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狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

秩序や平等を名目とする支配・コントロール・管理

2013-11-09 18:47:47 | エッセイ・コラム
 一般社会の中でも、特に会社や組織では、その中での「秩序」を守る為として、厳しい「規則」を設けて、「自由」「少数派」の意見を排除しています。
 かつてのソ連の場合には、「平等」を謳う共産主義の下、一般市民は低いレベルにおいての「平準化」が行われていました。そしてその「平等」の中で、「自由」は有りませんでした
 秩序平等は、支配階級が一般市民を支配しやすくする為、操作しやすくする為、管理しやすくする為に行なっているもので、規則「規範」もその為のツールとして作られているものです。
 絶対的真実である創造主が規則や規範を造るのであれば良いのですが、人間の作る規則・規範には間違いが含まれ、且つ支配・コントロールする者の企みが含まれています。
 神が支配するのであれば正しいし、従っても良い。しかし、人間が支配するのは飽く迄も間違いで、従ってはいけないのです。

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自分の「欲望の奴隷」とならずに、創造主の「御心」を知って、それに委ね従う事が必要・・・「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」を読んで

2013-10-26 01:50:08 | エッセイ・コラム
 総タイトル:【自分の「欲望の奴隷」とならずに、創造主の「御心」を知って、それに委ね従う事が必要・・・「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」を読んで】

 「しがみつく」とは、「執着」「拘り(こだわり)」「囚われ(とらわれ)」
 「拘り」・「囚われ」とは、「拘束」、「囚人」、「不自由」であり、それは「奴隷」状態に在ります。何かの目標を持ったり、欲望を持ったりする事は、結局は「欲望の奴隷」となってしまいます。
 「しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 」(著者:香山リカ氏、出版日:2009/7/30、出版社:幻冬舎)
 上記の本を読みました。
 「ふつうの幸せ」「ふつう」に設定する基準は、何処に、どのレベルに置くかは人それぞれによって異なりますが、世間一般的には、「世間」や「空気」、「多数派」、「マスコミ」の言う事と同類である事を「普通」としています。しかし、その「普通」が決して正しい訳では有りません
 世間・社会の中に在って少数派であろうとも(俗に言う「普通」では無くとも)、自分の精神・心の上で自由や解放感が有り、マイペースであると言う、自分にとっての「自然な状態」が、自分にとっての「普通」であると思います。しがみつき拘る事は心が奴隷状態に在り、それはストレスを招く「不自然」な心の状態です。心の本来の状態(この世に生まれた時の状態)である、ストレスの無い「自然な状態」が、「本当の普通」です。世間・多数派の「偽りの普通」に合わせていると、却ってストレスは溜まってしまいます
 その「普通の基準」について、世間や社会のマジョリティー(多数派)にとっては周りの「世間・社会を基準」にしています。つまりそれは、周囲の人の顔色や反応、評判を気にしている事で、笑われない様にしようとか、見栄を張ったりする事で、常に「群れ」で行動し、最も未熟で幼稚な人達です。その様な人達よりも次元(レベル)が高いのが、「自分を基準」にしている人達で、主体的に考えた上での主義・主張・イデオロギーを持ち、マイノリティー(少数派)として、孤独にマイペースに、本当の自分にとっての普通で居る人達です。
 それらの人達よりも、人間として最も次元(レベル)が高く、最も成熟した人達は、「神を基準」にしています。神は「真理」であり「真(まこと)」です。その「真理」・「真実」を基準・規範にする事は、正しい考え方・捉え方・判断の仕方・生き方に繋がり、「世間・社会の考え」や「自分の考え」に依らずに、「神に従い」、「神に委ねる」ことで「本当の自由」が得られます。世間・社会の考えに合わさなくとも、わざわざ自分で考えなくとも、神に委ね従う事で、自由に、楽になります。
 故に、「神を基準」にする事が、本来の、本当の「ふつうの幸せ」であると思います。神に決められている「運命」を素直に受け入れて大きく委ねる事によって、喜んで神を賛美する事に繋がります。
 恋愛や孤独感等において感じる寂しさは、「誰か」を待ち望んでいる様ですが、同様に人に依存せずに、「神に依存」する事が、寂しさと言う心の空白を真に埋める事が出来ます。人からの愛を求めず、神が支える「本当の自立」をする事が出来ます。この世に在って孤独であろうとも、信仰の有る心には聖霊(=父である神と、子なるイエス・キリストとの三位一体)が宿っています。「alone」とは聖霊が心に存在していて寂しくない孤独であり、反対に「lonely」とは心に空白があって寂しさを感じる孤独の事です。「魂の声」とは、「聖霊の声」です。
 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(旧約聖書・箴言29章25節)
 ところで、就職活動などでは履歴書や面接においては自己PRをしなければならない面が有ります。この社会や世間が理想郷では無く、出来ればこの社会・世間を避けて遠ざかって生きたいと私は思うのですが、現実には社会に出て仕事をして、そこで生活の為のお金を稼がなければ、この世では生きていけません。社会の構造は強固で、それに従わざるを得ない面が在ります。自分を「出来ない者」として、自分には能力が無く、自分の力では無く「主に私は身を避ける」(旧約聖書・詩編11章1節より)等と言おうものなら、就職も儘(まま)ならない面が在ります。就職を目指す者等の様に、身分や地位が低い者の場合には、ある程度の自己PR自己主張、アピール、反論は必要に思います。結局、この世で生きて行く上では、自分の心の「純粋な理想」と、社会の「偽善」の中で生きて行く姿勢・処世術との「バランス」をとる必要が有る様に思います。その上でも、「6対4」とか「7対3」等とそのバランスの取り方は人それぞれによって異なります。一方、社会的に身分・地位が高い人達は、謙譲・謙虚さの必要性はより高くなります。
 生活の為だから等と、お金が一番等とお金にしがみつくのは勿論間違いですが、この世がお金で成り立っている以上は、額に汗して仕事をしてお金を稼ぎ、その「余裕」の部分から、募金・献金等で人々に分け与えたり、事業を起こして世の人々に貢献する事が正しい事となります。
 「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(旧約聖書・申命記8章3節より(新約聖書・マタイの福音書4章4節にも同様))。「主の口から出るすべてのもの」とは、「聖書」にある主の御言葉です。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。」(新約聖書・ルカの福音書6章20~21節より)
 現在の競争社会の中、「心のゆとり」が失われ、「人間の狭量化」が進み、「瞬間主義」(一瞬の勝ち負け)、「刹那主義」が進み、「寛容」を失い(自分と違う行動をする人の心を理解出来ない)、視野が狭くなっている事が挙げられています。「現世利益」は瞬間的で一時的なものですが、「魂」は永遠でこの世の後(死後)も続きます。
 世論操作を行なっている「マスコミ」を通したマーケティングに、騙されている高齢者等が多いと有ります。マスコミは「自主規制」や企業(スポンサー)、支配階級に使われている為に、自分の意見が言えず、真実を伝えず、偽りの世間の「空気」を作っています。その様な「マスコミ」や「空気」・「世論」を疑い、それらに影響されず、煽られない様にしなければなりません。
 自己の起源や根拠を問う傾向がある様ですが、人間の生と死は神の意志によるものであり、生命は「神の領域」で神に決定権が在り、神の計画の下に人の生命は置かれています。創造主によって一人ひとりの生命は造られ、人の生命はその人のものでは無く神のものです。
 同様に自分の生まれた価値、生きる意味を問う傾向もある様ですが、人は皆、神にとっては尊い存在です。そして、創造主の御計画の下に、人それぞれに「使命」・「運命」が与えられ、「神の御心」に添った生き方が、生きる上での正しい意味となります。何の為に生まれたのかは、私自身を造られた創造主(神)の為に生まれたのであって、神の為に生きる訳です。人の為と書いて「偽り」、神の為が正しいのです。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書・イザヤ書43章4節より)
 出世等の社会的成功を得られなかったり、事業や挑戦した事に失敗したり、借金、失恋、配偶者の死や離婚、不治の病、この世全てのものに信頼出来なくなる事等により、「絶望」してしまう人が多いです。「絶望」とは、神の御計画に従わず、自分の「欲望」に従う事から起こるものです。神の望みと、自分の望みは異なります。故に、「神の御心」を知って、それに委ね従う事が必要なのです。

 
しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)価格:¥ 777(税込)発売日:2009-07


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「歯ぎしり」

2013-10-06 07:43:12 | エッセイ・コラム
 「歯ぎしり」について。聖書より。


 旧約聖書・詩篇35章15~16節(ダビデによる)
「だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。」


 同書35章19~22節
「偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。彼らは私に向かって、大きく口を開き、『あはは、あはは、この目で見たぞ。』と言います。主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ、私から遠く離れないでください。」


 同書37章12~13節
「悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。」


 同書112章7~10節
「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶けさる。悪者の願いは滅びうせる。」


 旧約聖書・ヨブ記16章9節
神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。」


 旧約聖書・哀歌2章16節(エレミヤによる)
「あなたの敵はみな、あなたに向かって大きく口を開いて、あざけり、歯ぎしりして言う。『われわれはこれを滅ぼした。ああ、これこそ、われわれの待ち望んでいた日。われわれはこれに巡り会い、じかに見た。』と。」


 新約聖書・マタイの福音書8章10~12節
イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。』」


 同書13章37~43節
イエスは答えてこう言われた。『良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」


 同書22章1~2節
イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。『天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」
 同書22章10節
「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」
 同書22章12~14節
「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。』」


 同書25章14~18節
 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し。それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」
 同書25章26~30節
「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」


 新約聖書・ルカの福音書13章22~30節
 「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのですか。』と言う人があった。イエスは、人々に言われた。『努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま、あけてください。」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない。」と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」だが、主人はこう言うでしょう。「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。」神の国アブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。』」。


 関連動画↓↓
 

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YouTube: 「携挙で残される人々」(泣いて歯ぎしりしないために)




 関連記事↓↓
   「雲の柱・火の柱 アウトロー神学者の終末世相診断」~2013年9月1日付「『携挙で残される人々』(泣いて歯ぎしりしないために)」

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目次の追加

2013-09-13 07:42:53 | エッセイ・コラム
 本日、目次を右側の列上方に追加しました。
 昨年度、2012年11月20日に開始した記事のタイトルが、年度ごと古い順で並べてあります。

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「Japanのあだ名」と「英語の義務教育」の疑問・・・「日本」に「誇り」は無いのか 

2013-09-12 23:59:29 | エッセイ・コラム
 先日2013年9月7日(現地時間)にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC(国際オリンピック委員会)総会において、2020年のオリンピック開催地が東京に決定しました。
 オリンピックを初め、様々な国際競技大会において選手は国を代表しての出場となり、その顔・看板となるユニホームは一流の有名デザイナーによってデザインされています。
 しかし、その日本人のユニホームにはいつも「Japan」と書かれています。「日本」は固有名詞であり、なぜ「Japan」と外国から呼ばれなければならないのかと疑問に思って来ました。
 それは、かつてアジア・アフリカ諸国を植民地にしていた白人欧米諸国によって呼ばれ出したものと思いますが、それはあたかも見下げられて「あだ名」で呼ばれている様に私には感じています。
 そもそも、なぜ「日本」と言う固有名詞が有りながら、「Japan」という「あだ名」、「ニックネーム」で呼ばれる事を受け入れてしまったのか問題に思います。
 自分固有・独自の名前は「誇り」であり、その「誇り」を捻じ曲げられてしまっている様に思います。
 因みにかつては中国は、オリンピック等でも漢字で「中国」と堂々と胸の辺りに書かれたユニホームを着て出られていたと思うのですが、やはり中国は長い歴史とその上での文化、文明を持って来た国であるが故に、中国の「誇り」の現われである様に思います。
 その「誇り」に反して中国はアヘン戦争以降の屈辱を経験している事もある為に、最近の経済発展と同時に軍事力の強化に繋がっているものと思います。
 また、敗戦後から日本は「英語の義務教育」を行なっています。誰がそもそも勝手に決めたのか英語が国際標準語とされている様ですが、なぜ選択教科にせずに「義務」教育にしてしまったのか疑問に思います。外国の言葉等は自由に選ばせるべきであると思います。
 「Japan」のあだ名と「英語の義務教育」のいずれにしても、外国からの「押し付け」でであり、それを素直に受け入れるところに日本人としての「誇り」を失ってしまっているのではないかと思います。
 戦後は経済発展を重視するあまりに政治や社会問題に無関心となり、お金が全て思考が無くなり、疑問を抱く事も無くなってしまい、「誇り」を失っている事に気付かない、或いは「誇り」に無関心になってしまっている様に思います。
 確かに日本が戦後に経済発展を遂げる事が出来た要因の一つに、外国の仕様に合わせて来た事にもあるとは思います。例えば輸出用の車を左ハンドルで製作してきた事等はその内のものであると思います。
 また特にアメリカでのビジネスで成功しようと思うなら、アメリカを支配するユダヤ人とは仲良くしなければなりません。その為に、そのユダヤ人には媚びへつらって素直にせざるを得ない事もあるとは思います。
 そういう意味では、英語も特にビジネスにおいてを考慮してのものとは思います。
 しかし、例え英語でも「Nippon」が正しいのです。「日本」という名は国旗や国歌と同様に日本の「誇り」なのです。
 敗戦後の日本人に失われてしまった日本人としての「誇り」を取り戻さなければならない様に思います

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「全国の放射線量データ」への変更

2013-08-31 01:30:16 | エッセイ・コラム
 本ブログの右側に在った「放射線量計」を、「全国の放射線量データ」へと変更しました。
 今までの前者は、福島県の放射線量が低く表示されていました。
 此度変更して置き換えた後者の方は、2011年3月中旬から文部科学省が発表してきたデータと、2013年4月1日以降の原子力規制委員会が発表している全国の空間線量データが表示されます。
 今までの変更前ブログパーツよりも、特に福島県においての測定データが高く表示されます。

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「自己実現」と「神実現」の違いについての私の独り言・・・過去を振り返り、「悔い改め」と確認をする

2013-08-30 09:22:01 | エッセイ・コラム
 私は、今まで「自己実現」を賛美して、「神実現」を侮って来た事が大きな罪でした
 世間的に評価されたり認められたりする様な事、学歴・肩書き・資格・職歴・勤務先会社のネームバリュー・高給・財産等、それら全てが私に当てはまらないにしても、それらを得る事で自分に誇りを持ったり自慢して高慢になっていた事が罪であるという事が、やっとこの年になって本当の意味で解って来た様に思います。
 つまり、自己実現する事で自分には能力・才能が有ると勘違いをして自分を賛美し、創造主・全能の神を賛美するどころか侮辱していたのです。
 神の導きによって私が動かされ、神のお力添えが無ければ、私は何も出来ず、何でも出来ません
 又、例え私にとって不本意な状態に置かれても、神を賛美し神に祈る事が必要です。
 神の導きには其々に意味が有り、却って周りから見て不幸な状態に置かれた場合の方が、神の業が現れ易いのではないかと思います。
 自分の意志・考えでは無く、神の命令・意志に従って行動し、神の御心に適った行動が出来ますようにと日々祈る事が必要です。
 考え方や生き方等の全ての「根拠」「聖書」にし、日々「悔い改め」を行う為に神に祈り神を賛美します。
  「悔い改め」て「許し」を得て、再び神の御名を汚したり神の御心に背かない様に努めます。
 自分自身への確認を込め、自分に言い聞かせています。

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終戦記念日、痛み(悼み)に触れる・・・今後の第三次世界大戦にも思いを馳せる

2013-08-15 23:57:54 | エッセイ・コラム
 世間的に、特に大企業等の場合には、この盆を中心にして1週間ほどの大型連休となっています。遠く離れた故郷に帰省して、父母や祖父母等の親族との年間に数少ない大切な交流の時を持ち、また墓参等をしています。
 一方で、海外旅行や国内でのレジャーで日頃の仕事の疲れを癒したり発散をし、仕事等の忙しさから余り期会の取れない家族の親交を深める時を過ごしたりしています。
 しかし、この連休中の本日は、終戦記念日でもあります。
 新聞を読んでいましても、終戦記念日に近付くにつれて、戦争に関する特集記事、戦争経験者の体験談や戦争に関連する資料、出来事、遺産、歴史、また戦後68年の経過によって新たに発見・理解・暴露された事実・真実等の記事が多く載せられています。普段から新聞を読む事が習慣となっている人達の場合はそれらの記事を読む事によって、例え戦争の経験が無くとも、その経験者の痛み(悼み)に触れて、少しでも知り理解に繋がるのではないかと思います。
 しかし一方、新聞を読まずにインターネットからの情報だけに頼っていると、自分の気に入る偏った情報にしか触れない為に、特に「平和ボケ」した若者等は、戦争への関心を持ちづらくなってしまう傾向がある様に思います。新聞は深くは追求していなくとも、比較的幅広く多方面の、広範囲の、偏り無い様々な情報を載せてあります
 世間一般の中の会話においても、過去の戦争の事が話題になる事は殆ど無く、また今後に起こる可能性が高い第三次世界大戦についても話題になる事は有りません。
 たまの息抜き程度にレジャーを楽しむのは良いとは思いますが、度が過ぎてそれにはまってしまって没頭してしまうと「平和ボケ」の度合いがより深刻化する事になります。また、たまの息抜きと言っても、普段平日仕事等の効率化に追われる忙しさの中にあって、どれだけ社会問題政治等に関心を持って考えているかも疑問に思います。そうなると、仕事レジャーで年間全てが埋まってしまって、それら諸問題に関心を持つ時・期会が全く無くなってしまい、思考を働かせる事もなくなってしまうのではないかと思います。
 日々の生活においても、朝起きてから顔を洗い、新聞を読み、弁当を作り、食事をし、トイレに行き、歯を磨き、ひげを剃り、化粧をし、身支度をして出勤し、勤務後に帰宅して入浴し、夕飯を作り、食事をし、睡眠を取ると言うパターン化した生活を送っているに過ぎません。その様なパターン化した生活について疑問も抱かず、勤務後には疲れもあってテレビで時を過ごし、仕事の事について以外には考える事が余り無いのではないかと思います。
 また常に、人と群れたり、人込みの中に身を置いたり、携帯電話でのメールや通話で繋がろうとしています。その様な中でも考える事が無いのではないかと思います。
 本日は終戦記念日。人込みから離れて独り静かに黙想し、戦争について考えてみてはどうかと思います。そして、先人の、戦争で犠牲になられた方々の痛み(悼み)を感じ想う必要がある様に思います
 世界では毎日、戦争・紛争が起こっています。日本が68年間戦争に巻き込まれ無かった事は、極めて奇跡的な事です。世界の現実は、戦争が起きて当たり前の状態です。
 聖書においても、今後の世界最終戦争である第三次世界大戦に充たる事が預言されています。そしてその後に、「終わりの日」が来る事が預言されています。此の事は、聖書が最古の書物で世界最大のベストセラーである事から、世界中の殆どの人達が知っている事です。
 新約聖書・マタイの福音書24章3~8節「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』そこで、イエスは彼らに答えて言われた。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」

 以下に、関連動画を添付します↓↓
 

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YouTube: 群青~日本の防人...神風特攻隊を知っていますか?~


 

</object>

YouTube: 【靖国神社】特攻隊員の遺書【太平洋戦争】



 
 

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聖書は直接自分で読む・・・聖書のみに忠実に。映画や小説、人の解釈に惑わされないこと。

2013-05-03 12:09:03 | エッセイ・コラム
 聖書の解釈に関わる、それも根本的教義にも関わるある小説を読んだのですが、聖書についての小説を書く事は、非常に難しいと思います。それは、聖書に書いて在る事に極力忠実でなければならないからです。自分の勝手な解釈や都合で書いてはいけないものと思います。また、聖書を読んだ事の無い人が聖書に関する事が書かれた本等を読む事によって、下手をすると誤解が広まってしまう恐れも有ります。聖書の写本の場合には、文字の大きさ等までも忠実に写します。真実は、最初から永遠に変わる事が有りません。聖書は今までに全く改ざんされた事が無く、最初に書かれたものと全く同じで変わっていません
 確かにカトリック、プロテスタントに関わらず、現在のキリスト教会には多くの問題が有ります。イエス・キリストの死と復活の直後の使徒パウロが活躍されていた頃の原始キリスト教会の姿から掛け離れ、世俗のもの・財産を所有し、権力を持つ程の大きな組織に発展し、聖書そのものよりも教会組織の教えを優先している傾向が、特にキリスト教徒が多数派を占める西欧諸国等に在ります。日本のキリスト者で思想家でもあった内村鑑三は、「無教会主義」を唱えて聖書の御言葉のみに忠実で有る様にと主張しました。
 異端的な解釈・行動をする事には二つ有ります。一つは、その時点においての正統・常識とされるものが間違っている場合において、正しく修正すると言う意味での改革です。かつてのカトリック組織の腐敗のあった時にマルティン・ルターによって改革が行われてプロテスタントが生まれた事はこれに当たります。ルターは、聖書に立ち返って聖書の御言葉に忠実である様にと唱えました
 一方もう一つは正しく修正する必要が無いのに、その組織や教え等を破壊する為に業と異端的な事を行って、煽り混乱に陥れるも有ります。現在世界各地で民主化等と表面的に正しい改革を行なおうとしている様に見せかけて、実際はその国や組織、システムを破壊してその後に裏の奥の世界的権力が支配しようとしている事はこれに当たります。バチカンにユダヤ教のエージェントが侵入して、内部崩壊を促している現状も有ります。それ故に、聖書、キリスト教に関する書物や映画等はその様な意図が含まれている場合が有り、読書や視聴する場合には注意が必要となります。
 偶像崇拝律法で禁じられており、教会内に極力装飾品等を飾らずに質素で簡素である事が、本来は正しいです。そして、ネックレス等のアクセサリーに十字架等を使用する事も、良くないものと私は思います。しかし、質素な中に唯一つ十字架のみを掲げる事は、それを見てイエス・キリスト十字架上で私達の罪の為に犠牲になられた事を常に思い出して忘れない様にする為に、その象徴のものとしては正しいと私は思います
 イエスが十字架に架かられた事は天の父である神の御心のまま、神の願いであって、その事によって世の全ての人の罪が許される為の犠牲となられましたイエス・キリストは世の最初から永遠に生きておられ、現在の私達もイエス・キリストを信仰する事によって罪がキリストの犠牲によって贖われて許しを得て、罪から救われます。此の事は真実であります
 新約聖書・マタイの福音書16章21~23節その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペトロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペトロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
 この時のペトロは、イエスの人間の部分のみを見ているのかもしれません。
 新約聖書・ヨハネの福音書1章1~3節「初めに、ことばがあったことばとともにあった。ことばは神であったこの方は、初めに神とともにおられたすべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 同書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方栄光を見た。のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 同・ヨハネの手紙 第一4章2節「人となって来たイエス・キリストを告白するはみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。。 
 「ことば」=「ひとり子」=「この方」=イエス・キリスト「初めに」はイエス・キリストの永遠的存在を意味します。「神」=天の「父」「父」と「子」(イエス・キリスト)と「聖霊」の「三位一体」の、創造主である唯一の神
 以上からイエスは100%完全な神であり、且つ同時に救い主(メシア)として人として来られた100%完全な人間でもありました新約聖書・マタイの福音書8章20節以下に、イエス・キリストが自分自身を「人の子」と言われていた事が数多く書かれています。
 また、聖書には人間の解釈は入っておらず預言者、使徒を通しての神からの言葉、神の御心が書かれています
 旧約聖書・詩篇22章1~2節「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
 イエス・キリストが、十字架上で息を引き取られる前に叫ばれた事において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章46節)。
 同書69章19~21節あなたは私へのそしりと、私のと私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
 以上「詩篇」は、ダビデの祈り(預言)
 「私は同情者を~見つけることはできませんでした。」・・・イエス・キリストが十字架上で犠牲となられる直前、前日~当日夜明け前までの間でのゲツセマネでの3回の祈りにおいて成就(下記の新約聖書・マタイの福音書26章36~46節)。
 「彼らは私の食物の~酢を飲ませました。」・・・イエス・キリストの十字架上において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章34節)。
 新約聖書・マタイの福音書26章36~46節それからイエス弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペトロゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』それから、イエス弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエス弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。』」
 ゼベダイの子は、ヤコブとヨハネゲツセマネエルサレム東郊のオリーブ山の北西麓。「杯」は、イエス・キリスト十字架上で私達の為に犠牲となられて流される血イエス・キリストを信仰する人達との「契約の血」
 同書27章33~37節「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである。』と書いた罪状書きを掲げた。
 「彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け 」は、次のダビデの祈り(預言)の成就。旧約聖書・詩篇22章18節彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
 新約聖書・マタイの福音書27章45~46節さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。
 同書27章48節また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
 同書27章50~51節そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

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アダムとエバの「いちじくの葉」

2013-04-14 02:12:43 | エッセイ・コラム
 
クルース ドライフルーツ フィグ 200gクルース ドライフルーツ フィグ 200g価格:¥ 630(税込)発売日:

 上のドライフルーツ「フィグ」を、「デーツ」(ナツメヤシの実)と一緒に購入して食べました。
 「フィグ」(いちじく)は、神である創造主が天と地とそのすべての万象を造られ出してから6日目に、その最後に造られた人の最初であるアダムとその妻エバが食べていました。
 旧約聖書・創世記2章15~17節「神である主は、を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』
 同書3章1節さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、が一番狡猾であった。に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』
 同書3章4~5節そこで、に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』
 同書3章6~7節そこでが見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それではその実を取って食べ、いっしょにいたにも与えたので、も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。それで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
 同書3章22~24節「神である主は仰せられた。『見よ。はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』そこで神である主は、エデンの園から追い出されたので、は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
 ドライフルーツですが、柔らかく甘く美味しいです。エネルギーは219.7kcal/100gで一袋(200g)当たり439.4kcalと一度に食べるのには少し高めに感じますが、栄養価が非常に高いです。カリウムが730mg/100g、食物繊維が13g/100g、カルシウムが200mg/100g、マグネシウムが87mg/100g、鉄が1.5mg/100gと豊富で、その他のミネラルも含まれています。食品添加物は不使用です。原材料産地国はトルコ、原産国はドイツの輸入品です。

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勝利の象徴としての「しゅろの木の枝」

2013-04-14 01:37:26 | エッセイ・コラム
 
クルース ドライフルーツ デーツ 200gクルース ドライフルーツ デーツ 200g価格:¥ 578(税込)発売日:

 上のドライフルーツ「デーツ」を食べました。
 「デーツ」(「date」)が実として生る「ナツメヤシ」は、「しゅろの木の枝」として聖書に記載されています。
 新約聖書・ヨハネの福音書12章1節「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。・・・。
 同書12章12~15節その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』
 同書13章1~2節さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。…。
 「シュロ」(棕櫚、「palm tree」)は日本の南九州原産で、聖書の英訳では「パーム」(「palm」)(ヤシ(の葉)、ヤシ科の植物の総称)であり、同じヤシ科の常緑高木である「ナツメヤシ」(「date palm」)を本来は指している様です。日本では、シュロ以外のヤシ科の植物が一般的では無かった事による様です。
 「the palm」は、勝利の象徴としてのシュロの枝葉、その模様、 賞、栄誉、勝利、成功を意味します。
 「ナツメヤシはメソポタミヤ地方の原産で、メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6000年代にはすでに栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4000年代に栽培されていたことを示す考古学的証拠が存在する。ウルの遺跡(紀元前4500年代-紀元前400年代)からは、ナツメヤシの種が出土している。」(ウィキペディアより引用)。
 「デーツ」(「date」)ナツメヤシの実の事で、北アフリカや中東を中心として栽培され、主要な食品として扱われています。
 ドライフルーツですが、ソフトかセミドライなのかは解りませんが柔らかくて食べ易く、甘くて美味しいです。254.7kcal/100gで一袋(200g)当たり509.4kcalと一度に食べてしまう事においてはカロリーが高く感じますが、栄養価が高く、利尿作用のあるカリウムが730mg/100gと多く、食物繊維も8.7g/100gと豊富で、マグネシウムが50mg/100g等、その他ミネラルが含まれています。
 本商品は食品添加物不使用です。原材料産地国は北アフリカのチュニジア、アルジェリアで、原産国はドイツです。
 因みに、シュロ(棕櫚)は「hemp palm」とも言い、「hemp-palm broom」で「棕櫚箒(ほうき)」、「hemp-palm rope」で「棕櫚縄」となります。「hemp」はアサ(麻), タイマ(大麻)の事です。天皇が即位後に初めて行う新嘗(にいなめ)祭である大嘗祭にて献上されるのが、麻織物である麁服(あらたえ)です。この麁服は、徳島県の阿波、忌部氏直系の三木家にてのみ上代から代々作られる物です。

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俗事における「無用性」は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める

2013-04-13 00:52:55 | エッセイ・コラム
 「役に立たない」と言う「無用性」は、偶々其処での周囲の人間や設備等の環境や境遇、職種、作業の内容、自分の個性や持ち味・能力・技能等が合わなかったり、周囲の同僚の意向・欲望に沿わなかったりする事から生じるもので、人其々に持ち場・持ち分が在る為に、別の状況の中では「役に立つ」と言う「有用性」が得られます。
 世の中には、寝たきりの方や病気や怪我で床に臥せている方障がい者、お年寄り等で身体が弱っている方等、社会・世間から俗に余り「役に立たない」と思われる様な人達が存在しますが、それだからと言って、その方々の生存権を否定する事は勿論間違いです。
 出生前診断によって、親の都合、親の気に入る子供のみを生まれる様にし、神からの運命を素直に受け入れると言う事を否定し、どの様な子供でも受け入れると言う寛容を否定する事になってしまいます親の欲望にとって「役に立たない」子供は、捨てられる訳です。障がい者の生存権をも、否定する事に繋がります
 「生きる意味」とは、何も社会や世間に気に入られる様にする事では有りません。また、何も社会や世間にとって「役に立つ」様に振る舞う事では有りません神が各人に与えた運命・使命に従う事が、各人にとっての「生きる意味」となります神に従って、神の御心に添った行いをし、神を喜ばす事が「生きる意味」となります。人・世間を喜ばそうとするのでは無く、神を喜ばすのです。人の為と書いて「偽り」、神の為が本当に正しい事となります。
 寝たきりの人が何も出来ない訳では有りません神への信仰を持ち、神に祈る事が出来ます。又、自分の事では無く世間の為の祈りを通して、社会にも貢献する事が出来ます。そして、その謙遜の姿から、周囲の人の心の奥から優しさや思いやりと言うものを引き出す事も出来ます。そして、それらの方々を世話や心遣い等のケアをする人達に、仕事や満足感を与えますその様に、寝たきりの人達や病の床に臥せている人達等も「役に立っている」訳です。
 新約聖書・ヨハネの福音書9章2~3節弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」。
 又、自分の能力が周囲の人達より劣ると言う様な謙遜・謙虚な姿は、周囲の人達に優越感安心感を与えて幸福感を生じさせます。逆に自分が周りよりも勝っていると言う態度を示すと、周囲の人達は恐怖感を抱きストレスを感じてしまいます。
 例え世間の中で俗に言われる意味での「役に立つ」と言う様な状態に在ってもほんの「一時的」な間だけで、何れは年をとって俗に言われる意味での「役に立たない」状態になります。此の世に在っては虚しい物事が殆どで、その虚しい物事の上で「有用性」を感じたとしても、その「有用性」の思い自体が虚しい訳です。人間の身体も含めて、此の世のものは全て「一時的」な存在であって、何れは消えて無くなってしまう「虚しいもの」なのです。
 「temporal」「現世の, この世の、 世俗の、俗人の」と言う意味で、「temporality」「一時的なこと, 一時性, はかなさ、一時的なもの(権力・権威など)、(特に教会・聖職者などの)世俗的所有物(財産・収入など)」を意味します。又、「temporal affairs」は俗事と言う事です。
 「permanence」は、「永続(性), 耐久(性), 永存, 恒久不変.」を意味します。
 信仰によって生き、「一時的」では無く「永遠」に残る、「永遠のいのち」を得る事が出来ます本当の人生の目的は、次です。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(新約聖書・マタイの福音書6章33節
 旧約聖書・伝道者の書1章2~3節「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」
 同書12章13~14節「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
 新約聖書・マタイの福音書6章25節だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
 同書6章26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
 同書6章27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
 同書6章28~30節なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
 同書6章31~34節そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさいそうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」。
 
  以下に、関連動画を添付します↓↓
 

</object>

YouTube: わたしをお使い下さい.wmv


 

</object>

YouTube: 主よ御手もて引かせ給え/森山良子


 

</object>

YouTube: 男はつらいよ カバー (捨て身の愛)




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復活祭、キリストの死と復活により、私達が義と認められる事に感謝

2013-04-01 00:00:56 | エッセイ・コラム
 日付が変わって4月1日となってしまい、エイプリルフールの日に本日の内容を記載するのが余りいい感じでは無いのですが、エイプリルフールの存在の根拠は無い様で、また聖書とも全く関係が無いので(その事に関して全く記載されていない)、私自身は全く気にして無いのですが、誤解されない事を望みます。
 昨日は復活祭、イースターでした。イエス・キリストが十字架上で私達の為に犠牲となられて、その日から数えて3日目に死に打ち勝って甦られた日を祝い、犠牲となられた事で私達の罪が贖われ、主に義と認められて永遠のいのちを得られる事に感謝をします。
 新約聖書・ローマ人への手紙4章25節主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
 ここで言う「義」の本来の意味は、この世において正しいとされている事を行なうよりも、神様との関係性を正しくする事です。神様との関係性を正しくするとは、父と子(キリスト)と聖霊の三位一体の神様を信仰することです。
 新約聖書・ローマ人への手紙4章24節・・・私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 同書・ヨハネの福音書11章25節イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 キリストがエルサレムに入られたのが過越の祭りの5日前第1月9日新約聖書・ヨハネの福音書12章1節、12節~)、最期の晩餐過越の祭りの1日目第1月14日夕方から新約聖書・マタイの福音書26章17節~)、十字架上で犠牲になられたのが過越の祭りの2日目第1月15日備えの日(安息日の前日マタイの福音書26章・27章)、死から復活されたのが過越の祭りの4日目第1月17日週の初めの日(安息日の翌日マタイの福音書28章1節~)です。主がモーセとアロンに過越の祭りについて命令した事が旧約聖書・出エジプト記12章に在りますが、同章2節この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。の記述から「第1月」としました。また同章18節最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで種を入れないパンを食べなければならない。」と書かれています。
 ユダヤ暦においては、「第1月」をバビロン捕囚前は「アビブ」、バビロン捕囚後はバビロニア暦に影響を受けて「ニサン」と呼ばれる様になりました。そのユダヤ暦は太陰太陽暦で、太陽暦のグレゴリオ暦との差が有り、グレゴリオ暦においては「3月~4月」に相当します。復活祭は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に行なわれる移動祝日で年によって日にちが変わりますが、3~4月の時期に合っています。今年の場合は3月20日が春分の日、3月27日水曜日が満月で、次の日曜日の3月31日となりました。又、グレゴリオ暦の西方教会とユリウス暦の東方教会では日にちが異なります。
 因みに「復活祭」の言葉は、ギリシャ語では「パスカ」、又は「パスハ」、その元となるアラム語で「パスハ」に由来し、それらはヘブル語で「ペサハ」と言う過越の祭りを表す言葉が由来です。
 又、イースターエッグが配られる等の習慣が在りますが、聖書にはその様な記述は全く無く、後世の人々によって作られたものです。
 一方、12月25日のクリスマスキリストの降誕祭ですが、キリストの実際の降誕日は聖書には記載されていません。12月25日の降誕祭が、遅くとも紀元4世紀頃までに異教の冬至祭を転用して始められたのではないかとも言われています。
 祭日が実際の日付と違う事や、過越の祭りと違って聖書に主からの祭りをせよとの命令が記載されていない事、祭りに異教の影響があるのではないかとの事、祭りや行事に後世の人々による拡大解釈が加わっている事等、キリストが昇天した直後の使徒パウロ等が活躍した頃の原始キリスト教会から、その後に時を経てから多少曲がり逸れた感じが有りますが、その様な事はともかくとして、キリストの御降誕と死と復活等の意味を思って感謝し喜び祝う事が大事である様に思います。


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根源、純粋主義、キリストにあって一つに

2013-01-29 23:39:27 | エッセイ・コラム
 哲学者・西田幾多郎氏(1870年(明治3年)6月17日 ~ 1945年(昭和20年)6月7日)は京都大学教授・名誉教授、京都学派の創始者で、研究分野は禅と倫理学、今から100年程前の著書「善の研究」によって世代を超えて現代社会の空虚さに対する示唆を与えています。
 上田閑照氏(西田氏の孫弟子、専攻はドイツ哲学・宗教哲学、京都大学名誉教授)は、「空虚である事に疑問を感じた場合に、自分が何処に足を置いて立つべきかを問い直す上での指針・道を示す現代人への哲学として存在」、「自分の足で立つ、その限りにおいて、人と人との交わりもリアルになると言うのが西田氏の思想の根幹を成す」、「自立し、人間の基本的な在り方に返る事を重視している」。
 その西田氏の特集番組を視聴してのレポートです。
 「日本人は何を考えてきたのか・第11回『世代を超えて~西田幾多郎と京都学派~』」(2013年1月20日(日)22:00~23:30、NHK・Eテレ)
 根源、純粋主義、直接。
 全体主義と個人主義。
 東洋と西洋の哲学を自分のものにして、新たな思想形態を生み出す。
 青年時代の参禅幅広い西洋哲学書の読書の蓄積根底に存在
 「善の研究」…1911年、西田氏40歳時の最初の著作。
 軍の理論化…「大東亜共栄圏」。
 人生の問題=哲学。…自己の悩みが哲学の動機に
 ギャップに身を置いて逃れず、統一の在り方を成り立たせる
 座禅悟りの境地。じっとして自分と外との仕切り・区別が解けて、限りない開きを経験する。「心月孤円光香万象」…「円相図」。「○」の月・円の心、無限なものに根源を内包、その内の空・無から(自分を)出発
 「純粋経験」=「直接経験」。…同類のものを主観によって判断して種類に分ける前の段階思慮分別が加わる前の意識状態。…「自己の細工を捨てて事実に従うて知る」事実そのままに知るの意主観へのこだわりを捨てよと訴える。「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主も無く客も無い知識とその対象とが全く合一している、此れが経験の最酵(最純)」。
 「自覚に於ける直観と反省」(大正6年著)。…純粋経験=直接的経験=直観から自覚へ。それから主客二元論(主観と客観)、思慮分別=反省へ自覚においては認識の連続。図と地。
 絶対的価値の喪失から、悩み・哲学へ。その哲学を時世への反映、方向付け、思想、本性そのもの、普遍性になるものとしようとする。絶対的価値=理想
 「日本文化の問題」著。…「矛盾的自己同一」矛盾・対立そのままに、全体的な同一性を保っている状態生命は多と一(多くの細胞と一つの身体)全体主義と個人主義との結び付き。物事を根源的に捉える事に加えて、自己の意識からのみでは無く、現実の世界の構造からも考える心境的な面で確信を得ても、心境的で形・表現の無さは歴史を動かせないと。
 戦時、「最も戒むべきは日本を主体化する事」と。…日本を主体化した帝国主義・全体主義に於いて、大義名分は成立しない。ブレーントラスト(政策に助言する学識経験者。知能顧問団)を務め、「東亜新秩序」
 昭和研究会新日本の思想原理・新文化の創造陸軍と海軍其々にブレーンが存在し、西田氏はその両方の幹部のブレーントラストとなった。海軍の秘密会合京都学派(京都帝国大学での西田氏に師事)、その会合の大島康正メモが残る。「近代の超克」(京都学派、文学会著)は、当時若者や知識人に流行。西田氏と陸軍幹部による国策研究会(昭和18年5月)にて、「世界新秩序の原理」。「大東亜共栄圏」の理論化日本の「盟主」(日本が東アジアでのイニシアチブ(主導権)を握る事)と他国との「共栄」(共存共栄)の矛盾を如何に結び付けるか歴史哲学の確立実際は、軍政には他者の視点が無かった
 西田氏の弟子の三木清氏(兵庫県たつの市出身、霞城館に資料)は、昭和17年に陸軍宣伝員として「東亜解放の真義の徹底」を任務としてフィリピンに10ヶ月従軍。「日本が当面している厳しい現実は、甘い観念論、浪漫的な形而上学で乗り切れるものでは無い」と、従軍前の己を含めた日本の知識人への根本からの批判をする。
 陸軍幹部宛て「要領理解の参考に供する」にて、昭和18年6月の東条英機首相演説への西田氏の助言、「各国家・民族が各自の世界的使命に自覚して、地域伝統に従って一つの特殊的世界を構成しなければならない。これが共栄圏の原理」。一方では、「その中心となって之を担うものがなければならない。東洋に於いては我が日本の他には無い」と矛盾した事と、日本の責任を述べている。しかし、実際の演説には西田氏の理念は反映されずに失望された。
 古来、武力のみにて栄えた国は有りません。永遠に栄える国は、立派な道徳と文化とが根底になければなりません。我が国民全て此の根底から大転換をせねばならぬ時」(昭和20年西田氏)。
 「西田哲学」アンダーカレント(底流)、デタッチメント(関わり無く)からコミットメント(参加)・積極性・義務感・語りへと遷移した事。
 上田閑照氏「何となくはっきりとしない事でもこうだと決めていく事によって学問が成立し、その学問を基礎にして実践や政策になる。しかし哲学はその逆で、決められた事、決まった様に見える事、それらが全てでは無い。もっと別の事が有り、その外があるというそのセンス、それが非常に大切
 西田氏は、己とは何か、世界とは何かを生涯問い続けた「私が書いたものが何にもならないものかもしれない。或いは、後の何人かの立場になるものかも知れない。私には唯、私の道を進み行く外ないのです」(昭和11年)。
 自分・人間の考え・打算・計り事(謀り事)が生じる前に、神様から与えられた経験・運命に対して元々生まれ持っている良心から生じて来る純粋な気持ちが大事であり、西田氏の言う主観を捨てた「純粋主義」と共通する様に思います。又、イエス・キリストにあってイエス・キリストを信じる全ての者が一つになる事は、西田氏の「矛盾的自己同一」に似ている様にも思います。
 旧約聖書・詩編12章6節主のみことばは混じりけのないことば
 同・箴言30章5~6節「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。
 新約聖書・ローマ人への手紙12章4~8節一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまず分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
 同・コリント人への手紙 第一12章4~27節さて御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰がが与えられ、・・・。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。・・・もしからだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。・・・からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。・・・神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」。

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「純粋さ」と「偽善」

2013-01-12 22:26:57 | エッセイ・コラム
 仕事の種類によって、神様は異なった見方・捉え方をしません道徳的に間違った事をしなければ、自分の持ち分をすれば良く、自分の能力に見合った事をすれば良いのです。因みに、現代において金融関係は間違っている様に思います
世の中の人全員が医療福祉関係の仕事をしてしまうと、社会は成り立ちません。私が若い頃から仕事をして来た鉄工の仕事も、世の中の鉄製品全般を担って、社会の「根幹」を支えています。医療・福祉関係と鉄工関係のどちらの方が値打ちがあると言う問題は全く無く、どちらとも同様に値打ちが有ります
 世間の人達は見た目のイメージや表面的な捉え方で評価する方が多いですが、汗やチリ・油にまみれて作業着・ユニホームを汚しながら仕事をする事が正しいと言う事です。3K(キツイ・キタナイ・キケン)等と言って中傷したりする事は、間違っています
 私はかつては自分の遣り甲斐等にこだわりが有り自分を喜ばす為に仕事をしていましたが、現在は神様を喜ばせる事が本当の意味では正しいと言う事を知りました。又、現在においては、基本的にこだわりは有りません。こだわりが無く、欲望が有りませんそれらから解放されて心が自由になっていますので、それらから来る苦しみは有りません
 又、例え何かに希望・欲望を持ってその通りに行かなくても、忍耐を持ってその苦しみ受け入れる事が、クリスチャンにとって必要な事です。
 公務員の様な安定を望んで前述の関係に進む者も多く、純粋に仕事の内容で選んでいる人ばかりではないと言う事です。専門学校等の学生には、その様な安定を望むだけの者が多くいます。その様な学費の高額な学校に通う者は裕福な家庭の子である事も多く、苦労や痛みを理解していない事が多い様に思います。又、事務職等の部所は、基本的に経営・金銭の事しか考えていません。人出不足とは言いながらも、結局はより好みをして贅沢な考えを持っているだけの様にも感じます。
 最近は、病院も介護施設もどことも皆ホテル並で、それらの職員もその様な綺麗で立派な所で働く事を一つのステータスと捉えている者が多い様に思います逆に、私が育てられた町工場の鉄工所と言えば、それとはまるで正反対の感じですしかし本当の値打ちと言うものは、見た目のイメージ等では無く、その内容そのものに有ります却って、特に施設に関して言えば、町工場の小さな古い鉄工所の方が、「清貧」、「謙遜」を表している様にも思えます。
 ところで、流通において本来は物物交換や働きに応じて物や食事等の報酬を受け取る事でしたが、流通の利便性を高める為に希少価値の有る金・銀・銅を貨幣に用いてそれを代替品としました。その後より利便性を高める為に、金等と交換可能な兌換紙幣が発行される様になりました。しかし、アメリカのドル紙幣は40年前に金本位制を辞めている為に、ただの紙切れとなっています。
 お金だけを持っていても物が無ければ意味が有りません。お金は潤滑油で物・サービスの実体の方が本来上に在るはずなのですが、現代ではお金が権力を握ってしまう矛盾が生じてしまい、それに応じて株等の投資をする事にステータスを感じる間違った者が多くいます
 先物取引等の金融商品の発達と規律無く発行され続ける事によってお金ばかりが満ち溢れ、70億人の世界人口を養うだけの食糧やエネルギーが不足し、飢饉や世界的なインフレが起こり、世界恐慌が起こる危険性を多分にはらんでいます。
 その様な社会・世間の矛盾・偽善の中で生きて行かなければならず、不器用で世渡りが下手な私は苦労を強いられそうです。

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