狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「Japanのあだ名」と「英語の義務教育」の疑問・・・「日本」に「誇り」は無いのか 

2013-09-12 23:59:29 | エッセイ・コラム
 先日2013年9月7日(現地時間)にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC(国際オリンピック委員会)総会において、2020年のオリンピック開催地が東京に決定しました。
 オリンピックを初め、様々な国際競技大会において選手は国を代表しての出場となり、その顔・看板となるユニホームは一流の有名デザイナーによってデザインされています。
 しかし、その日本人のユニホームにはいつも「Japan」と書かれています。「日本」は固有名詞であり、なぜ「Japan」と外国から呼ばれなければならないのかと疑問に思って来ました。
 それは、かつてアジア・アフリカ諸国を植民地にしていた白人欧米諸国によって呼ばれ出したものと思いますが、それはあたかも見下げられて「あだ名」で呼ばれている様に私には感じています。
 そもそも、なぜ「日本」と言う固有名詞が有りながら、「Japan」という「あだ名」、「ニックネーム」で呼ばれる事を受け入れてしまったのか問題に思います。
 自分固有・独自の名前は「誇り」であり、その「誇り」を捻じ曲げられてしまっている様に思います。
 因みにかつては中国は、オリンピック等でも漢字で「中国」と堂々と胸の辺りに書かれたユニホームを着て出られていたと思うのですが、やはり中国は長い歴史とその上での文化、文明を持って来た国であるが故に、中国の「誇り」の現われである様に思います。
 その「誇り」に反して中国はアヘン戦争以降の屈辱を経験している事もある為に、最近の経済発展と同時に軍事力の強化に繋がっているものと思います。
 また、敗戦後から日本は「英語の義務教育」を行なっています。誰がそもそも勝手に決めたのか英語が国際標準語とされている様ですが、なぜ選択教科にせずに「義務」教育にしてしまったのか疑問に思います。外国の言葉等は自由に選ばせるべきであると思います。
 「Japan」のあだ名と「英語の義務教育」のいずれにしても、外国からの「押し付け」でであり、それを素直に受け入れるところに日本人としての「誇り」を失ってしまっているのではないかと思います。
 戦後は経済発展を重視するあまりに政治や社会問題に無関心となり、お金が全て思考が無くなり、疑問を抱く事も無くなってしまい、「誇り」を失っている事に気付かない、或いは「誇り」に無関心になってしまっている様に思います。
 確かに日本が戦後に経済発展を遂げる事が出来た要因の一つに、外国の仕様に合わせて来た事にもあるとは思います。例えば輸出用の車を左ハンドルで製作してきた事等はその内のものであると思います。
 また特にアメリカでのビジネスで成功しようと思うなら、アメリカを支配するユダヤ人とは仲良くしなければなりません。その為に、そのユダヤ人には媚びへつらって素直にせざるを得ない事もあるとは思います。
 そういう意味では、英語も特にビジネスにおいてを考慮してのものとは思います。
 しかし、例え英語でも「Nippon」が正しいのです。「日本」という名は国旗や国歌と同様に日本の「誇り」なのです。
 敗戦後の日本人に失われてしまった日本人としての「誇り」を取り戻さなければならない様に思います


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