブー」を知っている方々も存在される。よって、こちらは良い意味で、一人の発言によって、それに触発され、且つ、SNS等を通して生じたブームに乗じて、「タブー」が暴露されて明かされていき、世の中が変わっていく可能性が有る。
以上、これらの事を、童話「裸の王様」を通して、また、僕自身を通して、見る事が出来る。
丁度、今から1年前、僕は本ブログに於いてアメリカが「失敗」だらけの「裸の王様」である事を書いた記事を投稿したが、僕自身、「丸裸」にされて、自宅では恰も「モンスター」、或いは「ゴジラ」の如く「王様」の様になってブロガー、キュレーターとなっている姿と重なる。また同様に、アメリカは「厚顔無恥」であると批判した記事も同じ日に投稿したが(それらの記事は次に掲げる)、「世間の価値観」からすれば僕も「厚顔無恥」として目に映っている事であろう。実際、それによって、「笑い」が生じている。しかし心配無用。僕は人の判断を全く当てにしていない。「世間の価値観」には「根拠」が無い。よって、それから生じる判断は、いいかげんで無責任なものと言える。僕は「自信」であって「他信」では無いので、自分を信じ世間・他人を疑い、それどころか、世間・他人を否定すらしている程なのである。そして、僕の「自信」の根拠として、「聖書」が存在しているのである。果たして、世間と僕と、どちらが増し(まし)であろうか?(※ 「まし」とはサルの古名「猿(まし)」ではない事に注意)。
参考文献
・ウィキペディア:「裸の王様」
関連・本ブログ記事
・2018/01/09付:「小民の私の指摘『米国は裸の王様』US :“naked King”、great country by debt、failed again、naked Dollar、stripped by expose」
・2018/01/09付:「アメリカは『厚顔無恥』である(America is“shameless”)・・・利己的・独善的主張、正体『バレバレ』(egoistic、self-righteous、“expose!expose!”)」
YouTube: TAKEO「生きる with Jesus」 | YouTube: キャサリン・ポーター「いつくしみ深き」 |
旧約聖書・イザヤ書30章10節 彼らは予見者に「見るな。」と言い、 先見者にはこう言う。 「私たちに正しいことを預言するな。 私たちの気に入ることを語り、 偽りの預言をせよ。 The Old Testament・The Book of Isaiah 30:10 who tell the seers, “Don’t see!” and the prophets, “Don’t prophesy to us right things. Tell us pleasant things. Prophesy deceits. |
旧約聖書・歴代誌 第二36章16節 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。 The Old Testament・The Second Books of Chronicles 36:16 but they mocked the messengers of God, and despised his words, and scoffed at his prophets, until Yahweh’s wrath arose against his people, until there was no remedy. |
僕が「持たされている」、元い、「恵みとして与えられている」、世間、周囲からは鬱陶しく思われている「カメラ」の為に、僕は、「見とぉ!」とか「見るな!」とか言われながら指を指される事が多かった。それ故、僕は街中を歩く時、犬のウンコを踏まない様にする為だけでは無く、すれ違う歩行者の顔を見ない様にする為にも、且つ、挑発に乗らない様にする為にも、下を向いたり横を向いているのであって、「自信」が無い訳ではないのである。
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
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