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ダンスとか。

大橋可也&ダンサーズ 『明晰の鎖』

2008-02-11 | ダンスとか
吉祥寺シアター。
全体は三部構成。第一部は、正面奥の搬入口が開放されており、通行人が頻繁に通りかかるのが見える。舞台では数人の出演者が、佇んでいたり、歩いていたり、大小の身振りを反復していたりするので、通行人が何かと思って覗き込む。するとおそらく、徐々に目が慣れるにしたがって、外からの自然光のみで照らし出された舞台の奥に居並ぶわれわれ観客の姿が見えてくるのだろう、通行人は自分たちの姿が逆に見られていることに気付くや否や立ち去っていく。ここは、今までに味わったことのない奇妙な体験だった。客席で微動だにせずにいる自分たちが、他者の眼前にただ「現われ」るということ、それは例えばパフォーマーのように主体的に何かを「見せる」こととも違うし、覗き見行為のようにして受動的に「見られる」こととも違う。ただ「いる」ことによって、相手の眼差しを奪い取り、縛り上げ、ついには退散させるに至る。幽霊っていうのは、きっとこういう感覚だろうと思った。というかほとんど幽霊になったような気分を味わった。ただ「いる」身体というのは、第二部で舞台下手に居座り続ける二人の男においても繰り返されていて、彼らも客席の方へ時々視線を向けて来たりするのだけれども、セッションハウスで見た『9(nine)』の一部のように、どこかまだコミュニケーションの気配が漂っている。それに対して冒頭の通行人と客席の関係は、見る者と見られる者がもはや直接コミュニケートできる距離にはなく、それゆえにずっと豊かな内容を含んでいるように感じられた(ただしこれは、おそらく昼公演に限った場合の話で、夜公演でどうなったのかは知らない)。またこの第一部では、出演者たちの些細な身振りの一つ一つが、通行人の動きとの対比によって、特殊な瑞々しさを湛えていた。どうということもない膝の屈曲、あるいは転倒が、軟らかい逆光に照らされて、いかにも不自然な、非日常的な行為として新鮮に、美しく浮き上がっていた。搬入口が閉じられてからの第二部、第三部は、好善社系(東雲舞踏など)に通有の薄さが猛然と展開。いつもの威嚇や威圧がない分、不愉快ではなかったが、単純に苦痛だった。スモークや、音楽(船橋陽)が強引に空気を煽ろうとして、派手な空回りを演じるところなど、『明晰さは目の前の一点にすぎない』の記憶がまざまざと甦ってきた。
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