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ダンスとか。

ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Cプログラム:マギー・マラン特集

2009-10-02 | ダンスとか
▼『Umweltへの回帰 Maguy Marin: Retour sur "Umwelt"』(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2003年)
『死と乙女 La Jeune Fille et la Mort』(1979年)
『May B』(1981年)
『バベル・バベル Repetition de Babel Babel』(1982年)
『エデン Duo d'Eden』(1986年)
『コルテックス Cortex』(1991年)
『コッペリア Coppelia』(1993年)
『ラム・ダム・ラム Ram Dam』(1995年)
『Points de fuite』(2001年)
『Films chronophotographiques d'Etienne-Jules Marey et Georges Demeny』(1889-1893年)
『Repetition de Umwelt』(2006年)
『Umwelt』(2004年)
舞台記録とリハーサル映像からなるアンソロジー。『Umwelt』を擁護する意図が明確なので、各作品がどのように切り出されていて、またどの程度、全体の要約となっているのか、やや警戒してしまいはするけれども、少なくともアンソロジーとしての意図に関してはとても巧みに実現されているように思った。『May B』はよく舞踏との類似がいわれるけれども、集団のリズミカルな動きからすると、あの白塗りはむしろアフリカとか中南米の部族的な儀式から借用されているのではないだろうか(そういえば日本でも上演された『拍手は食べられない』の時も、南米の民衆運動のことが参照されていたような記憶がある)。以後の作品はどんどんフィクション性が薄れていきながら、どの作品からも「人間」を見ることへのジャドソン的な関心が感じられる。途中でいきなりマレーとドムニーのクロノフォトグラフィーが挿入され、そのまま『Umwelt』に入ると、まさにこれは「人」を「観察」するということ、いわば一種の「観相学」の実践なのだという風に納得させられる。これはこれで一つのマギー・マラン論ではあるのだろう。もっとも、リハーサルを見ていると、出演者たちは「観察」の対象として観客の前に姿を現すためだけにひたすら動き回って労働しているように見え、とてもダンスとはよべないような気もした。観客の視覚に奉仕するダンサーの身体…。ジャドソンからずいぶん後退してしまってるのでは、とも思った。
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