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狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「自分の十字架」である苦しみを背負う事が、クリスチャンとしての使命

2013-01-11 23:58:51 | エッセイ・コラム
 「悔い改め」をしたからと言って、幸せになると言う訳では有りません。悔い改めをして自分の内面は変わったからと言って、世間や社会は今までのままで、今まで通り世間や世の中からの不幸に感じる報酬を受けなければなりません。洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後に幸運が訪れる訳では無い事と同じで、悔い改めをしても、その後同じ様に苦しみを背負って生きて行かなければなりませんただ、悔い改めをしたりキリスト者(クリスチャン)になる事によって、同じ様な事があっても、その事に対しての捉え方が以前とは異なったり、見方が異なったりする事になります。それが、希望・恵みに繋がる忍耐を持つ力に成ると言えると思います
 冤罪・犯罪被害者や出所者、被差別者等の様に、偏見レッテル等を貼られた場合に、社会復帰も思う様に行かず、雇用機会も失われてしまいます。しかし、キリスト者の場合は、敢えてその様な「自分の十字架」を背負って生きる事を受け入れなければなりませんイエス・キリストが全ての人の罪の贖いの為に十字架上で殺されて犠牲になられた様に、旧約時代の預言者達やキリストの弟子達が敢えて迫害を受けて殺されて行きましたその当時は特に、クリスチャンにならない方が世間や社会から迫害されず、此の世からの幸福に感じる報酬を受ける事が出来たにも関わらず、敢えて苦しみを受けた訳です
 キリスト者は、他者を責めたり裁いたりしてはいけないと言う事を聖書から教えられる事から、とかく自虐的になりがちです。それ故、自分の弱みを曝け出したりして自分を低める傾向に在ります。謙遜であり謙虚な心と姿勢であります。
 それらは「悔い改め」をする上では必要な事なのですが、それによって世間や社会からは迫害を受ける事に繋がる可能性が有ります。人々は皆、自分の弱みを内に隠して人に知られない様にし、周囲からいじめ・迫害を受けない様に虚飾で覆ったり、自分の虚しい力、世間的に認められる為の肩書きや名誉を身に付けたりしています
 普通は神様との祈りの中で罪を告白するだけで、他人には聞かれたり見られる事が無く、秘密にすることが出来ます(カトリックの場合は、神父(司祭)が神様と信者との仲介をする様な形で、神父が信者の罪の告解(ゆるしの秘跡)をします)。
 私の場合も、名誉やプライドを守る為に「怒り」を持って、喧嘩等をして「自分で」対処して来ました。しかし、権力も地位も所有した王様であったダビデは、常に神様に助けを求め、自分で解決しようとせず、神様を自身の身の避け所とし、神様に常に寄り頼んでいました。ダビデ王は、神様の前に在っては小さく弱い者であり続けました
 此の世に生きる限りは、世間や社会の中で生活をせざるを得ず、世間や社会の在り方を否定したり批判したからと言っても共に居なければ仕方が有りません。此の世の様々な物事に空虚感を抱いたからと言って、この世で生活する以上は付き合わざるを得ない部分が有ります。それらの事に対して、私は正直な所、不器用な性格世渡りが下手な事もあって上手くは出来ていません。少なくとも、馴れ合いや迎合、媚びへつらう事は出来ません


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新年にあたっての、私の現在の迷いと考え

2013-01-07 23:52:56 | エッセイ・コラム
 次のドキュメンタリーを見ました。
 「NNNドキュメント'12~『戦場に咲いた小さな花 山本美香という生き方』 」(読売テレビ(日本テレビ系)2012年10月15日0:50~)
 昨年8月20日シリア内戦の取材中に銃撃されて亡くなられたジャーナリスト山本美香氏は、イラクアフガニスタン等の紛争・戦争地で長年取材して来られ、特に女性や子供を取り上げて、下層の声にならない人達の訴えを、世界に伝える役割を果たして来られました。
 父親が新聞記者であった事からその血・センスが受け継がれていた事も有り、若い時からジャーナリストに志望して大学卒業後に大手マスコミに記者として入社しましたが、その後に事務職への配置転換命令に不満を抱いて退社し、飽く迄も記者を貫きたい世界各地の現地取材を通して記者としてもっと極めたい事からフリーランスとなり、後に独立系の通信社記者として一生を全うしました。
 その様に若い頃からの強い意志が途切れる事無く亡くなるまで活躍されて来られましたが、その「天命」ともとれる働きは、若い頃から山本氏に神様からの心への働きかけが有ったのではないかと思えます。
 実は私は、現在少し迷いの中に在ります。聖書を根拠に考えるに当たり、世のものに関しては軽んじる事が良いとされますが、一方、この世で生きる為には、糊口を凌ぐと言う意味で何かしら仕事はしなければならないと言う事があります。人其々に「運命」が有り、人其々の仕事において持ち分を発揮すれば良く、何も人の真似をする必要も有りません。私にも私独自の「運命」が在る訳です。大事なのは、神様の御心そのままに私が行うと言う事です。つまりそれが「運命」に従う、神様に従うと言う事です。
 つまり、神様が私に何を望んでいるのかが解りません。昔の聖書に記載のある預言者達の様に、神様から直接語ってくれれば良いのですが、私の信仰の浅さ、祈りの少なさから、私には語ってはくれません。まだまだ世のものを重んじている部分があって捨てていないものが多いからでもある様に思います。よって、日々の生活の中から、神様が私に暗示的に示されている事に気付くしかない様に思います
 また、現在何かに対してのモチベーションが上がらない、私の心の中の霊が奮い立たされない事が有ります。自分で敢えて考えなくとも、自然と内から湧いて来るものが有りません。神様からインスピレーションインスパイア―、インセンティブが心に与えられていない様に感じます。自分の欲望は殆ど無くなっているので、そこからのやる気と言うのも起こり得ません。
 因みに、私は元々「世間」を基準にする事は有りませんでしたが、今現在と異なるのは、「聖書」では無く「自分」を基準にしていたと言う事です。全てを「自分の考え」で行って来て、神様には背を向けていました。今後はそうでは無く、全てにおいて神様の考えに則って行う様にするという事です。
 アッシジのフランシスコの場合は「手仕事」と表現した様に、道徳的に間違った事で無ければ特に種類にこだわる必要は無いと思っています。仕事の種類によって神様は違った見方をする訳では有りません。
 今現在、自分の欲望は殆ど無くなりましたが、自分の考えや意志をも捨てて神様に従う事が今後は必要です。神様が私を通して行う様にして下さる様に、つまり神様の御心に適う様に行なう事が必要で、自分の考えで行うのでは無いと言う事です。神様の「業(わざ)」が私を通して、私を使って現される様に、キリストへの信仰を持ってその事が実現する様に祈る事です。
 私が尊敬するアッシジのフランシスコの様に、世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・(神様に)従順であり、「神様の道化師」となれる様に私は願います神様に「全き心」を持って、神様の御心のままに私が神様に使われる事を望みます
 アッシジのフランシスコと同様に、良寛鴨長明も自ら望んで貧乏となった「志願貧乏」になった事に対し、私は敬意を払います。ただ、仏教の場合は世の俗物から逃れる事だけを勧めますが、キリスト教の場合は世の中での苦しみから逃れるのでは無く、それに立ち向かう事を勧めています。私はその両方(世から逃れる事と苦しみをあえて受ける事)を持ってバランスを取る様にしようと思います。今までのマイペースの部分も残しておいた方が良いと思います。
 ですので、私は世間からは認められたく有りません。逆に、神様から認めてもらいたいと思います世間からは何かと所有する事によって認められますが、神様は世の物事を軽んじてそれらを捨てる事を喜びます。何かと所有するとは、財産・お金・学歴・資格・肩書き・名声・名誉・知識等です。世のものを捨てて神様に「全き心」を持って神様に仕える事です

 

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「馴れ合い」「なあなあ」「かわいさ」を打破し、「真実」をもたらしたイエス・キリスト

2012-12-26 23:53:22 | エッセイ・コラム
 現代だけでなく昔から世の中において、かわいくしていた方が世渡りが上手くいったり、出世に繋がったりします。嫌われず友達も多くなり、会社等の組織の中に在ってもチヤホヤされて優遇されたりし、社会生活も送り易くなります。しかし、悪や権力者に媚びたり諂ったり迎合したりする事は、聖書に罪である事がはっきりと書いてあります。
 新約聖書にはキリスト(救世主)であるイエス様ユダヤ教の指導者達であるサンヘドリンのパリサイ派、サドカイ派、律法学者や祭祀、長老等との戦いが書かれています正義のイエス様悪の権力者との戦い神と悪魔との戦いが書かれています決して、イエス様はかわいい様に振る舞っていた訳ではありませんでした
 新約聖書・マタイの福音書10章34~36節わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。
 同37節わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 同38~39節自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」。
 政治や社会不安に目を閉ざさせる3S政策「スポーツ、セックス、スクリーン」エンターテイメントアイドル等のかわいいタレント達からも解る様に、平和ボケ、愚民化の一環としての「かわいさ」が世間には存在します。「なあなあ」でやったり、「馴れ合い」で行ったりする所では、が隠蔽されて誤魔化され、「真実」がそこには存在しません知識が無いか、或いは保身の為に、上からの指示に盲目的に服従する。「かわいさ」は、世の中の腐敗に繋がります。「かわいさ」を捨て、「鬼」となって公義を行なう必要があります政治家も世間に迎合することなく、且つ裏の権力にも迎合せず本当の社会正義を行なう必要があります。に対しては「怒り」が必要です。
 イエス様の場合上の地位にいる、ユダヤ教の指導者の権力者である偽善者達に対してはとなっていました。しかし、下に居る虐げられている人や、らい病等の病を持つ人、身体の不自由な人、貧しい人達に対しては、慈しみ、愛を持って迎えられました。つまり、世間のマジョリティーの人達や、政治家、官僚、財界幹部、公共団体幹部、マスコミ等の弱い者いじめをする者達とは正反対です
 今後、第三次世界大戦の後に、EUからの世界的独裁者(英国の某王子という情報がありますが)が、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つ」(マタイの福音書24章15節より)として出現し、かつてのローマ帝国を真似てエルサレムを中心として「偽りの平和」を作り出す事が、裏の権力組織(イルミナティー・フリーメーソン)によって計画されています。今年のロンドン・オリンピックは、そのアピールと予行演習の意味がありました。キャラクターやマスコット、競技場の照明等の装飾等、あからさまになって来ていました。人間のファシズムによる「偽りの平和」であり、先の聖書のイエス様の御言葉はこの様な事に対しての戦いを言っています。
 イエス・キリスト定めによって十字架に架けられる為に、エルサレムに入られる時の模様を表した以下の動画が在ります。
 

</object>

YouTube: エルサレム入場のイエス パゾリーニ 奇跡の丘


 

</object>

YouTube: 終わりの日の預言 パゾリーニ 奇跡の丘


 但し、一方でイエス様は次の様にも宣べられました。
 新約聖書・マタイの福音書5章39節しかし、・・・悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 同44節しかし、・・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 同45~48節それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
 又、使徒パウロによって次の様に宣べられました。
 新約聖書・テモテへの手紙 第一5章8節もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」

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クリスマス、イエス・キリストの降誕から清貧・謙遜・忍耐の徳を知る

2012-12-25 23:45:37 | エッセイ・コラム
 クリスマスは、天におられる父と子と聖霊の三位一体の神様が、人と同様にして神の御子として此の世に御降誕された日です。天の父である神様が、処女である聖マリア(マリア・インマクラータ)の身体を使ってイエス・キリストをその胎内に宿して此の世に産まされました。天地・万物の創造主、全能の父である神様は全てにおいて不可能な事は無く、科学的な根拠を必要とせず、人間にとって不思議なわざ・しるしを行ないます。そして、聖マリアは勿論人間ですので、自らの能力によってイエス様をお産みになった訳では無く、飽く迄も神様の能力によって行われました神様は唯一の存在で、且つ、偶像崇拝が禁じられていますので、聖マリアの像を拝む事も間違いとなります
 もしも一般の人において神様を産まなければならないと言う運命を背負わされた場合に、それが大きな圧力となってその人は拒否するのではないかと思うのですが、聖マリアは主の御使いからの受胎告知を素直に受け入れて神様の御心のままに自分を使って頂く様にと祈り、そして神様の御名を崇め、神様を賛美しました。
 イエス・キリストは、ベツレヘム牛やろばの家畜小屋の中でお生まれになり、布にくるまれて飼葉おけに寝かされました。宿屋が全て一杯で入る所が無く、貧しい姿・環境の中でお生まれになられました。その事から、私達は清貧謙遜、忍耐を教わります。又、後にイエス様が御言葉を宣べ伝えられた事や、御自身の証しの為の不思議なわざしるしを行なって、此の世の人達に「いのち」を与えて「救い」をもたらし、全ての人の罪の贖いの為に十字架に架けられて「犠牲」となられた事を思う事も含めて、クリスマスの聖夜は静かに過ごす事が本来の在り方の様に思います。確かに、イエス様の降誕によってクリスマスに世の人達が喜びや幸福感を分かち合うと言う事をもたらしたと言う意味もあるとは思いますが、本来の意味としてのイエス様の「救い」と「犠牲」、清貧、謙遜、忍耐を思う事が大事で、決してお祭りやばか騒ぎ等はクリスマスには相応しくない様に私は思います。私は勿論見ないですが、クリスマスに意味の無い空虚なTVのバラエティー番組等を大きな時間を割いて流しているのは、マスコミの背後に存在するサタンイルミナティー・フリーメーソンのキリスト教を否定する意向の様に感じます。
 イエス・キリストがお生まれになって、最初に主の御使いによって知らされてキリストに会って祝った人達は、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いの人達でした。決して学者や地位の高い議員等では無く、羊の主人(持ち主)に雇われて貧しく虐げられていた羊飼いの人達でした。天の神様は、その様な下の身分の低い人達を優先して天の御国にも取り上げられます。
 旧約聖書・イザヤ書7章14・15節それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。イエス様のお生まれになった時(2000年程前)よりも700~800年程前に記された預言です。
 イザヤ書9章6・7節ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和に君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 新約聖書・ルカの福音書1章26~28節・・・御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」
 ルカの福音書1章31・32節ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・。
 ルカの福音書1章35~38節御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去っていった。
 ルカの福音書2章1~7節そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
 ルカの福音書2章8~20節さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』・・・羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。・・・羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」。
 

 
 
 
 

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追懐の場所に在る記念碑としてのお墓・・・現代の葬儀とお墓の多様化に対するキリスト者としての考え方

2012-12-24 23:59:45 | エッセイ・コラム
 父が2年前に亡くなり、其の後自宅にてお骨を保管していましたが、此度建立したお墓に家族のみで納骨しました。父が亡くなった後暫くの間は精神面で整理が付かず、書を読んだり何かの行動を起こす気持ちにもなれませんでした。そして、納骨・供養について解りませんでしたので、本やインターネットの文献等を読んで勉強しました。そうする中、私自身がキリスト者(クリスチャン)であると言う事が、その事について考える上での「根拠」になりました。
 しかし実は、他のキリスト者の方と比べても劣る様に、私は今まで失敗ばかりの繰り返しで、受洗は小学生の時にしていたものの凡そ形だけでキリスト者とは言い難い様な状態に陥っていました。つまり、神に背を向ける様な状態に在りました。失敗する度に反省しては神様に向き直すも、直ぐまた元の状態に戻ってしまいました。過去の週末の教会学校や、常に継続しては行っていない教会での神父や牧師による指導や、その他関係する本から、拾い読みをする様な形では「聖書」の御言葉に触れる事は有りましたが、自分で聖書の通読をした事は一度も有りませんでした。因みに、現在は聖書の通読を行なっています。
 キリスト者として「根拠」とするのは、勿論「聖書」です。そして、聖書の中にお墓に関する記述が有る事によって、「墓碑」を建立する事を決断しました。又、供養とは死者の霊を治め鎮めるもので呪って出て来ない様にする為のものとされていますが、キリスト教においては供養と言う概念は全く無く、其れを行う必要は有りませんキリスト教においては霊魂は神の御許に行っているとされていますので、墓は其の入り口に過ぎません墓は故人の「記念碑」であり、墓を拝むのではなく、故人を懐かしむ「追懐」の場所となります。偶像崇拝が禁じられていますので、唯一の創造主である神以外を崇める事は間違いとなります納骨前の自宅保管時においても、線香をあげる事も必要とせず、勿論、仏壇も戒名も必要有りません
 「千の風になって」と言う歌にも、霊魂は墓の中には居ないと在ります。私自身も現在独身ですが、後継ぎの問題等も含めて、墓を建てずに、火葬のみの直葬、海洋葬等の散骨、樹木葬等の自然葬手元供養納骨堂永代供養等、選択肢が多く増えています。私自身の事であればその様な方法でも良かったのですが、飽く迄も父の納骨であり、且つ、家族もおりますので、単純にその様な方法にしようとは思えませんでした。又、一般的に車等で同程度の額を消費してしまう事を考えた場合に、前記の問題に関して同じ様にも思えました。そして、建立後の納骨後には、母からはありがとうと言う言葉を頂きました。
 前記の様に霊魂は天の神の御許に行っていると信じますので、墓のデザインや形、素材等は関係無いので、それらに全くこだわりは有りませんでした。出来るだけ簡素・質素安価なものにしようと思いました
 因みに追記として、私は当初に本等を読んで勉強していた時や元々それ以前から、世間一般的な葬儀の習慣に関しては疑問を感じていたのですが、以下の様な批判的な思いを抱いていました。
 葬儀や供養について宗教により異なる為に、亡くなった人の考えをあくまで尊重するべきですが、葬式や墓・供養が故人の為というよりも、結局は故人の遺族の為に行っている様に思われます。世間体を気にしたり、確かな根拠の無い習慣やしきたりに従ったり自分(遺族)が死後に入る所が在るという安心感が得られる為等です。それらの事が本当に故人の為になっているとは限りません。遺族が自分の都合の良い様に、納得して信じているだけかもしれません。少なくとも従来からの高価な葬式や墓は間違いで、戒名や位牌に掛ける金額によって死後の行く先が決まってしまうと言う理屈は、昔のカトリックの免罪符と同じで、腐敗に値すると思います。又、人間の手によって死者を供養する事等は、人間の傲慢・思い上がりでもある様に思います。差別化を図った江戸時代に、身分の高く無い庶民は公に苗字を名乗る事が出来なかった訳で(公文書である宗門人別帳への記載を許されませんでした。但し、私称として過去帳や墓碑には記していたらしいです。)、「何々家之墓」とは言っても、所詮、明治以降に過ぎません。又、火葬率が上がって来た事も昭和に入ってからで、土葬で同じ墓に何体も入れる事が出来る訳がありません。檀家制度は、江戸時代に現在の役所の役割である戸籍の管理が負わされたもので、担当する檀家の者が亡くなった後、其の寺で合葬しました。現在でも永代供養は、例え個別に分けて納骨しても、30年~50年経てば合葬されます。其れは遺族の為故の期間です。合葬後は、他の地に改葬出来ません。それに、お骨上げの時に既に、骨壺に入りきれなかった分のお骨は合葬されています。江戸時代より前は、山に野捨て等も一般大衆の間では行われていました。手元供養は他の葬儀と併用されますが、遺族が身近に死者を感じていたいという場合等に良いみたいです。大体、遺骨をさっさと納骨してしまうというのは、其の遺骨が家族から邪魔者扱いされている様にも感じます。
 聖書にあるお墓に関する記述として、以下の御言葉が在ります。
 旧約聖書・創世記23章19~20節こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にあるマムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった
 創世記25章8~10節アブラハムは・・・長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。
 旧約聖書・エレミヤ書26章20~24節ほかにも主の名によって預言している人がいた。すなわち、キルヤテ・エアリムの出のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの町とこの国に対して、エレミヤのことばと全く同じような預言をしていた。エホヤキム王と、そのすべての勇士や、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたがウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃れて行った。・・・彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした
 新約聖書・マタイの福音書27章57~61節夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。・・・ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとがのほうを向いてすわっていた。等、其の外にもイエス・キリストが死後三日目の復活まで葬られた事についての記載が在ります。
 又、イスラエルエルサレム東にあるオリーブ山には数多くの墓が建てられていますが、此の世の終わりの最後の審判の日に主が再降臨してオリーブ山に立ち、死者がよみがえる場所とされている為に其処に墓地が作られるようになりました。その事については以下の御言葉が在ります。
 旧約聖書・ゼカリヤ書14章4節その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
 新約聖書・ヨハネの福音書5章28~29節このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」「子」とは、天の父なる神の子のイエス・キリストの事です。「父」と「子」と「聖霊」の「三位一体」の創造主である唯一の神です。
 同・ヨハネの黙示録20章4~5節また私は、多くの座を見た。彼らはその上に座った。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である
 ヨハネの黙示録14章1~5節また私は見た。見よ。子羊がシオンの山の上に立っていた。また子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名とがしるしてあった。・・・彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、子羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および子羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。「子羊」とはイエス・キリストの事です
 旧約聖書・ダニエル書12章2節地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
 同・ヨブ記19章25~27節私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで、絶え入るばかりだ。
 
 

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2012-11-22 22:07:57 | エッセイ・コラム
 「罪」について。全ての人間の心には元々罪の性質が在り、犯罪や悪行は其の罪の性質の表れです。元々持っている原罪と言う幹の部分が存在し、此の世の中で生きて行く内に、其処から枝葉となって罪を犯す部分が伸びて来ます。法律や規則を破ったり非道徳的な事をするというのは世間においての表面的なもの、世間の秩序を乱すものであり、それらの向こうの延長上にある本来の罪の根本的意味は、神の御心に背く事、神の御名を汚す事であります。つまり、神を信じずに神に背を向け、自分の能力を信じ、神から離れる事から、元々持っている原罪から枝葉が伸びて来ます。誰かに暴力を振るったり、誰かに悪口を言ったりした場合、其の被害者に謝るのは当然ですが、其の被害者を通しての神の御名を汚した事、神の御心を崇めずに侮った事にあります。罪に対する「悔い改め」は、被害者に対する謝罪・反省だけでは無く、もっと大事な事は、神の御名を汚した事や神の御心を侮った事に対して、後悔し反省し、謝罪し、許しを請い祈る事です。又、其の為に後に自分自身が苦しみを負おうとも、神を賛美し祈り続ける事です。
 神に従わずに人間が生きる事が罪となります。旧約・新約聖書の「約」は、神と人間との契約と言う意味であり、聖書には人間が生きて行く上での守るべき約束事が書かれています。人間が自分の意志や欲望で望む「自己実現」は「罪」であり、「神実現」が其の契約書である聖書に書かれています。其の契約に違反する事で、刑罰としての「死」(地獄)があります。
罪の世界で生きる世間の人々は、「自己実現」によって不安を取り除こうとしますが、予め定められている「永遠の死」からは逃れられません。学歴、肩書き、仕事上の経験、財産、世間の評価等、其れらを得ても「死」の解決にはなりません。
 神様なんていないとおっしゃる方は、人間の傲慢な気持ちを持っているに過ぎません。人間がものづくりをする時に人間自身の役に立つ様にと物を作りますが、同様に人は万物の創造主なる唯一の神様によって、神御自身に役に立つ様にと造られました。


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間抜け

2012-11-20 23:42:23 | エッセイ・コラム
 「間抜け」とは、愚かな事や手抜かりの在る事を意味しますが、「間」が抜ける、つまり間断なく流れ続く状態を指します。「間」を置かずに日々忙しくしていると、そこには思考が無く、只々時間に流されてしまう様な状態で有る様に思います。毎日忙しくしていると、知らない内に自分自身が思わぬ方向へ逸れてしまっている事も多くあります。ライン等の流れ作業やルーティン作業は、同じ事の繰り返しで思考を行なう事が無く、色々と悩み考えて自分を高める事が出来ません。その様な時に、ふと立ち止まって独りで沈思黙考すると、普段忙しくしている時には気付かなかった事が見えて来ます。忙しくしている時には盲目と成り易く、頭だけでなく心も暗く閉ざされてしまいがちです。普通一般的には、病気や怪我をする事を不幸である様に捉えられる方が多いと思いますが、実際には「間」を置く事が出来る為に、本当の意味では幸せである様に思います。怪我や病気は身体・肉体にとっては不幸でありますが、にとっては幸福であります。多くの正しい知識を得て、其の上で独り悩み考える。しかし大事なのは、そこには正しい「根拠」が必要になります。

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初めの一歩

2012-11-20 22:37:43 | エッセイ・コラム
 私の昔の学生時代には未だパソコンが普及しておらず、又、インターネット歴は4年、YouTubeに至っては今年から見出したという、少し世間よりは遅れている感が有りますが、ブログも本日から始める事に致しました。
 今までは多彩なブログを読んだり動画を見るばかりで自分からの発信が無かったのですが、同様に今年から始めた公開する事の無かった日記を、こちらで付けてみようかという感じで始めます。
 数々のブログを読んで皆様の大変熱心な研究に恐縮し、そして勉強させてもらいました。又、動画の編集等にも大変力のこもっている事が解り、感心させられています。
 インターネットには、表のメディアの報じない多くの情報が存在し、深く探る上では非常に有益で有る様に思います。私の場合、以前は本からその様な裏の隠された情報を得ていたのですが、インターネットでの検索により更に多くの知識を得る事が出来、数々の知識に繋がりが生まれ、理解をより深める事が出来る様に思います。
 又、其の理解を得る為には「根拠」が必要であり、数々の情報が在る中で何を「根拠」にした情報であるのかが大事に思います。情報を取り入れる際にも、自分自身に「根拠」が必要である様に思います。
 あと1ヶ月でフォトンベルトと惑星ニビルの接近があります。其れにより様々な災害の可能性が予想されますが、私自身もはたして其の後どうなるのかと不安に感じています。
 

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