西麻布・Super Deluxe。
以前に安藤洋子とのデュオ『RITROVARE』を見たことがある。今回はソロで、壁にヴィデオ(ビルの屋上にシャツが吊るされているところなど)、何着ものシャツが一隅に用意されていて、これを脱いだり着たりする。空間を斜めに使って人やモノや映像など複数の要素が立体的に配置されているのに、客席からは見づらく、どれもが中途半端にしか立ち上がってこない。能楽師が読み上げるひどく抽象的で晦渋な哲学っぽいテクストが、日本語でありながらもはや(意味がわからないため)「音響」でしかなくなりつつ、バリバリに動けるシルヴェストリンのダンスを包み込む。ただしその動きは、速いが単調、質的な変化に乏しい。ダンサーが繊細かつ自在に動き回るためにも、また観客の知覚や動体視力が繊細さを失わないためにも、それなりに計算された環境(=演出効果)というものが必要なのではないかと思った。『RITROVARE』にはそれがあったが、ここにはない。
以前に安藤洋子とのデュオ『RITROVARE』を見たことがある。今回はソロで、壁にヴィデオ(ビルの屋上にシャツが吊るされているところなど)、何着ものシャツが一隅に用意されていて、これを脱いだり着たりする。空間を斜めに使って人やモノや映像など複数の要素が立体的に配置されているのに、客席からは見づらく、どれもが中途半端にしか立ち上がってこない。能楽師が読み上げるひどく抽象的で晦渋な哲学っぽいテクストが、日本語でありながらもはや(意味がわからないため)「音響」でしかなくなりつつ、バリバリに動けるシルヴェストリンのダンスを包み込む。ただしその動きは、速いが単調、質的な変化に乏しい。ダンサーが繊細かつ自在に動き回るためにも、また観客の知覚や動体視力が繊細さを失わないためにも、それなりに計算された環境(=演出効果)というものが必要なのではないかと思った。『RITROVARE』にはそれがあったが、ここにはない。