中野・ウエストエンドスタジオ。
野美和子のカンパニー。出演は野、伊東歌織、河村篤則、林貞之。三方に黒の幕を張って作り出された奥行きの浅い空間に、赤と黒の衣装でキャラクター的に造形された四人が放たれ、マイム系のテクニックで意味不明なシーン群をのらりくらりと展開していく「活人画」風のパフォーマンス。人形っぽい動きは例の如くではあるのだが強迫的な反復とかではなくむしろポージング、ないしは演技であり、ダンス的に体を使う部分はごく僅かしかない。とにかく額縁の中に一個の完結したイメージ世界を立ち上げるということ。毛とか食べ物とかのフェチっぽいネタが現われ、幕の一部が開くとその奥にテーブルとイスがあって何かやっているのが見える。あるいは灰皿があちこちからヒュルッと滑り出してきて野の足を止め、気にはかかりつつもその場は無視して行ってしまう。見ていて面白かったのは、場面ごとにフォーカスが当たる人が変化し、その度に個々の「主観」みたいなものがきちんと見えつつ、その複数のパースペクティヴが一個の世界観において輻輳しているところだ。例えば河村がメインになった時に、ソロではなく他もみんな現われるのだが、主役+脇役、という風には見えない。河村が、河村自身にとっても不可解な他人たちに翻弄されたり関係を持ったりして、シーン全体は観客に向かって何も説明しない。映画でいうグランドホテル形式のように、一切は河村と、河村の主観(パースペクティヴ)の中に現われる「他者」(=世界)としてあり、そのように完結した複数のパースペクティヴが輻輳して、客席とは切れた額縁に収まっている。ダンスなのかどうかはさて置いてとにかく作りたいものを作った、という勢いは感じる。しかしこういうものが説得力を持つための唯一の方法は「完成度」ではないのかとも思う。つまりは三方を覆う幕がチープでエロ味を欠いていること、あるいは出演者のヴィジュアルにいかがわしさが足りないということ。様式を演じ切ろうとする人々がどことなく生活感を漂わせているというのは、いわばヴィジュアル系バンドのヴォーカルの口からうっかり御国言葉が漏れてファンを興醒めさせてしまうのに似ている。
野美和子のカンパニー。出演は野、伊東歌織、河村篤則、林貞之。三方に黒の幕を張って作り出された奥行きの浅い空間に、赤と黒の衣装でキャラクター的に造形された四人が放たれ、マイム系のテクニックで意味不明なシーン群をのらりくらりと展開していく「活人画」風のパフォーマンス。人形っぽい動きは例の如くではあるのだが強迫的な反復とかではなくむしろポージング、ないしは演技であり、ダンス的に体を使う部分はごく僅かしかない。とにかく額縁の中に一個の完結したイメージ世界を立ち上げるということ。毛とか食べ物とかのフェチっぽいネタが現われ、幕の一部が開くとその奥にテーブルとイスがあって何かやっているのが見える。あるいは灰皿があちこちからヒュルッと滑り出してきて野の足を止め、気にはかかりつつもその場は無視して行ってしまう。見ていて面白かったのは、場面ごとにフォーカスが当たる人が変化し、その度に個々の「主観」みたいなものがきちんと見えつつ、その複数のパースペクティヴが一個の世界観において輻輳しているところだ。例えば河村がメインになった時に、ソロではなく他もみんな現われるのだが、主役+脇役、という風には見えない。河村が、河村自身にとっても不可解な他人たちに翻弄されたり関係を持ったりして、シーン全体は観客に向かって何も説明しない。映画でいうグランドホテル形式のように、一切は河村と、河村の主観(パースペクティヴ)の中に現われる「他者」(=世界)としてあり、そのように完結した複数のパースペクティヴが輻輳して、客席とは切れた額縁に収まっている。ダンスなのかどうかはさて置いてとにかく作りたいものを作った、という勢いは感じる。しかしこういうものが説得力を持つための唯一の方法は「完成度」ではないのかとも思う。つまりは三方を覆う幕がチープでエロ味を欠いていること、あるいは出演者のヴィジュアルにいかがわしさが足りないということ。様式を演じ切ろうとする人々がどことなく生活感を漂わせているというのは、いわばヴィジュアル系バンドのヴォーカルの口からうっかり御国言葉が漏れてファンを興醒めさせてしまうのに似ている。