真のご家庭のご苦労を思うと胸が痛くなる。ご子女様を犠牲にして食口たちを愛し続けられた真のお父様だった。いつもいつもアベルの子女である子女様よりもカインの子女である祝福家庭・食口を愛し続けられたお父様だった。
にもかかわらず、食口たちは子女様を愛することをせず、さらに真のお父様から愛されることを求め続けて来られた。
受け身の愛、愛されることのみに満足を得て、自ら愛する主体になることが出来なかった。真のお父様の教えの本質を理解することが出来ず、愛において未成熟なまま、「み旨だ、摂理だ」と歩み続けて来た。巧みにサタンは侵入してきた。
真のお母様にも寂しい思いをさせて来た
真のお母様にも寂しい思いをさせて来た祝福家庭であった。真のお父様が食口たちを愛する時、いつも捨て置かれたような立場に置かれていた真のお母様では無かったのか!その寂しさがどれほどの限界状況だったのかと胸を打つ。
だから真のお母様が独自の道を行こうとされたことも理解できないわけではない。しかしだからと言って食口たちがその道にともに行ってもいいのか!それは違う。
我々祝福家庭は真のご家庭がもっとともおられて、ともに愛し愛される時を持つことが出来るように配慮しなければならななかったのではないのか!
真のお父様が北から逃れて、釜山で避難民の生活をしながら、あのボンネッコルの小屋に食口を集めてみ言を語られていた時、やってきた聖進様とそのお母様を寂しく待たせて帰らせてしまったそのことが真のお父様の最初のご家庭を破綻させてしまった大きな要因になったのでは無かったのか!
カインの子女を先に愛され続けられたお父様
真のお父様は蕩減復帰の原則からカインを先に愛されるという歩みを常に続けて来られた。それは愛の減少感を感じたカインがアベルを殺害することでアダム家庭の摂理が破綻したことを蕩減復帰しなければならなかったからである。
我々祝福家庭は真のお父様が真の子女様や真のお母様を犠牲にして愛されてきた存在であることを忘れてはならない。そのように愛されて来たのだから、我々は真の子女様や真のお母様を愛することで答えなければならないし、真のお父様が愛されたように隣人や世界を愛する実践者とならなければならなかった。
しかし、最後の最後までそのことが出来なかった。そして今もできていない。
我々祝福家庭は悟らなければならなかったのである。み言を通してみれば、我々がどうしなければならないのか・・・珠玉のお父様の語られたみ言の数々を味わい悟れば、我々はどうあるべきかと言うことがわかるはずなのである。だからこそ「訓読」を強調された。
み言の訓読を通して
み言の訓読を通して、真のお父様の心情と事情と願いを知るようになれば、自然とお父様の本当の願いが何かを悟ることが出来るようになってくるはずなのである。
ダンベリーの入獄生活を共にされたのが神山威会長だった。日常的に真のお父様と生活を共にされながら、お父様のみ言集を読まれていた、そこから「訓読」が始まった。真のお父様の生涯の歩みの基本が「真の愛」にあったことを骨の髄まで実感された神山会長だった。真のお父様が、時として「A]と語られても、実の願いは[B] であることも、ともにその心情を理解するとわかってくるのである。
侍ると言うことは そして本当の忠臣とは
侍ることはそう言うことである。師の語られる言後の事情や願いを知ることは復帰摂理の背後の神様ご自身の悲しみを知る事にもなるのである。真のお父様が「顕進について行くな!」と言われたとしても、お父様の背後の神様の心情圏に立ってみれば、お父様の本当の願いが何処にあるか悟らねければならないことなのである。そのことを理解できたのが神山会長だったことを知るべきです。
本当の忠臣とは真のお父様の涙をぬぐって差し上げることのできる者です。真のお父様に叱られたとしても真のお父様の涙をぬぐい、真のお父様の悲願を実現して差し上げるものが本当の忠臣です。神山会長がそのような生涯を歩まれたことを今よく知ることが出来ます。その本当の忠臣を日本教会は排除し、除名してしまいましたが、今となれば誰が本当の忠臣かは歴然としています。
しかし、それもまたすべての祝福家庭と、人類すべてを救いに導こうとされた途轍もない愛であることを悟るべきです。
全ての祝福家庭は心静かに何が本当のみ旨であり、何が本当の愛なのかを悟るべきです。それは盲目的従順の道ではありません。それぞれが、自らの「良心」に問い求めて行かなければならないことでしょう。
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