庭がすきだ。
庭といっても、貴族趣味な寺などにあるそれではなく(それはそれで、勿論芸術的見地から大層好きである)、自らの家に付属しているやつだ。
幼い頃、実家には幼い私が十分満足できる程度の広い庭があった。芝生に寝転がることができたし、木と遊ぶこともできた。当時あった樹木や下草を私はよく覚えている。
椿、山茶花、木蓮、紅葉が三種、黒松、つげ、躑躅、皐月、モチノキ、庭梅、蝋梅、百日紅、紫陽花、桔梗、南天、蘇鉄、竹のなにか、万年青、龍の鬚(ジャノヒゲ)、羊歯、苔・・・
記憶にあるだけ、及び名前が判るだけでこれだけある。
子供の頃は目線がとても低いし近い。かつて庭にあった木を想起する際には、大まかな木の形状や色だけでなく樹皮の様子や触り心地、葉の光沢や僅かな重さの違い、花や実の様子まで事細かに記憶している。残念ながら、大人になってから知った木々について、同じように想起することはできない。大人になるということは、そういうことではないはずだとかねて思っていたにも拘わらず、自分の目が貧しくなってゆくことに一抹の侘しさと危機感を感じることは、否定できない。
庭の木々には、色々ないきものがきた。蝉や赤とんぼを手で捕まえられるようになったし、カミキリムシの斑点や触覚の形状に惚れ惚れして、なぜこれが害虫と言われるのかをいぶかしんだ。こんなに綺麗なのに。
夕刻になると、食餌となる小さな虫が地面近くを飛ぶのに合わせて、蝙蝠が降りてくる。小石を空に投げ上げて、その石に途中まで蝙蝠がついて来る空中滑降を愉しんだ。決して自分の手の届く高さまでは降りてきてくれないところが、よかった。
四季折々に何らかの花が咲くようにはなっていたけれども、私は夏の庭がいちばん好きだった。ホースを掲げて庭に水を撒くと、夏だけにしか感じられない庭の生きた香りがぶわりと辺りに充満する。土の香りとも木の香りとも違う、何にも似ていないその夏の匂いは私にとって生命の匂いそのものだった。庭は水と霧を纏ってきらきらとうるさいくらいに輝いた。水撒きを終えるといつも、庭と同じようにびしょびしょの露にまみれる私は決まって叱られた。
いつか自分が庭を持つことがあるのなら、黒松と紅葉が欲しい。叶うならば苔と石も欲しい。
大人になった私は、たとえ広い庭があってもそこで転げたり遊んだりすることはなく、その空間の中で遊んでいる幼い私の姿を脳裡に描きながら、硝子越しに庭を眺めるにすぎないだろう。幼い私を安心して遊ばせてやれるだけの空間、幼い私が生命の匂いを覚えたあの場所を、心の中ばかりでなく物理的にも構築したいだけなのだ。
庭は、子供だった頃の私を飼う場所。
庭といっても、貴族趣味な寺などにあるそれではなく(それはそれで、勿論芸術的見地から大層好きである)、自らの家に付属しているやつだ。
幼い頃、実家には幼い私が十分満足できる程度の広い庭があった。芝生に寝転がることができたし、木と遊ぶこともできた。当時あった樹木や下草を私はよく覚えている。
椿、山茶花、木蓮、紅葉が三種、黒松、つげ、躑躅、皐月、モチノキ、庭梅、蝋梅、百日紅、紫陽花、桔梗、南天、蘇鉄、竹のなにか、万年青、龍の鬚(ジャノヒゲ)、羊歯、苔・・・
記憶にあるだけ、及び名前が判るだけでこれだけある。
子供の頃は目線がとても低いし近い。かつて庭にあった木を想起する際には、大まかな木の形状や色だけでなく樹皮の様子や触り心地、葉の光沢や僅かな重さの違い、花や実の様子まで事細かに記憶している。残念ながら、大人になってから知った木々について、同じように想起することはできない。大人になるということは、そういうことではないはずだとかねて思っていたにも拘わらず、自分の目が貧しくなってゆくことに一抹の侘しさと危機感を感じることは、否定できない。
庭の木々には、色々ないきものがきた。蝉や赤とんぼを手で捕まえられるようになったし、カミキリムシの斑点や触覚の形状に惚れ惚れして、なぜこれが害虫と言われるのかをいぶかしんだ。こんなに綺麗なのに。
夕刻になると、食餌となる小さな虫が地面近くを飛ぶのに合わせて、蝙蝠が降りてくる。小石を空に投げ上げて、その石に途中まで蝙蝠がついて来る空中滑降を愉しんだ。決して自分の手の届く高さまでは降りてきてくれないところが、よかった。
四季折々に何らかの花が咲くようにはなっていたけれども、私は夏の庭がいちばん好きだった。ホースを掲げて庭に水を撒くと、夏だけにしか感じられない庭の生きた香りがぶわりと辺りに充満する。土の香りとも木の香りとも違う、何にも似ていないその夏の匂いは私にとって生命の匂いそのものだった。庭は水と霧を纏ってきらきらとうるさいくらいに輝いた。水撒きを終えるといつも、庭と同じようにびしょびしょの露にまみれる私は決まって叱られた。
いつか自分が庭を持つことがあるのなら、黒松と紅葉が欲しい。叶うならば苔と石も欲しい。
大人になった私は、たとえ広い庭があってもそこで転げたり遊んだりすることはなく、その空間の中で遊んでいる幼い私の姿を脳裡に描きながら、硝子越しに庭を眺めるにすぎないだろう。幼い私を安心して遊ばせてやれるだけの空間、幼い私が生命の匂いを覚えたあの場所を、心の中ばかりでなく物理的にも構築したいだけなのだ。
庭は、子供だった頃の私を飼う場所。
>庭は、子供だった頃の私を飼う場所。
この一文には、ゾックとしました。幼いご自身を脳内で庭で遊ばせると言う発想も幻想的で素敵です。マユさんのこのような文章は、あいかわらず天下一品ですね。
どうやらアクセス障害のストレスで脳までやられたようです。(苦笑)
失礼いたしました。
だから、都内の庭園はよく行きます。小石川後楽園、六義園、庭園美術館が昔の私が散策(デート?)に使うところ。静かだし、ぼお~っとしているのにもいい。初デートが同じ場所だと、いろんな人と行っても後で話す時に場所を間違えたりしなくていいし(おいおい)。
脇に人がいてもいなくても、一人で文庫本持ってぶらつくのにもいいしね。都内まで行くのが面倒な時は、自宅近くの城址公園のところでゴロゴロ寝ていたりします。山桜が咲いたりして、ここも過ごし易いし。
苔むした庭ってのも大好きですが都内とかではあまり見ないなあ~。京都にでも行かないと。
ただ不思議なことに、あまり子供頃に庭で遊んだ覚えがない。体が弱くてあまり外で遊ばなかったしなあ。過保護に育てられたもんで、保健室の思い出の方が多かったりする。小さな頃から年上の女性に甘え切って生きてきた人生だったりする。よくいる生意気なお子様時代だったのだろう…。
と何故かマユさんの文章に触発されてしまいました…。
いろいろお忙しいとは思いますが、あまり無理をなさらずに、体調には気をつけてくださいね。
それでは、よろしくお願いいたします。
虹をつくったり、蝉の抜け殻を集めたり、楓にぶら下がったり、とても土臭い思い出です。
三寒四温の日が続きますが、体調にはご注意ください☆
本日は、大学の研究室からコンニチワ。
春は眠い。遠路はるばる眠い。
そして茨城はやはり寒い。
ネットカフェからの雑文にも拘わらず、今回もお褒め頂き至極恐縮です。
私も「龍の髭」のほうがしっくりきます。
あの葉の質感もさりながら、自然界にあるまじき宝石を思わせるあの青い実がまた素敵なのです。
実の青い表皮を剥くと、中からこれまた真珠のように柔らかくけぶった乳白色の種が・・・
まだ鮮やかなうちは綺麗に輝いているのに、時間が経つとすぐに乾いて、黄ばんだただの種になってしまう。
「有機的ものの美しさは、いのちあるときだけなのだ。」
ということを幼心に知りました。
有料の庭のなかでは、六義園が最もすきかもしれません。ご近所でしたし。小石川植物園は、大好きなのですが広すぎます(笑)浜離宮も、潮入りなところが好きですが、如何せん過保護に管理されすぎているのがどうも。
寺の庭は、長らく「けっ、貴族趣味め。」という思いから、好きになるのに時間がかかりました。
しかし今では石庭でも十分妄想を働かせることができるようになりました。
まてよ。
庭をデートコースにしたことは今まで一度も・・・
>pita さま
蝉の抜け殻にも「できのいいやつ」「わるいやつ」があるのですよね、子供には(笑)
私は、蜘蛛が巣を張る一部始終を見つめていたこともあります。
あの夏の昼間、夏の夕暮れ時の水遣りは、どこか儀式めいた意味合いを持った、掛け替えのない素敵な時間でありました。
じゃなければ、オペラ座の怪人見てお食事かな。
結局、自分の好きなことばっかりしてたような・・・そうか!だからもてないのか(ガッカリ)。
静かにお話するには、いいですよ~。喫茶店やバーよりも。ただ、お昼からディープな話題になってしまう恐れがありますが・・・。
私も昼から結構かますクチなのでそのへんは(笑)
ですが、美術館内でもほぼ必ず連れを置き去りにするので、ひとりあそびのほうが多かったような。
今度機会があれば(笑)、是非ともトライします。