くろにゃんこの読書日記

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エウリーピデース「ヘーラクレイダイ」

2007年01月04日 | ギリシア悲劇とその周辺
ヘーラクレイダイとは、ヘーラクレースの子供たち、
あるいはその末裔という意味が含まれる言葉で、「ヘーラクレイダイ」は、半神ヘーラクレースが自らを火葬にして天に昇り、神となった後の物語。
火葬になるまでのいきさつは、
ソポクレース「トラーキーニアイ」に詳しいのでそちらを参照してください。
ヘーラクレースの死後、ヘーラクレースの子供達、及び、ヘーラクレースの母デーイアネイラ、ヘーラクレースの弟の子であるイオラーオスらは、ミュケーナイ王エウリュステウスに追われる身となり、国の力関係によりギリシアの各地から亡命を拒否され、辿り着いたのがマラトーン。
そこで、嘆願者として祭壇に座り込みます。
嘆願者については、アイスキュロス「ヒケティデス」にありますので、そちらをみていただければ分かるとおり、嘆願者の受け入れには、時として戦争を覚悟しなければならず、受け入れる側の王は、難しい選択を迫られるのです。
また、嘆願者を受け入れるアテーナイは、民主的な開かれた社会であること、弱者を救済できる立場にあることを悲劇のなかで謳っています。
観客はアテーナイ市民ですから、そこに誇らしさを感じるわけですし、詩人も、そうあれかしとメッセージを送っているんですね。

嘆願者を受け入れたデーモポーンは、次に待ち構えるエウリュステウス(スパルタ)との戦いに臨むわけですが、「デーメーテールの御娘コレー様に乙女を、それも高貴なる父親を持つ乙女を捧げよ」との神託が下され、またもやここに悩みの種ができてしまいます。
自分の愛する子供を差し出すことは出来ないし、ましてや市民の子などもってのほか、
非難が及ぶに違いない。
アイスキュロス「ヒケティデス」のように簡単に市民が納得しているわけではないのですね。
そこで、デーモポーンはイオラーオスのいる神殿に赴き、悩みを打ち明けます。
自分の身を敵側に引き渡そうと申し出るイオラーオスに、
高貴な申し出だが何もならないと答え、そうこうしているうちに、ヘーラクレースの娘、マカリアーが自分の身を捧げましょうと申し出ます。
この志は、マカリアーが高貴な生まれであり、それに見合った気高い振る舞いであると同時に、アイスキュロス「アガメムノーン」のイービゲネイアのような、
後に禍根を残すことのない自己犠牲であるといえます。
しかし、いくら気高い精神の持ち主といえど恐怖や不安はあります。
イオラーオスの腕の中で死にたいという希望を述べ、
それが敵わぬなら女の中で死にたいと望みます。
が、この後、マカリアーがどの時点で犠牲にささげられたのか、
はっきりしたことは明示されません。
アルクメーネーにことの次第を告げる伝令の言葉のなかで、
戦場で生贄の喉から吉兆の血をほとばしらせたというくだりがあるところをみると、
マカリアーはここで犠牲になったと考えられます。
このマカリアーの犠牲からは、エウリーピデースの神託への批判があるように思われますが、それほど顕著ではありません。

マカリアーが犠牲となるべく立ち去った後、アルクメーネーとイオラーオスのもとにヒュロス(ヘーラクレースの息子、年長の兄弟とともに別行動をしていた)の従者があらわれ、ヒュロスが同盟軍を率いてアテーナイ軍とともに軍を配置していると知らせます。
知らせを聞いたイオラーオスは、かつてヘーラクレースとともに戦場に立っていた時を思い出したのか、いてもたってもいられず従者と共に戦場に赴きたいと言い出します。
アルクメーネーや従者が止めるのも聞かず、どうしても行きたいと言い張るイオラーオスに根負けした従者は、神殿内に戦利品として奉納されていた武具を持たされて、イオラーオスとともに戦場へ向かいます。
この場面は、先のマカリアーが決意する場面とはうって変わって、コミカルな喜劇が演じられます(かなり笑えます)が、これは戦場でヘーラクレースとその妻ヘーベーに一日だけ若返らせたまえとイオラーオスが祈ると、ふたつの星が馬のくびきの上に降り、暗い雲の中から若々しい姿を現して、見事エウリュステウスを捕らえるという前フリであり、老人らしさを披露すればするほど、功績は輝かしいものとなるのです。

エウリュステウスはこうして若々しい姿をした老兵に捕らえられることとなり、
その身柄はアルクメーネーに差し出されます。
アルクメーネーからすれば、息子ヘーラクレースに難業を課し、ヘーラクレイダイに追放の憂き目をみさせたエウリュステウスは、憎んでも憎みきれない相手であり、当然死を要求します。
ところが、アテーナイ市民からなるコロスは、生きたまま戦場で捕らえた捕虜は殺すことを禁じられているという決まりをアルクメーネーに思い出させます。
それでも、アルクメーネーの怒りはおさまらず、自身の手で殺し、その後にこの国の決まりに従いましょうと言い、穢れを一人で被る覚悟を決めます。
それを聞いていたエウリュステウスは、嘆き悲しむこともなく死を覚悟し、公正さを示したアテーナイには死んで守護神になることを約束します。
これは、ヘーラクレイダイに怒りをもつエウリュステウスの遺骸をアテーナイの地に埋めることによって、ヘーラクレイダイ(スパルタ)をアテーナイに寄せ付けないというもので、ほかにもソポクレース「コローノスのオイディプース」に、オイディプースが死して守護神となるエピソードがあります。

ひととおり、ストーリィを追いかけてみましたが、
「ヘーラクレイダイ」は、たくさんの要素を一つの悲劇の中に詰め込んでいるという印象がありますし、エピソードとエピソードの間のつながりの薄さを感じます。
脱落の大きさや後代の挿入部分があるのではないかという議論もあるようですが、
アイスキュロス「縛られたプローメーテウス」や「テーパイを攻める七人の将軍」に感じたような違和感はありませんでした。
高貴さやその振る舞いを登場人物に強調させているわりには、
アルクメーネーにはその高貴さと抑えることのできない憎しみとの並存を描いており、そこにはエウリーピデースらしい批判の精神があるように思います。
また、当時のアテーナイがスパルタとかなり緊迫した状態にあり、神に戦勝を祈願し、アテーナイ市民の気持ちを高めるのが目的であるとすれば、ディオニューシア祭の性質とを考え合わせて、これはこれでいいのではないかと思います。

エウリーピデース I ギリシア悲劇全集(5)




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