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ダンスとか。

宮澤賢治/夢の島から

2011-09-17 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー

新木場・都立夢の島公園(多目的コロシアム)。
夜の公園に人が集まって非日常を経験している段階で60~70%くらいは満ち足りてしまっている。だから何を見てもインパクトがあり、騙されているんじゃないかというような気分になる。というか、それが「祝祭性」というものなのだろう。
▼ロメオ・カステルッチ 『わたくしという現象』
Romeo Castelucci, The Phenomenon Called I
ポンと即物的に「もの」を出すだけで劇的に見せてしまう、カステルッチの技は、ほとんど配置や色彩やタイミングなどといった造形感覚を頼みにした綱渡り的かつマジカルなものに違いない。それが、ものものしくすればするほどシラけた感じになってしまった今回は、思うに、入場時にグロテスクな行進を演じさせられてしまったり、イベント感が高まり過ぎてしまったわれわれ観客の気分が増長していた面もあった気がする。強気になってシラけると、馬鹿にしたくなるもので、いとも簡単に気が大きくなった祝祭的群衆の一部に自分がなっている、ということの怖さの方が自分の中では強かった。普通の劇場でも観客は群衆になるポテンシャルをはらんでいるが、制度によってほど良く押さえ込まれている。シラけるか、シラけないのか――劇場空間の力学が、いわば観客と、制度側に立つ芸術家の画力との間の暴力的な拮抗になりがちなのが、これまでに見たカステルッチの作品かも知れない。とりわけ「ヨーロッパ」という紋章の迫力で劇場空間を統制する、神秘化の力が、今回のような祝祭的群集の前では全然通じなかった、という風に思った。
▼飴屋法水 『じ め ん』
異質なテクストのモンタージュで、過去~現在~未来の関係がねじれ、見たことのない角度から時間を見た。演劇なのに、フィクションの要素がほとんどない、と感じられる。フィクションは、「作り事」というより単なる「可能性」として、つまり現実とあくまで地続きなものとしてのみ提示されるからだ。そのようにして「想像してみる」という行為に、集団で参加することに大きな意味を感じた。ソーシャルメディアが作り出すようなバラバラの個人でもなく、目的に応じて集まったデモのような一枚岩の群衆でもない状態。前半のカステルッチまでで出来上がった祝祭的な群衆に、知性と言論の力を与える手続き、とでもいえばいいのか。綺麗に繰り返される飴屋法水の前転が「アート」っぽかったのも、この際大した問題ではないと思えた。
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まことクラヴ 『東京立体図鑑』

2011-09-17 | ダンスとか
両国・江戸東京博物館。
本編開演前に常設展示をたっぷり見る時間が設けられていて、予想外に充実した展示を堪能。立地だとか意匠の面では垢抜けないとはいえ内容は決して悪くないのだ。シンガポールで見たアジア文明博物館を重ねながら見た。特別展示されていた、1945年の東京を撮影したカラー映像などは衝撃的で、忘れがたい。江戸時代とそれ以降の東京を隅々まで味わってから、ホールに着席し、舞台が始まる――かと思いきや、藤森照信と遠田誠の対談が映像で映し出され、さらに戦後の東京を知る方たちへのインタヴューなどが展開する。クオリティはともかくとして、正直興奮したのは、そうか今回はずっと街とかとりわけ東京という土地にこだわってきた遠田誠が自由になんでもやってしまうのだ、形式ではなくテーマにこそ忠実な仕方で、と思ったから。しかし結局はいわゆる「ダンスシアター」が始まってしまうのであり、すると、なぜダンスなのかがわからなかった。確かに、ダンスからできるだけ遠くに行ってしまおうとしているように見える。あたかも「初期のコンテンポラリーダンス」の熱を取り戻そうとでもするかの如く――しかしもはやかつてのようにダンスが戯れの対象ではなく、むしろ足枷に感じられてしまうのはどうしてなのだろう。「東京」という一般的な主題に対して、「ダンス」がうまく絡んでいかない。なぜか。
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