神楽坂 die pratze、夜。
去年3月のトラム以降見ていなかったが、ラボの時に感じた黒沢テイスト(間の外し方、仏頂面)は割と稀薄になっていた。とはいえ中盤で出てくる虫取り網の扱い方などは、わざと実際の長さよりも短い(あるいは長い)イメージで振り回すことによって物を半コントロールの状態に置き、黒沢風の幼児的な乱暴さを見事に醸し出している。思い切り突き出した網の先端が何にも届かずにあえなく墜落しそのまま荒々しく床を引っ掻いたり、思わぬタイミングで先端がスッポ抜けて飛んで行ったり、見ているだけで自分の体が無造作に千切られて散乱するような感覚に襲われる。他方また、観客を正面切って無視するポーズ、わざとブスッとしてみせる黒沢的な感じは全体に漂っているのだけれども、しかしそうやって切った啖呵を60分以上も支え抜く力量(傲慢さ)は彼女らにはなくて、むしろその一生懸命ツッパッている健気さが同情を誘い、後に、やっぱりイライラさせられた。体操着からワンピースになってからの後半は、無音でスカした間を長引かせたりするのだが、全く成立していない。勢いやワンアイディアで20分ならともかく、無手勝流で60分はやはり難しいのだろう。しかし冒頭から前半までに限っていえば、かなり面白かったのである。ラボで見た『ぷわって突いたり くりって刺したり』同様、体操着のスポ根ネタで、今回は正面奥の壁の隙間で必死に腿上げをやったり、ジョギングしたり跳ね回ったりして体力をひたすら消耗してみせる。本当にこの程度の体力なのかという疑念もよぎりはしたが、とりあえず「疲労」を主題化したことによって、ラボの時よりもずっと深まりそうな気がした。もちろん「疲労」だけなら、ヤン・ファーブルがずっと前に『劇的狂気の力』でやっているし、最近では黒田育世と金森穣がやっている。しかし須加めぐみが反復横跳びを、ヘロヘロになりながらなおも(むしろ一層)リズミカルに持続しているのを見た時、「ダンスは疲労を超越する」という事実を目の当たりにして興奮したのだった。これは鍛えられた金森の肉体が疲労とともに崇高な輝きを獲得して行ったのとは違い、単に緩やかな「死」というか、「生」からの滑落に他ならない「疲労」の下り坂さえもダンスは冗長に引き伸ばし、さらにはその死の中で生のテンションを高め、それによってますます死を加速度的に手繰り寄せてしまうということなのである。この下り坂のスピード感が、須加めぐみのダンスだった。健康や体力の増進のための効果的なルーティーンが、より「楽」なフォルムへとずり落ちていく時、その「楽」というのは体力を最も消費しない効率的な反復という意味では必ずしもなく、文字通り「楽しい」反復という意味だ。つまりドリルの労苦が、リズムの快楽に座を明け渡す、そこでは生=ダンス=死なのである。ともかくこういう風にして体操とダンスが境を接しつつ、互いに鎬を削るということに注意を喚起し得ただけでも、この日本女子体育大学出身の三人組が体操服を着てダンスをやっていることの意味は大きい。なぜなら「体育」は、「演劇」や「音楽」と並んで、しばしばダンスが寄生して(されて)きたジャンルの一つなのであり、今日の日本こそは1920年代のドイツからギムナスティークの伝統を受け継ぐ特異な場所であるからだ。日本女子体育大学でダンスをやっていなければ、体操着で踊るダンスを作ろうなどということは考えない。だからピンクには、今後もこの「体育」の主題、ひいては日本の近代化という歴史的主題への批評を展開していってもらいたい。彼女らには実体験があるはずだ。ダンスが体育であり、体育がダンスであった「大学ダンス」の日々、その日本的歴史的経験を舞台において批評してもらいたい(疲労とリズムについていえば、中井正一を参照しないわけにはいかない)。またそれが、彼女らが(知らないフリをしつつ)仄めかしている「ブルセラ」および「コスプレ」の主題ともリンクすれば、日本の富国強兵の底流をなしてきたエロス(性)とその逸脱、つまりは高度経済成長とバブル崩壊を経た身体の産業化の過程に、一つの歴史観を提示することもでき、完璧である。
去年3月のトラム以降見ていなかったが、ラボの時に感じた黒沢テイスト(間の外し方、仏頂面)は割と稀薄になっていた。とはいえ中盤で出てくる虫取り網の扱い方などは、わざと実際の長さよりも短い(あるいは長い)イメージで振り回すことによって物を半コントロールの状態に置き、黒沢風の幼児的な乱暴さを見事に醸し出している。思い切り突き出した網の先端が何にも届かずにあえなく墜落しそのまま荒々しく床を引っ掻いたり、思わぬタイミングで先端がスッポ抜けて飛んで行ったり、見ているだけで自分の体が無造作に千切られて散乱するような感覚に襲われる。他方また、観客を正面切って無視するポーズ、わざとブスッとしてみせる黒沢的な感じは全体に漂っているのだけれども、しかしそうやって切った啖呵を60分以上も支え抜く力量(傲慢さ)は彼女らにはなくて、むしろその一生懸命ツッパッている健気さが同情を誘い、後に、やっぱりイライラさせられた。体操着からワンピースになってからの後半は、無音でスカした間を長引かせたりするのだが、全く成立していない。勢いやワンアイディアで20分ならともかく、無手勝流で60分はやはり難しいのだろう。しかし冒頭から前半までに限っていえば、かなり面白かったのである。ラボで見た『ぷわって突いたり くりって刺したり』同様、体操着のスポ根ネタで、今回は正面奥の壁の隙間で必死に腿上げをやったり、ジョギングしたり跳ね回ったりして体力をひたすら消耗してみせる。本当にこの程度の体力なのかという疑念もよぎりはしたが、とりあえず「疲労」を主題化したことによって、ラボの時よりもずっと深まりそうな気がした。もちろん「疲労」だけなら、ヤン・ファーブルがずっと前に『劇的狂気の力』でやっているし、最近では黒田育世と金森穣がやっている。しかし須加めぐみが反復横跳びを、ヘロヘロになりながらなおも(むしろ一層)リズミカルに持続しているのを見た時、「ダンスは疲労を超越する」という事実を目の当たりにして興奮したのだった。これは鍛えられた金森の肉体が疲労とともに崇高な輝きを獲得して行ったのとは違い、単に緩やかな「死」というか、「生」からの滑落に他ならない「疲労」の下り坂さえもダンスは冗長に引き伸ばし、さらにはその死の中で生のテンションを高め、それによってますます死を加速度的に手繰り寄せてしまうということなのである。この下り坂のスピード感が、須加めぐみのダンスだった。健康や体力の増進のための効果的なルーティーンが、より「楽」なフォルムへとずり落ちていく時、その「楽」というのは体力を最も消費しない効率的な反復という意味では必ずしもなく、文字通り「楽しい」反復という意味だ。つまりドリルの労苦が、リズムの快楽に座を明け渡す、そこでは生=ダンス=死なのである。ともかくこういう風にして体操とダンスが境を接しつつ、互いに鎬を削るということに注意を喚起し得ただけでも、この日本女子体育大学出身の三人組が体操服を着てダンスをやっていることの意味は大きい。なぜなら「体育」は、「演劇」や「音楽」と並んで、しばしばダンスが寄生して(されて)きたジャンルの一つなのであり、今日の日本こそは1920年代のドイツからギムナスティークの伝統を受け継ぐ特異な場所であるからだ。日本女子体育大学でダンスをやっていなければ、体操着で踊るダンスを作ろうなどということは考えない。だからピンクには、今後もこの「体育」の主題、ひいては日本の近代化という歴史的主題への批評を展開していってもらいたい。彼女らには実体験があるはずだ。ダンスが体育であり、体育がダンスであった「大学ダンス」の日々、その日本的歴史的経験を舞台において批評してもらいたい(疲労とリズムについていえば、中井正一を参照しないわけにはいかない)。またそれが、彼女らが(知らないフリをしつつ)仄めかしている「ブルセラ」および「コスプレ」の主題ともリンクすれば、日本の富国強兵の底流をなしてきたエロス(性)とその逸脱、つまりは高度経済成長とバブル崩壊を経た身体の産業化の過程に、一つの歴史観を提示することもでき、完璧である。