とうとうソポクレスの戯曲もこれで7篇目。
お名残おしゅうございます。
最後を飾る「ピロクテーテース」はそれに相応しい戯曲であるように思います。
「ピロクテーテース」はトロイア戦争中の物語です。
クリューセーにあるアテーナイの崩れた祭壇で犠牲を捧げよとの予言が、
アカイアー軍(ギリシア軍)に下されましたが、ヘーラクレースに随行したことのあるピロクテーテースだけがその場所を知っており、アカイアー軍を案内しますが、
そこでピロクテーテースは蛇に噛まれてしまいます。
傷が膿んで酷い悪臭を放ち、大変な苦しみに襲われて呻くピロクテーテースにアカイアー軍は耐え切れなくなり、レームノス島に彼を置き去りにしていきます。
しかし、トロイア戦争十年目、アキレウスが死んだ後、オデッセウスが捕らえてきたトロイアーの王子ヘレノス(カッサンドラとならぶ予言者)は次のような予言をします。
トロイアー軍を陥落させるためには、アキレウスの子ネオプトレモスがスキューロス島からギリシア軍に加わってアキレウスの鎧を纏って戦い、ピロクテーテースが自ら進んでレームノス島から復帰してヘーラクレースの弓矢で戦うことが必要だ。
ネオプトレモスは要請によりギリシャ軍に参戦しますが、問題なのはピロクテーテースです。
ピロクテーテースは自分を置き去りにしていったギリシア軍に対して、大変な恨みを持っており、自ら進んでギリシア軍に復帰するとはとうてい考えられません。
そこで、オデッセウスはネオプトレモスを伴ってレームノス島を訪れます。
オデッセウス、策士としての本領発揮ですね。
「ピロクテーテース」は、そんな恨み骨髄のピロクテーテースがどうやって自ら軍に復帰することになるのかという物語なのです。
アキレウスの死後ということはこの物語は
「アイアース」の後の出来事であるということがわかりますね。
戯曲中では大アイアースとして名前がチラリと出てきます。
また、ピロクテーテースの持つ弓矢というのは、もともとはヘーラクレースのもので、ヘーラクレースが自らを火葬にしようとしていた際、臆した息子ヒュロスの代わりにそこを通りかかったピロクテーテースが火をつけたことから礼として貰ったものなのです。
この火葬についてのいきさつは「トラーキーニアイ」にあるとおりです。
さらに、トロイアー戦争が「エーレクトラー」の父アガメムノーン(ギリシア軍の総大将)の弟スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーがトロイアーの王子パリスに奪われたことから始まっているというのは、皆さん良くご存知でしょう。
ですから、本書に収録されている戯曲は、どこかどうかで繋がっているわけですね。
こんがらがりましたか?
ピロクテーテースはレームノス島にただ一人置き去りにされ、
偶然通りかかる船影も見かけず、たった一人で大変な苦痛と寂しさに耐え、
アキレウスの武器を使ってなんとか飢えをしのいできました。
「ピロクテーテース」では、誰が自殺するわけでもなく、殺人が起こるわけでもありませんが、ピロクテーテースの陥っている状況は悲劇そのものであり、
しきりにギリシア軍に対して恨みごとを言っている彼が、本当に伝承のようにギリシア軍に復帰するのか、観客は興味津々であったにちがいありません。
ネオプトレモスはオデッセウスにプロクテーテースを騙して連れてくるようにと言いますが、ネオプトレモスはその策略にあまりいい気持ちを持っておらず、プロクテーテースと会話を交わしていくうちに彼を知り、その気持ちが強まってきます。
じきにオデッセウスが登場して、策略もばれてしまうんですが、その後のネオプトレモスの誠意ある行動に、頑なだったプロクテーテースも彼を信頼していきます。
が、それでもギリシア軍に復帰することは良しとはしません。
平行線を辿る彼らですが、そこで神となったヘーラクレースがデウス・エクス・マキナー(機械仕掛けの神)の役割として神々しく登場し、プロクテーテースに彼が行うトロイアー戦における輝かしい功績を予言します。
こうしてプロクテーテースはギリシア軍に復帰することにようやく同意するのです。
オデッセウスは損な役柄を与えられていて、最後には弓矢さえあればいいと言い放つほどですが、オデッセウスも命令を全うしようと躍起になっているだけであるといえるでしょう。
でも、やはり嫌なヤツって思っちゃいます。
ギリシア悲劇を読んでいて感心するのは、英雄を英雄として崇拝していないというところです。
どんなに功績があろうと、彼らは欠点が必ずある人間であり、
良いところも悪いところもそのまま受け入れている。
これは、ギリシアの神々が、恋をしたり嫉妬したりする神だからなのかもしれませんね。
ソポクレース II ギリシア悲劇全集(4)
お名残おしゅうございます。
最後を飾る「ピロクテーテース」はそれに相応しい戯曲であるように思います。
「ピロクテーテース」はトロイア戦争中の物語です。
クリューセーにあるアテーナイの崩れた祭壇で犠牲を捧げよとの予言が、
アカイアー軍(ギリシア軍)に下されましたが、ヘーラクレースに随行したことのあるピロクテーテースだけがその場所を知っており、アカイアー軍を案内しますが、
そこでピロクテーテースは蛇に噛まれてしまいます。
傷が膿んで酷い悪臭を放ち、大変な苦しみに襲われて呻くピロクテーテースにアカイアー軍は耐え切れなくなり、レームノス島に彼を置き去りにしていきます。
しかし、トロイア戦争十年目、アキレウスが死んだ後、オデッセウスが捕らえてきたトロイアーの王子ヘレノス(カッサンドラとならぶ予言者)は次のような予言をします。
トロイアー軍を陥落させるためには、アキレウスの子ネオプトレモスがスキューロス島からギリシア軍に加わってアキレウスの鎧を纏って戦い、ピロクテーテースが自ら進んでレームノス島から復帰してヘーラクレースの弓矢で戦うことが必要だ。
ネオプトレモスは要請によりギリシャ軍に参戦しますが、問題なのはピロクテーテースです。
ピロクテーテースは自分を置き去りにしていったギリシア軍に対して、大変な恨みを持っており、自ら進んでギリシア軍に復帰するとはとうてい考えられません。
そこで、オデッセウスはネオプトレモスを伴ってレームノス島を訪れます。
オデッセウス、策士としての本領発揮ですね。
「ピロクテーテース」は、そんな恨み骨髄のピロクテーテースがどうやって自ら軍に復帰することになるのかという物語なのです。
アキレウスの死後ということはこの物語は
「アイアース」の後の出来事であるということがわかりますね。
戯曲中では大アイアースとして名前がチラリと出てきます。
また、ピロクテーテースの持つ弓矢というのは、もともとはヘーラクレースのもので、ヘーラクレースが自らを火葬にしようとしていた際、臆した息子ヒュロスの代わりにそこを通りかかったピロクテーテースが火をつけたことから礼として貰ったものなのです。
この火葬についてのいきさつは「トラーキーニアイ」にあるとおりです。
さらに、トロイアー戦争が「エーレクトラー」の父アガメムノーン(ギリシア軍の総大将)の弟スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーがトロイアーの王子パリスに奪われたことから始まっているというのは、皆さん良くご存知でしょう。
ですから、本書に収録されている戯曲は、どこかどうかで繋がっているわけですね。
こんがらがりましたか?
ピロクテーテースはレームノス島にただ一人置き去りにされ、
偶然通りかかる船影も見かけず、たった一人で大変な苦痛と寂しさに耐え、
アキレウスの武器を使ってなんとか飢えをしのいできました。
「ピロクテーテース」では、誰が自殺するわけでもなく、殺人が起こるわけでもありませんが、ピロクテーテースの陥っている状況は悲劇そのものであり、
しきりにギリシア軍に対して恨みごとを言っている彼が、本当に伝承のようにギリシア軍に復帰するのか、観客は興味津々であったにちがいありません。
ネオプトレモスはオデッセウスにプロクテーテースを騙して連れてくるようにと言いますが、ネオプトレモスはその策略にあまりいい気持ちを持っておらず、プロクテーテースと会話を交わしていくうちに彼を知り、その気持ちが強まってきます。
じきにオデッセウスが登場して、策略もばれてしまうんですが、その後のネオプトレモスの誠意ある行動に、頑なだったプロクテーテースも彼を信頼していきます。
が、それでもギリシア軍に復帰することは良しとはしません。
平行線を辿る彼らですが、そこで神となったヘーラクレースがデウス・エクス・マキナー(機械仕掛けの神)の役割として神々しく登場し、プロクテーテースに彼が行うトロイアー戦における輝かしい功績を予言します。
こうしてプロクテーテースはギリシア軍に復帰することにようやく同意するのです。
オデッセウスは損な役柄を与えられていて、最後には弓矢さえあればいいと言い放つほどですが、オデッセウスも命令を全うしようと躍起になっているだけであるといえるでしょう。
でも、やはり嫌なヤツって思っちゃいます。
ギリシア悲劇を読んでいて感心するのは、英雄を英雄として崇拝していないというところです。
どんなに功績があろうと、彼らは欠点が必ずある人間であり、
良いところも悪いところもそのまま受け入れている。
これは、ギリシアの神々が、恋をしたり嫉妬したりする神だからなのかもしれませんね。
ソポクレース II ギリシア悲劇全集(4)
当時のギリシアの観衆もそれぞれお気に入りのキャラクターがいて、登場すると喝采したと想像すると楽しくなります。
ところで、デウス・エクス・マキナー、現代小説批評でもよく使われる概念ですね。よく考えると凄い装置です。
デウス・エクス・マキナーの役割は、調停役であるようですが、「ピロクテーテース」では、どちらかといえば具体的な未来像を予言して導いているようでした。
つまり、オデッセウスやそのほかのギリシア軍との和解を促しているわけではありません。
そこがソポクレスの面白いところですね。
「言われたように従います」というピロクテーテースの一言をハラハラして見守っていた観客はきっと喜んだに違いありません。
どうやら、アテーナイ市民はスパルタを嫌っていたようで、アガメムノーンやメラオーネスが登場すると足踏みや怒号でその居丈高な発言を封じ込めようとしたのではないだろうかと「アイアース」の解説にありました。
そういう観客の反応というのを考えながら読むというのも、ギリシア悲劇の楽しみの一つですね。
近代になると、神ではなく”都合のいい偶然”とか”無意識=深層心理”が取って代わるのでしょうが、要はいかにおもしろく(その要件としての”リアリティ”)ストーリィを展開するかで、観客or読者の感じるリアリティとは何かということでしょうか。
現代のメタ小説になると登場人物が作者の存在を意識したりして、だんだんややこしくなってきますね。
確かに、神様の言葉であっさりハイそうですかと言ってしまうピロクテーテースにご都合主義を感じる人もいるでしょうね。
ギリシア悲劇における神の占める位置とか、予言の重要性を理解してくると、それほどご都合主義とは感じないんですよ。
どうしようもないからデウス・エクス・マキナーが出てくるんじゃなくて、デウス・エクス・マキナーを出すためにそういう状況を作り出しているっていうのかな、そこが詩人の腕の見せどころなんでしょう。
デウス・エクス・マキナーについては、まだよく分かっていないというのが正直なところ。
勉強します。
ギリシア悲劇(ソポクレスの戯曲7篇)と易経という東西の古典を対比させ両者の運命の受け入れ方の違いを解釈した本。
学術的な正しさは怪しいが、その着想の面白さから純粋に読み物としてはとても面白い。
是非一読して見ては?
ギリシア悲劇について、新しい視点で眺めることができます。
易経入門という題名が着いてますが、あくまで解釈のツールとして使っているだけで、怪しい占い本ではないのでご安心を。
超お勧めな本です。