そのようなときにある一人の若者が藤樹先生のもとに弟子入りしたいとやって来た。その若者と言うのがその後日本に王陽明の教え(いわゆる陽明学、このころは王学あるいは心学と呼ばれていた)を広く行きわたらせることに貢献した名学者熊沢蕃山であった。その若者、もとは備前岡山藩池田光政に仕えていたが、島原の乱には出兵を願ったが許されず、島原の乱ののち、島原の乱で負傷した父親とともに、祖母の郷里の近江の桐原に住まいしていた。
徳川の世になり、諸国が天下泰平の世になってくると、武芸よりも学問が重んじられる時代となり、熊沢青年は父のもとで兵法や、四書などを学んでいた。彼は学問を究めて再び出仕を志していたのである。
そこで父のもとでの学問に飽き足らず、さらに学問を究めるために、いずれかに優れた師ははいないだろうかと探していた。そのさなか、京のとある旅籠で逗留中、とても気になる話を耳にした。
それは越前前田藩から藩の金子を預かって京に届ける役目を預かった使者。、「実は実に正直な馬子に助けられた。自分は越前から京に前田家からの重要な金子200両を預かって旅していた。旅の途上馬を利用した。ところが宿について気が付いてみると御用金を収めた金子が見当たらない。途方に暮れてもうこれは切腹ものだと途方に暮れていたところに、先ほどの馬を引きの馬子がやって来た。『もしやこの金子をお忘れでは?』と宿まで持ってきてくれたのである。
もはや万事休すと思っていたところに、馬子が金子を持ってきてくれて命拾いである。そこで手持ちの金から金15両をお礼だと渡そうとすると『そんなお金は受け取れない』という。額を減らして『受け取ってくれ』と言っても『受け取れない』との押し問答。最後に『それじゃあ、200文だけいただきましょう。それくらいの手間賃はいただいてもいいかも。』と言ったので200文を渡すと、『いただいたそのお金そのまま帰るのもなんだから、一緒に酒でも飲みましょう』といって、皆も誘って酒盛りをした。それで『なんでそなたはかくも正直なのか?』と聞いてみると、『それは藤樹塾の先生に教えていただいたからだ。』との答えだった。『その先生は?』と聞くと、もとは伊予大洲藩に仕えた学者さんだが母親への孝養のために藩を辞し故郷に帰り、故郷の村人に徳のある生き方を教えてくれている。その先生に学んだ教えが、人は「明徳」をもって生きなければならないというもので、自分はその教えの通りにしただけだ。』との答えだったという。」
この話を聞いた熊沢青年、「これこそ私が求めて来た師ではなかろうか!是非ともこの先生に教えを請うて弟子としていただこう。」そのような経緯から小川村の藤樹先生のもとにやって来たというのである。
青年熊沢は藤樹先生の門をたたき、「是非とも弟子にしていただきたい。」と願い出た。しかし、藤樹先生は「いや私は村人を教えるだけのもの、門人を取るようなことは出来ない。」ときっぱり断った。しかし、まさにこの方こそわが師との思いを強くしたっ熊沢青年は、「先生に入門を許していただくまでは」と、二日二晩、塾の門前に座り込んだ。
そこで助け舟を出してくれたのが藤樹先生のお母さん、「お前、あのように熱心に入門させてほしいと願っている。弟子にするということではなく、ともに学ぶということで入門させてやったらどうか。」と。その母親の一言に藤樹先生も「それならば」と熊沢青年の入門を許可してくれたのである。
熊沢蕃山が中江藤樹先生のもとに入門をした経緯はこの通りである。
藤樹先生が大洲藩を辞して故郷に帰った経緯や、小川村に塾を開いて村人を教えた逸話、藤樹先生の教えの内容などは以下のページにわかり易く記述されている。参照されることをお勧めする。
国柄探訪: 中江藤樹 ~ まごころを磨く学問
馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、
ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。
この藤樹先生と熊沢氏の出会いと入門が、その後の日本の思想史に重大な役割を果たすことになるのである。藤樹先生の門下生となった熊沢氏がその後どのような歩みをしていくのか、その活躍や藤樹先生との師弟関係のその後など引き続きみて行きたい。
このあたりの経緯は内村鑑三の「代表的日本人」にも詳しく述べられている。こちらもぜひお読みになることをお勧めする。
以下続く
その思想や考え方についてよく学べる書籍、資料館など良い所はあるのでしょうか?