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ダンスとか。

Dance Seed 2009 ―わたくしの森羅万象―

2010-01-23 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
▼田嶋麻紀 『another~かたちなきもの~』
▼掛場一慶 『25.2』
▼岡村泰子 『14日、土曜日』
▼鈴木拓朗 『YAOYA』
きこり文庫や神村恵カンパニーで異彩を放つメガネダンサー岡村泰子の初作品ということでマニアックに見に行く。保母さんのような出で立ちと思ったら引越し作業中という設定のようだった。日常生活的なサウンドスケープの気だるい空気感。情景(イメージ)を作り出すということと、ダンスを作り出すということとの関係は、そもそもそこにいかなる必然的な関係づけがあり得るのかということも含め、一般的にいってあまり厳密には考えられていない。この作品の場合も、予想外に爽快な音を立てる箒のスイングは確かに魅力的だったとはいえ、情景や演技と、ダンスの間の断絶がかなり未処理のままに感じられた。もちろん調和が全てではなく、しかし少なくとも何らかの説得力ある連関、それも見たこともないような連関が見たいと思った。ところでダンスなるものの外延をめぐっては、掛場一慶の作品が興味深かった。ダンスと一般にはダンスと見なされていない行為の間を連絡する「ダンス性」としかいいようのないある質を見せているようだった。つまり、脚立を立て、カバンからCDとそのケースをいくつも取り出して床に不安定に積み重ねたり、ハンガーを脚立に次々とかけてベルトやコードを絡ませたりして、飄々と感覚的(美的)な配置を行っていくのだが、そのドローイングのような動きの軽いテンションにビートがかぶせられ、まさにその直観的な選択や判断の連続がダンス性を帯びる。そしていきなりロックとアニメーションが混ざったような、非常にあっさり目のダンスが挟まれ、また少し配置作業があって、出来上がりをためつすがめつ吟味するようにして去って行った。何かを作ること(制作行為)の中には多かれ少なかれいつもあるダンス性、という指摘そのものは明解であったと思う。反復行為がダンス性を帯びるというのは常識の範疇だろうけれども、「作る」行為がその即興性(閃き、躊躇、断定、図式化、フロー等々)の面においてダンスだということもいえるのだ。
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