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ダンスとか。

14の夕べ/手塚夏子 『ただの「実験」がメディアになるのか?の実験』

2012-08-30 | ダンスとか
竹橋・東京国立近代美術館(企画展ギャラリー)。
ファシリテーター/手塚夏子、実験の作成と試行/井手実、田仲桂
出演者である二人が、福島の原発事故への自身の「反応」について検証するための一定のパフォーマンス的な行為を遂行し、そこに観客の一部を巻き込むことで「公開実験」とする。手塚本人はファシリテーターとして「実験」の進行にコメントを加えながら、観客も含めた場全体の方向付けを行う。「作品」と「ワークショップ」の間にあるような、既存の形式を大胆に逸脱した上演。近年の手塚夏子の考え方を要約すれば、民俗芸能のもつ「民俗的」な側面を、共同体にとって差し迫った出来事への何らかの集合的な「反応」として捉え直した上で、それを人為的に作り出そうとすることが手塚のいう「実験」なのだろう。つまり、民俗芸能としての「反応」は(定義上)集合的なものだが、それを人為的に(一個人の着想で)行おうとするからには何らかの共同体を前提とすることはできず、それゆえ、集合的な「反応」(≒民俗芸能)のアイディアの提示はそもそもそれが集合的な「反応」として成立するかどうかをめぐる「実験」であらざるを得ない。井手と田仲がそれぞれ提示する「実験」は、「怒りの思いを込めて何か(打楽器等)を叩く」であるとか、「大切な故郷の風景の写真に向かって祈る」であるとかいった、極端にシンプルな行為であり(「ただの『実験』」)、その発想の素朴さ、行為としての稚拙さは多くの観客を苛立たせたに違いない。しかし、独りよがりとも不毛な自己暗示とも取られかねないそうした行為を、やり場のない感情への「反応」として肯定し、受容するよう手塚は観客に促す。実験の場の共同性を支える手塚の言葉は強く、執拗で、切実な反応を示す他者を「理解」しようとするよりも、むしろ他者と共存することがどこまで自分にできるかを自問するように仕向ける。美的な判断はおろか既存のアートワールド的な価値すら顧慮することなく手塚独自の理論を純粋に具体化したものとして、この上演にはある種の迫力すら感じられる。しかし抽象的な論理を純粋に具体化しているために、「実験」は極端な素朴さを帯び、その素朴さがもはや現実に対する現実的な反応をする現実的な人々の価値観からはるかに遠い所に達してしまってもいる。デモで打楽器を叩くことは、単なる「反応」や、あまつさえ「芸能」などである以上に、常識的な意味での「抗議行動」なのであるし、故郷の写真に向かって祈る人と「共存」しようなどと考える前に、救済に向けて動こうとするのがごく常識的な考え方だろう。つまり「切実な反応」なるものが抽象的に仮構されることによって、非現実的なまでの「素朴さ」が「切実さ」として擁護される。しかし現実に向き合う現実的な人々の目からすれば、やはりそれは現実から遊離した「アート」の制度にのみ許される身振りに過ぎないのであり、にも関わらず上演は根拠なきアートではなく現実への切実な「反応」としての「民俗芸能」の価値観に根拠を置こうとし続ける。現実性から距離をとろうとすることと現実性に根差そうとすることの分裂が、非常に激しい矛盾として現れていたように思う。そもそもこの上演行為がいったい「何」であるのか(アートなのか、それとは別の何かなのか)が、上演行為自体によって問題化されていることも含め、いわゆるコンテンポラリーダンスの文脈では稀なほどコントロヴァーシャルな上演だった。社会的に議論を巻き起こす「前衛的なアート」の身振りさえもが既にクリシェとなり商品的価値を帯びかねない今日ここまでラディカルに考え、社会的な良識に疑問を投げかけられる可能性があったのかという驚き。
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