「さよなら。」
そう云ってあのいけすかない男は、はらはらと沢山の泪を撒き散らしながらわたしを見た。男は、冷たい掌をわたしの髪と頬にそっと当てるから、わたしはすぅと身体が寒くなる思いがした。窓から差し込む、薄曇りだからこそ眩しい光をその背に纏わせた男はこれまたどこまでも眩しい白いシャツを着て、その姿がまるで身体から氷のように冷たい光を発しているように見えた。うっかりとその姿を「きれいだ」と思ってしまったわたしは、少しだけ忌々しい気分になった。
もう幾つ前の夜のことだったか、わたしは同じような光景を見た。
その時も、眩しい光を背に負ったあの優しい男が、声にならない嗚咽を震わせながら、暖かい泪をわたしの顔やそこらに落とした。わたしはあの時ほど、この眼を閉じることができたならと願ったことはない。しかし今は、眼を閉じることすら惜しいと感じる程に、白に溶けかかる男の姿を見詰めている。
わたしは知った。
この眼を閉じることができたらよいのにと願う自分の気持ちや、身勝手で切実な泪に濡れる人間の姿はとても珍しく、とても痛くて、だからこそとても美しい。
どのみち眼を閉じることも顔を逸らすこともできないのだし、「人形」であるわたしには人間が心や痛みと呼ぶ類のものを持ち得ないのだろうけれど、恐らくそれにかなり近しいと思われる何やらきりきりした忌々しさを感じるから、それを徹底的に味わわなくて何になろう。それが「人形」というもののさだめであるならば。
溢れ落ちる泪に、男は眼鏡を外した。眼を通じてわたしを喰らい尽くさんとするかのようにその細い眼を見開き、瞬きもせぬまま泪越しにわたしを見詰めた。男の眼の中にわたしの姿が映る。
あぁ、わたしはこのような顔をしていたのだ。
わたしはこのように冷ややかで残酷な顔をしていたのだ。
あの優しかった男もこの眼鏡野郎もまるで申し合わせたかのように優しくにやけた細い眼をしてわたしに微笑みかけていたから、てっきりわたしもそれと似たような顔をしているものだと思っていた。
いまはじめて、わたしは自分のことが少し嫌いになった。
人形とは、なんと無慈悲ないきものなのだろう。そして、それぞれの真剣な思惑によって「さよなら」を云う人間とは、なんと身勝手ないきものなのだろう。どれだけの情愛に満ち溢れていたとしてもだ。
数日ののち、あの優しくて優雅な眼をした男が迎えにきて、わたしは懐かしくも狭苦しい部屋に詰め込まれた。その部屋は、いつかと同じ珈琲のような香りがした。
わたしは心の中でその珈琲にも似た香りを脇へと追いやった。
わたしの衣服に微かに残る紅茶の香りが浸蝕されてしまう。
暗い部屋の中に、眼鏡野郎を包んでいたあの白い光がぼんやりと浮かぶ。
硝子の眼。
硝子の眼 Ⅱ。
硝子の眼 Ⅲ。
硝子の眼 Ⅳ。
硝子の眼 Ⅴ。
硝子の眼 Ⅵ。
硝子の眼 Ⅶ。
硝子の眼 Ⅷ。
硝子の眼 Ⅸ。
硝子の眼 Ⅹ。
硝子の眼 XI。
硝子の眼 XII。
そう云ってあのいけすかない男は、はらはらと沢山の泪を撒き散らしながらわたしを見た。男は、冷たい掌をわたしの髪と頬にそっと当てるから、わたしはすぅと身体が寒くなる思いがした。窓から差し込む、薄曇りだからこそ眩しい光をその背に纏わせた男はこれまたどこまでも眩しい白いシャツを着て、その姿がまるで身体から氷のように冷たい光を発しているように見えた。うっかりとその姿を「きれいだ」と思ってしまったわたしは、少しだけ忌々しい気分になった。
もう幾つ前の夜のことだったか、わたしは同じような光景を見た。
その時も、眩しい光を背に負ったあの優しい男が、声にならない嗚咽を震わせながら、暖かい泪をわたしの顔やそこらに落とした。わたしはあの時ほど、この眼を閉じることができたならと願ったことはない。しかし今は、眼を閉じることすら惜しいと感じる程に、白に溶けかかる男の姿を見詰めている。
わたしは知った。
この眼を閉じることができたらよいのにと願う自分の気持ちや、身勝手で切実な泪に濡れる人間の姿はとても珍しく、とても痛くて、だからこそとても美しい。
どのみち眼を閉じることも顔を逸らすこともできないのだし、「人形」であるわたしには人間が心や痛みと呼ぶ類のものを持ち得ないのだろうけれど、恐らくそれにかなり近しいと思われる何やらきりきりした忌々しさを感じるから、それを徹底的に味わわなくて何になろう。それが「人形」というもののさだめであるならば。
溢れ落ちる泪に、男は眼鏡を外した。眼を通じてわたしを喰らい尽くさんとするかのようにその細い眼を見開き、瞬きもせぬまま泪越しにわたしを見詰めた。男の眼の中にわたしの姿が映る。
あぁ、わたしはこのような顔をしていたのだ。
わたしはこのように冷ややかで残酷な顔をしていたのだ。
あの優しかった男もこの眼鏡野郎もまるで申し合わせたかのように優しくにやけた細い眼をしてわたしに微笑みかけていたから、てっきりわたしもそれと似たような顔をしているものだと思っていた。
いまはじめて、わたしは自分のことが少し嫌いになった。
人形とは、なんと無慈悲ないきものなのだろう。そして、それぞれの真剣な思惑によって「さよなら」を云う人間とは、なんと身勝手ないきものなのだろう。どれだけの情愛に満ち溢れていたとしてもだ。
数日ののち、あの優しくて優雅な眼をした男が迎えにきて、わたしは懐かしくも狭苦しい部屋に詰め込まれた。その部屋は、いつかと同じ珈琲のような香りがした。
わたしは心の中でその珈琲にも似た香りを脇へと追いやった。
わたしの衣服に微かに残る紅茶の香りが浸蝕されてしまう。
暗い部屋の中に、眼鏡野郎を包んでいたあの白い光がぼんやりと浮かぶ。
硝子の眼。
硝子の眼 Ⅱ。
硝子の眼 Ⅲ。
硝子の眼 Ⅳ。
硝子の眼 Ⅴ。
硝子の眼 Ⅵ。
硝子の眼 Ⅶ。
硝子の眼 Ⅷ。
硝子の眼 Ⅸ。
硝子の眼 Ⅹ。
硝子の眼 XI。
硝子の眼 XII。