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ダンスとか。

grow up! Dance プロジェクト サポートアーティスト公演

2009-04-24 | ダンスとか
浅草・アサヒ・アートスクエア。
▼石川勇太 『Time difference』
テーブルとイス、五人の若い男女。ダンスをするために演劇を使用し、演劇を避けるためにダンスを使う感じの、定型的なものとしてしか見ることができなかった。案の定、途中で大仰なトーンの「語り」が入ってくる。
▼捩子ぴじん 『sygyzy』
神村恵と福留麻里によるデュオ。巨大な木の板を福留が押して来て、反対側から神村がそれの上にドンッと乗った瞬間、吹き出してしまった。そのまま板は下がっていって、また戻って来ると、神村は仰向けに向きを変えていて、ツルッと床の上へ滑り落ちてくる。魚市場のようだ! これを交互に何度もやるのだが、ただし繰り返す意味はわからなかった。一方が木の柱を持ち、他方がその体を持ち上げて、床に立てられたもう一本の柱をコンッと倒すのも同様。物体が逡巡なく重力に従って転倒するさまは、そのあっけなさに虚を突かれるのだが、繰り返す意味がわからない。一回で十分であるようなところで、「ミニマリズム」が安易に標榜されているように思った(ちなみに「ミニマリズム」へ落とすという解決の仕方の残念さは、神村恵カンパニーの『山脈』本公演の時にもあった)。ミニマルにすると何か「凄み」のようなものを期待することは容易なのだが、どんな効果を意図しているのかがわからず、むしろ「凄む」という身振りに留まってしまっているように感じた。ところでミニマリズムとは別に、リテラリズムについては、石川作品とのコントラストによって、新しい知見を得た。照明や音響や衣装などといった装飾を排除して、即物性を露出しようとすることは、ありのままの現実の表層を剥き出しにすることではあるのだけれども、そのことがしばしば、上演行為というものの不自然さ(わざとらしさ、人為性)を消去することでもあるかのように混同される。しかし実はそれは逆で、リテラルにやるということは、上演行為の人為性を誇張するということなのだ。むしろ劇的行為のようなドラマを、上演(およびそれを見ること)のエクスキューズにするという選択が、上演行為というものの不自然さを曖昧化しようとするのに比べて、ここにはそういうエクスキューズがない。何から何まで人為的であり、だからこそそのフォーマリズムの枠組の内部で起こる「出来事」(=自然さ)に注意を集中することが許される。リテラリズムは「自然さ」のための人為的制度である。
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